解説・赤松啓介『非常民の生活文化』

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 八〇年代半ば、『非常民の民俗文化』(明石書店)をひっさげ、半世紀にわたる長い沈黙を破ってこの国の民俗学の表舞台に再登場した赤松啓介翁の記述を支える素材は、その出自におおむねふたつの焦点を持っている。

 ひとつは、大正中頃から昭和初期にかけての兵庫県近辺、東播地方を中心としたムラ社会。もうひとつは、ほぼ同じ時期の阪神間のスラム。これらふたつを焦点とする場で見聞きしたものが、“赤松啓介民俗学”の骨格を構成する滋養になっている。

 もちろん、山歩きと旅とをひとつの作法としていた翁のこと、暇を見つけてそれ以外の地方にも足を伸ばしている。昭和初期の恐慌期の東北農村での見聞は興味深いものだし、また、高度成長期のとば口で裏神戸の山中を走り回っていた不動産業者たちの生態についても、翁はよくできた素描のような散文で紙の上に再現してくれている。その意味で、このような焦点にからんだ時間的空間的規制の幅は、少なくとも方法的な次元では本質的な問題ではないかも知れない。いささか思い切ったもの言いをすれば、赤松啓介の身体を介して手もとに引き寄せられた素材をもとに書きとめられたことばである限り、その水準はある一定の高度を保ちながら、半世紀以上にわたる時間の流れに拮抗してそこにあり続けている。

 しかし、八〇年代半ばの“再登場”以降の翁の民俗学にまつわる記述を支える最も太い経験の幹は、やはり西日本の民俗社会、それもすでに近代化の波に洗われて激しく解体しつつある一九二〇年代から三〇年代にかけての大都市近郊農村に足をつけたものであるという風にくくってしまってひとまず構わないだろう。そしてそれは、まさに翁自身が若い日々、その生の速度でくぐってきた暮らしの場に他ならない。翁は、そのような西日本の民俗社会にゆったりと足をつけた民俗学的知性として、この国の民俗学の歴史の中では宮本常一と並ぶべき大きな存在であると僕は思っている。その正当な評価や世間的な知名度は未だその大きさに比して不充分なものであるにしても、だ。


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 実際、この国の民俗学界隈のごく狭い世間に限ったこととは言え、翁の名はほとんど伝説化していた。だが、その伝説のかなりの部分は、昭和初年に概論書『民俗学』(三笠書房、現在は明石書店より復刻)で当時まだ珍しかった正面からの柳田國男批判を果敢に試みたことや、戦後も神戸に住まいしながら『神戸財界開拓者伝』(太陽出版、絶版)に代表される“地元”の微細な歴史を掘り起こす仕事を続けてきたこと、さらには考古学者として史跡保存に従事してきたことなどよりも、まず、“治安維持法違反で数年投獄されなお非転向を貫いた”という、その一点に規定されていたきらいがある。そのため、「赤松啓介」の名にまつわって「マルクス主義民俗学者」というわかったようでいてよくわからない看板が常について回り、“再登場”の後もその看板越しにしか翁の仕事を読むことのできない不自由が蔓延している。それは民俗学に限った最も初発の地点では、翁の名を杓子定規に「マルクス主義」の看板にばかり結びつけることで自分の知的立場のあいまいさを癒す頓服薬にしてきたかつての“理論派”民俗学者福田アジオの責任である。彼は、どうやら最近ではその理論的破綻に耐えられず、民俗学の看板を姑息に裏返しにしながら近世史方面に亡命しようとたくらんでいるようだが、彼が旗振りとなって形成されてきた赤松翁をめぐる言説の構造については、「“まるごと”の可能性――赤松啓介をめぐる民俗学の現在――」(一九九〇年『国立歴史民俗博物館研究報告』二七)で詳しく触れてあるので関心がおありの向きはそちらを参照していただければありがたい。端的に言って、福田アジオを中心に立ち上げられ、無批判に流布され呑み下されていった翁の伝説が、翁の仕事に必要以上に言わば“色もの”の匂いをまつわらせることになったことは間違いない。 しかし一方で、福田の「マルクス主義民俗学」の看板だけを後生大事にさし掲げたあの空虚なもの言いが仮りにこの世に存在しなかったとしても、赤松翁をめぐる“伝説”はいずれ同じような語られ方と共に立ち上がっていただろうとも思う。それほどまでに「マルクス主義」の呪縛はこの国の人間と社会にまつわる学問の頭上によどんでいた。その「マルクス主義」の呪縛の磁場にからめとられていた度合いに比例して、“再登場”以降の翁の仕事を、たとえば「オメコとチンポに関心をもち続けた反骨の民俗学者」やら、「柳田の欠落を早くから批判していた在野の知性」やらといったもの言いのみに囲い込んでしまった傾向がある。それは、「無名」であること、「在野」であることそのものを無条件に祭り上げるこの国の“良心的”メディアの性癖に曇らされた側面も含めてのことだ。

 では、性なり差別なり、これまでの民俗学の中で欠落してきた領域についての貴重な資料報告という以上の、赤松啓介翁の仕事のおいしい食べ方とはどのようなものだろう。

 翁は、「民俗」が地域の多様性を捨象したところで「採集」され、しかもその解釈についても、“地元”の文脈に即さない恣意的な傾きが強いことを、繰り返し指摘している。民俗学における民俗調査の作法が“地元”のリアリティとかけ離れたところで作動してきた面があるという、かなりの程度メタレヴェルでの問いである。それは、別に民俗学に限ったことではない。人間と社会にまつわる科学の領域において採用されてきた現地調査という資料収集の作法がその現場において調査する者とされる者との関係性に規定されざるを得ないゆえのあいまいさを常に孕んだものであり、そのあいまいさをどの水準で方法論に織り込んでゆくのかという反省的問いにまでつながるものでもある。

