そういう人、のこと――ある「良心的」雑誌の仕打ち

*1
 もう数年前のことになる。ある雑誌に、“こわい話”というテーマで何か書いて欲しい、と言われた。

 大きな出版社の雑誌ではない。時代が時代だった頃にはそれなりに輝かしい時期もあったらしく、ある世代以上の、本を切実なものとして読む程度の人たちには一応名前は知れわたっている雑誌だが、現実には今や規模も部数もごくささやかで活気もないまま半ば同人誌のように出し続けている、そういう小さな、けれども少なくともそういう世間では未だ平然と“良心的”とされているような種類の雑誌だった。*2

 ちょうど宮崎勤の事件が世を騒がしていた。事件が起こるや否やたちまちとっちらかって自意識過剰におびえ、「Mの世代」やら「ボクが助けてあげる」やら、いずれ二、三発横っツラ張り飛ばしてどやしつけたくなる能書きを垂れ流して醜態をさらしたわが同世代のバカタレ共などもちろん論外だが、そんなうんざりする表層とは全く別に、確かにあの事件は時代のひとつの比喩として、未だ始末しきれない重さを示し続けている。




 とりわけ、あの宮崎勤に殺された五人の女の子たちの顔写真にぬぐい難く感じたある共通の雰囲気、あれに僕は最初からひっかかっていた。それは、発情したかのような報道の磁場についに被害者の親御さんたちまでがだんだん吹け上がり、たとえば最初は実直そうな団地の住人だった人が葬儀では「○○ちゃんッ、ごめんねッ」などと芝居っ気たっぷりに絶叫したり、どうかすると週刊誌にうわずった手記を発表したりするようになってゆくさまの異様さの根源にまでどこかで連なってゆくはずだ、と、きちんとことばにできないながらも僕は確信していた。

*3

 だから、そういう注文を受けて僕が書いたのはこんな原稿だった。

もしも、あの殺された女の子と同じ保育園の同じクラスに通っていた子が、たとえば十年後、ある程度社会的なことばを獲得し始めてから、当時のその保育園のクラスの共同性の中であの殺された女の子がどういう立場を占め、どういう性質の子としてまわりから認知されていたのかについてつぶさに“証言”し始めたとしたら……。宮崎だって彼女らを選んだということはその選ぶということについて何か基準があったはずだし、その基準というのもある関係性の中でしか宿らないのだとしたら、彼女らを一方的に“かわいそうな被害者”としてくくってしまうのでなく、レンズを媒介に宮崎の方が彼女らに“誘惑”された可能性だってあるんじゃないの、世間一般の雰囲気はともかく、そういうとんでもない可能性だって将来に向かって含んだ事件だったんじゃないの、ものを考える立場としてそういうこともちゃんと考えなくていいのだろうか。

――その程度の内実は“こわい話”として込めたつもりだった。何よりも、広告収入でもっているような大部数の雑誌でなく、しかも“良心的”な雑誌だから、そういう立場も認めてくれるだろうと安心していたところもあった。

 ところが、この原稿が問題になった。

「すみませんが、一度こちらまでご足労願えませんか」

 担当編集者の電話に呼び出され、僕は出かけていった。編集部近くの喫茶店、薄暗い半地下のような店のビニール張りの椅子に座った彼は、開口一番、こう言った。

「直接反論できない立場の人間について中傷するような内容のものは掲載できません」

 あぁ、と思った時のあの気分は忘れない。こんなところでさえ、すでにもうこうなんだ。彼の眼の前に僕は座っている。解決しなければいけない問題が仕事の過程で生じてしまい、なんとか妥協線を見つけることはできないだろうかとノコノコ出かけてきて座っている。その座っている眼の前の僕に対して、彼はいきなりそういう教科書めいた一般的なもの言いで対応した。役所の窓口ではないし、大新聞でもない。たかだかそういう、良くも悪くも小さな雑誌の、しかも原稿のやりとりという具体的な局面においてのことだ。なのに、役所や大新聞と変わりゃしないそういう一般的もの言いだけを彼がいきなり繰り出してきたことに、僕は滅入った。もちろん滅入っていても始まらないので、納得できない、どうして、なぜ、というところを詰めてほぐそうとしたのだが、すると彼は、不条理な苦情をいきなり持ち込まれたデパートの苦情処理係のような顔になった。こりゃダメだ。この顔つきが出たら終わりだ。その瞬間からこっちは「話のわからないヤツ」という理解にはめ込まれてしまい、結局のところそれ以上話は通じなくなる。どんなにことばを尽くし、どんなに論理的に詰めても、ただ「話のわからないヤツ」ということだけが彼の表情の向こう側に募ってゆくのがわかる。一般的もの言いのゆきつく先は、いつもこんなものだ。

 人の世には立場の違いというのがある。それはもうあたりまえにある。しかし、それを前提にしながら、なお日々の具体的な局面においてどういう妥協をしてゆけるのか、そういう微調整を織り込むからこそ仕事なんだろうと、それまで僕は思っていた。第一、そんなにゴリゴリの絶対譲れない原理原則なんてそうそうこの世にないし、そんなものかえって信じられないという感覚もあたりまえにあった。そういう僕の勝手な思い込みを足もとからひっくり返してくれたのは、その“良心的”雑誌の編集者の、まさにその顔だった。

 結局、全く違う原稿を僕はもう一本書いた。ただその際、この件についてはこの先もう少しきちんと話し合いたいということを条件につけ、彼もそのことは了承してくれた。そのことばを真に受け、一段落してから改めて編集部に連絡した間抜けな僕に、電話口から返ってきたのは、「彼はもう辞めましたよ」という返事だった。

 そうか、あんたら結局そういう手口なんだ。そういう手口で“良心的”ってのをただの自己満足、世間とは何の関係もない閉じた密室にどんどん腐らしちまってたんだ。「少数派の意見」とか言って、それがどんな一般化も想定しないただ少数のままに安住してトシだけ食ってくことがどれだけ醜いことか、後から来る世代にとってどれだけ害毒をまき散らしているか、本当にわからないままなんだ。

 もちろんそれから先、その一件についてその編集部からも、そしてその当事者たる彼からも手紙ひとつ、電話一本もらっていない。しばらくたってから、何人かを介した風の噂に、いやぁ、オーツキにやられちゃいましたよぉ、と編集部が嫌な顔してたよ、ということを耳にした、ただそれだけだ。そして、その雑誌は今も平然と続いている。

*4

*1:朝日ジャーナル』「書生の本領」連載原稿。

*2:はい、あの『思想の科学』である。

*3:四人しか画像が残っていないようだが、このうち、左からふたりめの子は確か小学生で少し年かさ、親御さんも職人さんか何かで、まっとうで穏当な対応に終始していたはず。残り3人の子のレンズに向かった表情その他の印象、およびその親御さんがたの事件後のメディアに露出してゆく過程での変貌ぶりが、ここで言う違和感の対象だった。

*4:この一件の顛末、当時割としつこく自前のメディアというかニューズレター(もちろんアナログ)で、しつこく追撃していたっけか……読みにくいだろうが、お好きな向きは拡大していただければ幸い。