平野に宿るもの

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 初めて岐阜の駅におり立った時、思わず笑ってしまった。 笑う、というより、にっこりした、というのがもっと近いかも知れない。何が原因なのかはいつもわからない。しかし、改札を出て駅前に出た瞬間、そこにあった風景全てが何か胃袋の裏の方からこみあげるようなあの不思議な感覚をよびさましてくれた。

 駅のほぼ正面、ハルピン通りと呼ばれる繊維問屋街には、間口三間ばかりの小店に並んで東京なら間違いなくここ十年で改築され尽くしたような茶色い雑居ビルが古い軍艦のように憮然と立っている。背広姿で大きな風呂敷包みを首のうしろにとりつかせたまま猫背で歩くオヤジがいる。ホルモンバランスが不安定なまま、しかし元気に動くことによってそれをなんとか保っているような顔つきの高校生たちがかたまりで通り過ぎる。あずきを炊くような匂いが湿気を含んで流れる。不精ひげのやせたオヤジがからし色のジャンパーで立っている。路地というほど狭くもないが、しかし明らかにクルマ以前のものさしでしつらえられたその通りの奥はまた表通りにつながっている。使い込んだ石畳に光る市電の軌道は大きく曲線を描いて通りの向こうに消え、その曲がるあたりから姿を見せながらやってくる軽自動車と小型タクシーは信号待ちももどかしいのかふかし気味のアクセルで黄色信号を突っ切って通り過ぎる。表通りでは白い新築ビルに入った薬の安売り店が派手な色合いの蛍光マジックの値札をひらめかせ、アルミの窓枠を鈍く光らせた乗り合いバスが歩道に作られた屋根の軒先をかすめて行く。割れ加減のスピーカーから流れるとぼけた童謡にうながされて横断歩道を渡りながら眼をあげれば、遠くでも近くでもないあたりに山が見える。

 こういう街がたまにある。そこらの旅行ライター並みに「活気のある街」「商売の街」などとくくってしまうこともできなくはないにしても、その「活気」や「商売」といったことばでひとまず言いならわせるものが、しかし全てある整った獰猛さとしか言いようのない方向にとりまとめられ、かつて噴火したことのある火山のようなたたずまいでゆっくりと息づいている雰囲気。確かに、今や一律になめされてしまったように見える「地方」の風景の中で、その横並び加減に織り込まれた何か手形のようなもの、街の出自をどこかで語る毛なみのようなものが、時たま、あれっという感じで見えたような気になることがある。

 たとえば、高崎がそうだった。あるいは桐生。あるいは姫路。あるいは宇都宮。人口や市街地の規模、あるいは地理的なセッティングなどに何か関係があるのかも知れないが、今はまず乏しい経験の中から、それらの街がそうだった、と言っておくことしか僕にはできない。

 だが、直観というやつを僕はあまり信用していない。いかにとりつくろっても最後は身ひとつをなけなしの道具にしなければならないはずの民俗学者としては、これはある意味ではかなり不信心な態度かも知れない。けれども、たかだか自分程度の直観などおよそ大したものではないということは、これまで何度もさまざまな場で思い知らされてきた。僕が見、聞き、感じる程度のことならば、僕以外の誰であってもかなり当たり前に見、聞き、感じられるはずだ。たとえどのような文脈にせよ「客観性」の神話に以前のような自信が持てなくなって以来、学者であれジャーナリストであれ現場に赴く知性たちがともすれば過剰に大切なものとしてうっとりと撫でまわし、どうかすると箱に入れて大きなリボンすらかけておきかねない「私」の経験など、静かに反省してみればそれ自体が何の仕掛けもないままそんなに大したものであり得るはずなどない。

