だまされた、と言う前に


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  同世代、というとせいぜい三十代半ばから下、二十代のケツあたりまでということになるのだが、そういう彼ら彼女らの中で、雑誌や出版、放送に広告、いわゆるメディアの周辺の仕事に携わってきた連中が、「結局、だまされてたんだよなぁ」と弱々しく苦笑する光景というのに、なんだか最近よく出食わす。そのたびに、僕はまた不機嫌になる。

 八〇年代を通じてむくむくふくれあがってきたそのようなメディアの現場に、どのような経緯であれもぐり込み、それなりにいっちょまえのものとして食ってきているという「歴史」が薄っぺらながらあり、それはそれで構わないのだが、とは言え、実体なき吹け
上がりがしぼんだ今となっては、もはやそんなに脳天気に舞い上がったりつけあがったりすることもできなくなっているわけで、気がつきゃ確かにトシは食ってくるわ、髪の毛は淋しくなってくるわ、気分だけは未だ「若者」気分、大学生など若いもんとタメ口きける
つもりでいても、確実に時間は自分に追いついてくる。この先どうすりゃいいんだろう。この上まだトレンド騒ぎにうわつく自信もなく、第一、この厳しい状況でこれから先うわつき抜くだけの実力もなく、といって、腰据えて一から地道にやり直す度胸も覚悟もなく、結局は力なく「だまされてたんだよなぁ」と苦笑するしかない、という始末。で、もちろん何ひとつ具体的に変わりはしない。昨日と同じ日々が、ただ、より怠惰に流れるだけ。残るのは、何か見えないもの、大きなものに「だまされた」という被害者意識だ。

 八〇年代を通じて、どこかに基調音のように流れていた「団塊の世代」に対する漠然とした反感のようなものは、このような彼ら彼女らの意識にいちばん切実に宿っているのだと思う。“ヤツら”にだまされた。“ヤツら”が結局一番いい目をした。でも、正面から
喧嘩するのは今さらおっくうだし、自信ないし、第一やってきた仕事だって“ヤツら”の下請けみたいなものだから結局困るのは自分だし。あ~あ、オレって情けねぇ、と手慣れた自嘲の身振りで茶化したふりだけはひとまずできるけれども、自分のまわりはやっぱり
何も変わりゃしない。どうやら昨今、そこらのコラムニストたちが頻繁に使う「トホホ」や「(笑)」とは、まさにこういう事情を込めたもの言いらしい。

 しかし、と思う。「だまされた」「ひどい目にあった」と思ってしまうことはともかく、それを口に出し、しかもその口に出したことをまた「ほら、オレってこんなにわかってるでしょ」という免罪符にしながら、結局それまでの仕事の流れや自分のまわりを具体的に変えようという元気を、たとえ無理にでも出さないままというのでは、それはほとんど無責任としか言いようがない。何に対して、と尋ねられれば、少なくともあんたらから後、このようなものを書く仕事の場に流れ込んでくる連中に対して、とひとまず言っておく。そんな連中のこと関係ない、知ったこっちゃない、と口とがらせるのなら、そうかそうか、てめェらたかだかその程度のいい加減さのまんまで、この先もの書いて食おうと思ってたんだな、と、ここは同世代のよしみ、首根っこひっつかまえて思いっきり説教してやる。

 被害者意識の共同性、というものがある。実態としてはどうであっても、「ひどい目にあった」というもの言い一発で「そうそう、そうなんだよなぁ」と力なく肩叩きあい、目くばせしあい、本来ならばあれこれきちんとことばで詰めておかなきゃどんな「理解」も
あり得ないはずの手続きまるでとっぱずし、結局のところ最も悪い意味での同窓会的気分に横着になだれこんでゆくのが関の山。そんなもん、その同窓会気分を共有できない場所にいる者にとっては、「へぇ、そういうもんなの」でしかないし、その先にあるのは「あ、そう、あんたたちにとってあんたたちの同窓会以外でしかないこっちなんて、結局どうでもいいものなわけね」ということばしかない。これって、あんたらが「団塊の世代」に対して抱いてきた、あの妙にねじくれ曲がった疎外感と似たようなもんじゃないか。結局はあんたらも後からくる連中に対して同じことやってんのかも知れないんだぜ。いいのかよ。

 だから、「だまされた」と言うな。絶対に言うな。「だまされた」と言った瞬間から、その「だまされた」経緯や、その当時少なくとも切実だと思ってしまっていたはずの自分や自分のまわりを取り巻いていた雰囲気のようなものは、きちんとことばにされないまま
なかったことにされてしまう。今からすれば「だまされた」としか言いようのない現実だったとしても、その時その場に身を置いていた時にはある確かさを感じていたはずだし、その確かさの中である幸福を味わってもいたはずだ。「だまされた」と思ったのなら、そ
ういう部分をこそ静かに、ていねいにことばにし、語れ。それらを抜きにして「だまされた」といじけるばかりじゃ、ただ「暗い戦前のファシズムの時代」という定番のもの言い一発で全てをなかったことにしてきたこれまでとまるで同じだ。そういう態度がどれだけ
「歴史」をよそよそしいものにしてきたか、もう充分思い知ってるだろ。「暗い時代」はわかりました、でも、そのファシズムって具体的にどういう風に気持ちよかったんですか、というところをうまく語ってくれることばに出喰わさないままだから、「歴史」は未だ手もと足もとに宿らないままだ。右へならえの大文字の総懺悔で全てをなかったことにする悪癖っていうのは、別に遠い昔のことばかりじゃない。ついこの間のあの時期、どうしてあんなにつけあがることができたんだよ、というのは本当に素朴な問いとしてあるのだし、自分ひとりとしてはどんなにこっぱずかしいものであっても、それに対して誠実にことばをつむいでゆこうとせねばならない立場というのもある。それすら引き受けられずにこの先まだもの書いて世渡りしようなんて、あんた、厚かましいにもほどがあるってもんだぜ。

*1:朝日ジャーナル』「書生の本領」連載原稿。

*2:この頃、すでにもう80年代的イケイケ「バブル」な「ギョーカイ」気分は、メディアの生産点での皮膚感覚としてはしぼみ始めていたのを思い出した。とは言え、まだ本格的な不況風なり、「バブル」崩壊の阿鼻叫喚には至っていない。阪神大震災もまだ少し先だし、オウムの一件もすでに始まってはいたものの、サリンばらまくまでにはまだ間がある頃ではあるのだが、ただ、その倦怠感みたいなものが、この時点でも「団塊の世代」に対する鈍い怨嗟として現われていたらしいことには、改めて留意しておきたい。……220620