 それでも、たとえば駅を一歩出て、さて、という感じでそのあたりの通りや街並みを気楽に流してみて、そこに見えるもの、広がっているものが否応なく発信する雰囲気について、とにかく即座ににっこりしてしまうしかない街というのがどうしてもある。このことは自分自身の感覚として事実だ。偏見だ、先入観だ、と言われればなるほどそうかも知れないとは思う。その程度にこれはあてにならないものだとも思う。けれども、さらに理屈をこねればきっとそういう直観だよりの偏見や先入観以前、それなりにこの国に生きてきた中でもう仕方なく皮膚にからみついている微細なセンサーのようなものがどこかにあって、そしてそれは別に僕に限らず誰しも持っているもので、その部分にピンと感じるものくらいはこのようにあるのかも知れないと考えてひとまず割り切り、そこからいつものようにとりとめない話の場に足を運ぶことにしている。

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 故障もちの競走馬をなおして競馬に使うことにかけてはその筋で定評のあった岐阜の調教師Yさんのもとに通ったのは、今から二年ばかり前の暮れだった。

 Yさんは身体の具合が悪く、しばらく入っていた病院を退院はしたもののまだ自宅で療養されていた。ふだんはベッドに横になり、訪ねると起きてきて石油ストーブの前の長いすに座るという状態だった。それでも声には張りがあり、いつも電話を手もとに置いて馬の売買や馬主との応対にぬかりのないよう手配していた。一時間か二時間ばかり世間話の速度で話を聞くと、メシを食ってけと言われ、二回に一回はそのことばに甘えた。焼肉をYさん手製のタレでごちそうになったこともある。味噌をベースにしたほんのり甘いものだったが、そこらの食堂の味噌カツにかかっているタレとは全然違ったおいしいものだった。

「わしうどん屋行ってもね、たとえ素うどん食っても天ぷらうどん食っても、つゆを呑んでこれは何と何で作ったあるか、これはこういうもんで作ったあるな、と考え考えして食うわね。料理させたらわしうまいもんだで。なんでも覗きたい方なんだわ、若い時から。ただようけはやれんのでね、急所だけを教えてもらっとるんですよ。そういう考え方が本業でもまぁこういう成績につながっとるんだけどね」

 Yさんの厩舎は、どんなに調子が悪くても毎年五十勝から六十勝はしていた。馬房は主催者からの割り当て上限ギリギリの二十五馬房の他に、自分の家の庭に外厩として十頭分ばかり。厩務員が九人、騎手が三人というまずは大所帯だ。厩舎も馬の数も限られている地方競馬とは言え、それだけの所帯を支えてコンスタントにそれだけの成績をあげるのはやはりどこか群を抜くものがなければならない。それがいったい何なのか、Yさんの話を聞こうと思った僕の関心のひとつはそこにあった。だが、そんなものひとことで言えるものではないだろうし、第一言えたとしてもアカの他人の僕にホイホイ教えてくれるはずもない。さらにもっと言えば、永年その仕事について積んできた経験を前提にして成り立っているはずの知識や技術の領域が、多少は門前の小僧で耳学問をしてきたとは言え基本的には門外漢の僕などに簡単にわかるはずもない。ありていに言って職業機密なのだからそれは当たり前だ。だが、その職業機密というのも紙に書かれていたり、形あるものに込められていて、ハイこれでござい、と放り出せたりするものでもない。

 技術を介して現実に何か群を抜くなにものかを示している仕事師たちの話を聞く時、彼らが口を開いて自分の経験をことばに乗せるとあきれるほど定番のもの言いしか出てこないことに驚く経験はよくある。群を抜く技術そのものをきれいにすくい上げ、拭い切ることのできることばなど、当たり前の世間にはありようがないのだ。だから、語りの中にはめこまれた形容詞の気配や動詞のはずみ具合、身振りの初速や声の張りといった微細な徴を糸口に、当たり前の世間のことばより難儀に入り組んだこちら側のことばをいちいち突き合わせてやる作業を続けながら耳傾けることからしか、その職業機密のたとえ輪郭であれ、かたちにすることなどできようはずがない。

 自前のタレについて何気なく自慢したYさんの口調に、漬物と一緒に薄いアバラ肉を呑み込もうとしていた僕の耳が反応した。

「昔っから、見てやろう聞いてやろうやってやろうでね、立派な獣医さんがみえた時にこういう場合にはどこが悪いかとか、こういう傷はどうすりゃいいかとか、しつこく聞くもんでね、よう獣医に怒られとったわ。おまえちっとうるさいぞバカヤロ、ってね。でも、獣医さん仕事あがってくるでしょ。で、言うんだ。おまえおれが治療しよる時横でいろいろ言うんでうるさいけども、しかしおれは喜んどると。若ゃあノリヤクで現役バリバリ乗っとるノリヤクがそんなこと聞くのは東海にはおらんと。日本全国おらんだろうと。それをおまえが聞くということはおれは非常にうれしいと。だから、おれ怒ってもおまえ我慢しとれよ、と教えてくれたんだ」

 感覚の全方向全開放のような獰猛さ。世界を全て手もとに引き寄せ解きほぐしてやるという欲望。馬のまわりにいる人たちの話を聞くことをやってくると、自らに宿ってしまったらしいその獰猛さを自覚し、しかもその自覚したことをまわりからも認めてもらったということを輝かしく語る語りというのがある。それは、確かにその仕事の世界にまず踏み込んだ瞬間なのだろうと思う。もっと言えば、それはその仕事の世界での「自分」を自覚した瞬間、今ある自分につながっていたと信じることのできる出発点としての「自分」の生まれた瞬間なのだろうと思っている。いや、別に馬のまわりの仕事に限らない。これまで僕が関心を持ってしまうような種類の仕事の場にある人たちは、かなりの確率でこのような語りのヤマ場を作法として持っているような人たちだった。あ、ここでもか、という感じで、僕はYさんが語ることばの向こうに折り重なった場の気配に耳を同調させる。

「そやで、うちの厩舎には脚もとゴトゴトの馬はおらんよ。名古屋で競馬終わるでしょ。勝った馬でも悪い馬でもうちはぜんっぶ治療する。そうして次の笠松の開催に向かってくわけだ。わしはいつも厩舎におる。わしがおるいうことはベットウもおらんならん。おらんならんからいやでも馬を見るわね。見てちょっとモヤーッとくると、ちょっと先生これ見てちょ、と言うからわしもともとテツ屋(装蹄師)のこともいくらかわかるでしょ、直せるわけよ。ところがこれがほんとに悪くなってからでは直せんわけよ、いくらテツ屋でも。馬っちゅうのは外から脚をつくわけ。だいぶ力が内へ入ってくるでしょ。だから内は爪が伸びんわけだわ。内七分としたら外は三分くらいしかつかんわけよ、力が。だから外の方を切ってやることで水平になって具合ええわけだわ。 なんでも知っとるちゅうことはええもんでね。テツ屋さん、うちの蹄床(蹄の裏の部分)は低いから、ちゅうとくとテツ屋は、あ、この調教師はわかってるなぁ、ちゅうてきちんと仕事してくれるわね。そこらへんわからん調教師やと馬鹿にされてええ加減な仕事されてしまうわね」

 あのタレの味噌の味とざらついた舌ざわりは、僕の記憶の裡で、あの自信ありげなこと ばの調子に込められたものを存分に引き出すインデックスになっているはずだ。だが、残 念なことに、去年の秋に世を去ったYさんにもう一度あのタレを作ってもらうことは永久 にできなくなってしまった。

 なんでも知っている。知っているから世界の広がりがある手ざわりと共に実感できるし、その広がりのゆがみやねじれも眼に入る。だから眼はしが利く。隙間を見つける。世界に生じた微細な亀裂を発見する。このような語りを前にすると、何かそういう不思議な感覚が生身に宿ってしまう条件というのが人の世にはあるのだと、いつも思う。たとえば、「わしはここがええから」と人差し指でこめかみあたりを指さしながらにやりと笑う身振りに、その不思議な感覚についての矜持が端的に込められる。

 もちろん、それがどういうスケールでの「頭の良さ」であるかについてはまた別に考えねばならない。たとえば、それをどう拡大していったとしても、その「頭の良さ」はそのままで大企業経営に連続してゆくことはまずないだろうし、国家の大きさを動かすこともないだろう。先回りして言えば、その「頭の良さ」はたとえば「官僚」ということばのまわりに吸着されてゆくような種類の知識や技術とあるところまで確実に併走していくだろうとしても、必ずどこかの地点で直角に交叉せざるを得ない瞬間があるだろうということ、そしてそこから先はその「頭の良さ」の射程距離ではどうにも対応のしようがない事態ばかりがその軌道上にしつらえられているらしいということだ。

 Yさんは昭和の始め、愛知県海部郡の漁村で生まれていた。元気が良すぎて悪さばかりやってまわるので、十四、五になった頃から名古屋でヤクザをやっていた親戚のもとに預けられていたという。朝帰りの帰り道、競馬場で見た攻め馬風景に惚れて厩舎へ。ノリヤク修業の日々が始まる。もともと馬とは関わりの薄い育ち。ハンデはあったが、そこは負けん気で頑張った。その「負けん気」とは単に鼻っ柱の強さというだけではない。「馬の世界の連中よりも世間を見てきた」という矜持であり、その矜持に基づいた「なんでも知ってやる」という方向の獰猛さも含まれている。その獰猛さをYさんは「勉強」と表現していた。

「人間、勉強しようという気持ちがないとダメやね。なんでも勉強してやろうと。おのれのもんにしてやろうという気持ちでかかってかんことには、人よりええ仕事はでけんわね」

 宮本常一ならば「世間師」と言っただろうこういう種類の知性は、しかし、山と海とについてばかり意識の焦点を合わせてきたこの国の民俗学の視野からは、特殊なもの、例外のものとして扱われてきた。近年に至って社会史とのからみもあってこの「世間師」の語は結構市民権を得たようにも見えるが、それでもやはりムラならムラの中でのある特殊な性癖や生活歴を持ってしまった人間、というトーンは拭い難くあるように思う。わかりやすく言えば、「世間師」という範囲が明確に、それこそ系譜的にはっきりと独立したものとしてあってしまうような見方を前提にしているように思われるのだ。

 しかし、と僕は思う。誰もが程度の違いこそあれ「世間師」の眼と耳と身体とをうっかり自分のものにしてしまうような事態というのも、この国の近代はもう存分に経験しているはずだ。そしてそれは、稲を中心に設定し、山と海というふたつの項によってひとまず全てを覆い尽くそうという柳田以来のこの国の民俗学の目論見が、その間に当たり前に広がっていたはずの平野に宿るものについて見つめる眼を、意図的かどうかは知らないがとにかくどこかに置き忘れてきていることとどこかで裏返しに関わっていると思う。

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 たとえば、こういう話がある。これも馬喰たちの昔話だ。

 関東大震災以降、地震に強いというのでコンクリート建築がもてはやされるようになった。そのため、コンクリート建築に必要な砂利や砂がそのまま商品となるようになった。それまでも砂利は鉄道工事などで採取されてはいたが、それほど大規模なものではなかった。だが、基本的になんでもないものだった河原や河川敷の風景が、その頃からある種の人間たちの眼から見れば宝の山に変貌した。業者に雇われた馬喰たちは半纏をもらい、馬を連れて河原に小屋をかけ、野宿同然の状態で砂利の採取に従事した。留守番の女房のもとに知らない男がやってきて「一円でつきあわないか。二円でどうだ」と五円まで値上げしてかけあったこともあった。台風で水害があり大水が出ると、彼らは「これで砂利のとれる場所が変わる」と手を叩いて喜んだものだという。

 あるいはまた、空襲の焼跡を眺めて宝の山だと躍動した連中がいた。まだ煙のくすぶる焼跡から溶けたガラス屑を拾い出し、水道管を掘り出して別の場所に集め、それらを材料にまた新たなものを作り出してゆく彼らの動きは、流通過程の最も末端の部分に宿った「頭の良い」ことの表現だった。焼跡で人々は茫然と明日からの暮らしを見つめていた、などという大新聞めいた定番の語りとは少し違うところで、このような獰猛な眼を持った人間達が歩き回っていたということに、僕はやはりにっこりしたい。

 話ついでにもうひとつ。戦後すぐ、コーヒー業界では有名な群馬事件というのがあった。群馬に隠匿されていたコーヒーをめぐっておこったイザコザで、新聞にも取り上げられる当時としては大事件だったという。

「どこからともなく風の便りで、群馬県と信州との山の中に本もののコーヒーらしいものがあるという噂が伝わってきたのです。それが聞いてみると、戦争中に軍がジャワとかシンガポールとか、そういうところから袋に詰めて弾丸よけの土嚢代わりに使っていたのを持って帰ってきたものであるとか、配給品の残ったものであるとか、いろいろあるのですが、いずれも持っているお百姓さん達は使い方がわからない。」(全日本コーヒー商工組合連合会編『日本コーヒー史』より)

 食糧の乏しい頃のこと、一応は豆なので配給もしたらしい。だが、食べ方がわからない。農家では砕いて牛や鶏の飼料にしたがそのまま糞に混じるばかり。何の役にも立たない、と厄介もの扱い。だが、どこかでそれがコーヒーの生豆であることのわかる人間がそれを眼にして、それから大騒ぎになった。胴巻に札束を仕込んだコーヒー問屋が全国から殺到し、中にはこのコーヒーの代金で家を建て替えた農家も出たという。なにやら野坂昭如の小説『アメリカひじき』のような話だが、似たような出自のコーヒーがこの他大垣と呉にもあったという。どうやらもとは海軍が集めたもので、空襲が激しくなる頃に疎開させたものらしい。しかし、軍港のあった呉はともかくとして、どうしてまた大垣と渋川だったのか。濃尾平野関東平野。人も含めた“もの”の流れと、それをストックしてせきとめておく広義の「倉庫」の組み合わせで成り立つ世界というものがあり、そのような世界のあり方を足もとから透視する眼。歩く過程はもちろんのこと、今や文庫の作業としても、山と海とを孤立した箱庭に囲い込み、動かぬ「常民」などという幻想に後生大事にしがみついてきた杓子定規の民俗学の業績とやらよりも、およそ乾物のような古めかしい社会経済史まわりの仕事にこのような眼で接してもう一度息を吹き込んでやることの方が、よほどそのような平野という場においてダイナミックで立体的な世界を組み立ててきた時間の流れを考えるよすがになる。皮肉なことだがどうもそうなのだ。

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「おう、竹さんどうした。おら死んだかと思ったぜ。あまり酒がえらいでぇ。時は大正九年十月三十日の朝の九時過ぎ、処は三河美濃尾張の境なる三国山の東、金毘羅様の峠の大きな松の木の蔭である。斯く謂ふ人物は、大きなカバンを自転車にくくり附け、この手帖の主を案内してくれる飯野の経師屋、年は四十三四、清洲の生まれで方々を知って居る一癖ある男だ。竹さんは六十に近い親爺、だまって聴いて徐ろに煙草入れを抜いた。つれが一人ある。


 竹さんは美濃の下石の鶫仲買人である。まだ鳥小屋の前景気の時分に、この辺の村を歩いて高い値で鶫を買う予約をした。さうして今になって遁げまはって居るのである。それを取つかまへるのがひとつの目的で、私の案内者を志願してきたことが今わかった。カバンの脇の風呂敷包は、何かと思ったらみな鶫であった。果たして図星に中ったので、大得意で調子が高い。不義理の竹さんは一言も無く閉息し、渋々十円何がしをここで勘定し、高価な鶫を文字通りに背負い込んだ。」

 他でもない、あの柳田國男が大正十四年に雑誌『民族』に発表した「秋の山のスケッチ」という文章の冒頭である。彼の仕事についての不幸な神話化をこれ以上避ける意味で、彼が名文家であるという言挙げにはよほどのことがない限り僕は加担しないよう心がけているつもりだが、しかしこのような素描の凄腕をさらりと見せつけられると、コン畜生め、と舌打ちしながらもその「眼」と「文字」との関係について改めて思いめぐらすことになる。 このような平野の精神の躍動する結節点をことばに乗せようとするだけの素朴さが、まだこの時期の柳田にはあった。言い換えれば、今あるような形に民俗学を整えてゆく過程より前、「旅」をひとつの方法として構想し始めていた頃の彼の記述は、このようなそれまでとは異なったつながりでその頃立体化し始めていた平野に宿るものを、まずはただ眼の前のものとしてとらえる可能性があった。もとをただせば明治政府の農政官僚だ。視点をもっと引いたところで言えば、役人を辞めた彼がこの国を歩き尽くそうと考え、事実そうし始めた大正という時代は、それまでそれぞれのまとまりによって棲息してきたこの国の小さな国々の区割りが、時世に勢いづいていったこれら平野に宿るものによって最終的に意味のないものになっていった時代でもあった。

「此中にはトラが四つある。始末をして置いてくれ。


トラは虎鶫即ち鵺のことで、禁鳥だから見付けられぬようにせよと謂ふのである。夜明前の真暗闇にヒューヒューと啼いて来る。幾ら万葉集に「ぬえ鳥うら鳴きをれば」などと詠まれた大切な鳥でも、飛んで来て引罹るからには仕方が無い。


禁鳥はみんな嘴が細いのに、どうして鵺だけは、嘴が太くて禁じられて居るのでござりませう。


虫は捕って食はなくとも、やはり数が少なくて絶えるといけぬから、禁じて居るのだらう。


はゝあ、さうでござりますか。


こんなことを話して柿野の村に降りて来ると、なるほど五十七十の鶫を棒にとほして、右からも左からも人が通る。日当りに囮の籠をならべて、鳥を洗ってやって居る家が多い。……(中略)……山の方を仰ぎ見ると、高い低い崖の頭のやうな処に、幾つと無く枯れた竹の囲ひがある。それが皆とやである。木曽では松の大枝をさし、又は天然の松林を利用して居るが、此辺ではこんな簡単なことをして居る。それでも年に何十万の鶫が中部日本の山々では捕れるのだ。」

 どういう理由でかはわからないが鶫の仲買が儲かった時期があったらしい。少し前までなら小さな市場や商店街の片隅にひっそりと店を開いていた小鳥屋のオヤジあたりに尋ねて回れば、今でも少しは詳しいことがわかるのかも知れない。おそらくひと儲けを考え地元の農家に手当たり次第に鶫の捕獲を頼んでまわり、相場が下がってから逃げ回る仲買人の姿と、その仲買人を路上でとっつかまえようと敢えて柳田の荷持ちを買って出た男。いずれ「頭が良い」とおのれのこめかみをつつきそうな彼らが、今よりもちろんはるかになごやかだったはずの山村の風景の中、そこここに棲息している現実を、そこら中にある鳥屋の風景から柳田が類推できなかったはずがない。だが、あたかもひと頃流行った人工着色を施した白黒写真のような不自然さで、戦後の柳田が描き出すことに血道をあげたように見える稲を軸にした山と海の「日本」からは、そんな平野の獰猛さの痕跡はきれいに消し去られているように思える。そして、その「日本」とは、最晩年の柳田の想いとは別に、今やもう“おはなし”としても役に立たなくなっていることを、もう一度平野の側から問い直すことをやらねばならない。

 だから、僕がついにっこりしてしまう街というのも、そんな平野の獰猛さの席捲した跡、きっかけは何であれ「頭が良い」と誰もが思い始め、その思い通りに四方八方走り回ったひと荒れあった経験を宿した風景なのかも知れないと思うことにしている。



*1:現代書館から出ていた雑誌、というか同人誌に近かった。朝日新聞にいた千本健一郎氏や朝倉喬司兄ィなどが勧進元の一角で、自分などは若い衆の末端のひとりだった。10号まで出ていたが、CiNiiや国会図書館サーチなどにもうまくひっかからなくなっているのは、もしかして、ちゃんと納本などしてなかったってことか。

*2:文中、出てくる岐阜の調教師Yさんというのは、あのアンカツ安藤勝己の師匠だった故吉田秋好さん。話を聞いている時、脇の馬房から地方で現役第一線の頃のアンカツが、確か名古屋で騎乗していたのか、厩舎に顔を出し、きちんとした挨拶を先生にして帰ってゆくのを目の当たりにした記憶もある。いずれ今となっては貴重な聞き書きの断片、かも知れない……20180313