 これは昨今の民俗誌やエスノグラフィーをめぐる議論に連なってゆくものではある。あるが、しかしだからといって、「あるべき記述についてこんなに真剣に思い悩んでいる誠実な知性であるワタシ」という今どきのエスノグラフィー論者にありがちなこっぱずかしい自意識のドツボに翁がハマるわけもない。自転車を駆り、郵便局員から化粧品の行商、あやしげな宗教の番頭、系図売りなどを転々としながら、文字通り“世間師”の眼の高さから見えてくる現実がどのようなものか。そして、その視点からは昨今の民俗誌やエスノグラフィーをめぐる議論の論点が、どれだけあっけらかんとあたりまえに、しかもこの上なく具体的なものとして見えてくるのか。たとえばそういう問いを読み取る構えを自分のものにすることが、伝説に曇らされた翁の仕事を改めて「評価」してゆこうとする際に求められると思うのだ。


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 今から三年前の春、翁を東京に招いて連続講演会を開いたことがある。題して「非常民は自転車に乗って」。主催は、いずれ向こう意気の強さだけが頼りの我ら民俗学まわりのチンピラたち。隔日で都合三回、講演をお願いしたのだが、ひとたびしゃべり出すと三時間以上は止まらないその精力的な姿勢に圧倒されたものだ。

 その時のことだ。翁の姿が宿舎から見えなくなった一日があった。二回目の講演と三回目の間の休養日だった。宿舎にあてていた施設には、身のまわりのお世話でもということで我々の仲間が交代で詰めていたのだが、朝の九時頃に目をさました時にはすでに姿がなかったという。朝早くに宿を出て、どこかへ出かけられたらしい。

 何の書き置きもなかったので、正直、あせった。とにかく耳がやや不自由な以外は身体はまず健康、とりわけ足腰は屈強そのものの翁のこと、それほど心配することもないだろうとは思っていたが、とは言え、なにせ世間的には八〇歳を超える高齢のご老人。何か事故でもあったら、とやきもきした。
結局、夕方ひょっこりと帰ってこられて一同胸をなでおろしたのだが、当の翁はむしろけげんそうな顔だった。健脚の翁にすれば、そのような心配はむしろ意外なことだったろう。どこをどう歩いてこられたのか、そこらへんはニヤニヤしてはっきりおっしゃらなかったのだが、どうもことばの様子から推測すると中央線に乗って三多摩方面を歩かれたらしい。小さな手帖にはびっしりとなにやら書き込まれ、町中の民家の敷地内の古い形の井戸の所在や家屋の形状、農地の水利や、果ては電車に乗る若い者の身ぶりに至るまで、貪欲な好奇心のおもむくままに見聞きしてきた“もの”や“こと”を、実に楽しそうに語って聞かせていただいて、昼間のやきもきなどすっかりどこかに忘れてしまった我々ではあった。

 その時の、とにかく“もの”と“こと”とを無限につむぎ出してゆくかのような語りは、講演とはまた違った迫力があった。柳田のあの文体にも通じる事実の無限連鎖の凄味と言っていいのかも知れない。その連鎖の背景に何か確かな脈絡でもあるのかと聞かれれば、ひとまずよくわからないとしか言えない。ただ、それらの連鎖をかがっているのはまごうかたなく翁その人であり、翁その人の眼や耳や鼻、身体そのものを媒介に手もとに引き寄せられたものである、という確かさだけはあった。

 民俗学的知性というものがあるとして、それは自分の眼と耳と鼻と足腰とでとにかく世界をスキャンしてしまおうという欲望において、ここまで獰猛なものである。もちろん、それは「科学」一般に宿るものではあるのだが、しかし、あくまでもこの自分の身体だけをそのための道具(メディア)と化してゆくというひとつの構えは、役に立つよう手もとでコントロールしてゆくものというより、むしろもう身に抜き難くしみついてしまったものになっているという意味で、なんとも民俗学的だなぁ、と思う。もちろんその獰猛さは、書物に対しても同じように発揮される。翁が古書収集に膨大な精力を傾けてきたこと。そして、それらを読み、素材を吟味し、整理した上で自身の記述の中に織り込んできていること。これはどれだけ強調しても強調しすぎることはないだろう。増殖し続ける書物の世界とナマの現実との間のより良い往還を「学問」の名の下に積極的に方法化しようとしたのが柳田國男だった。赤松啓介翁もまた、身に宿ったそのような民俗学的知性の獰猛さで自らの見聞と書物の間の往還を志し、柳田とは違った文体の中にその志をつなぎとめようとしてきたのだと思う。


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 というわけで、翁は今も健在である。

 今年の初め、神戸の自宅の近所で自動車をよけそこなって道路の側溝に転倒、救急車で運ばれて左目の上を数針縫う怪我をされたのだが、医者も驚く回復力で、また元気に執筆を続けられている。遊びにうかがうたび、翁の自宅の二階の書斎でいろいろな話に触れることが、民俗学まわりの若い連中の大きな楽しみになっている。

 本書は雑誌『どるめん』に掲載された翁の原稿をもとに編まれたものだが、考古学方面の仕事をまとめる作業も、そちらの人々の手で進んでいると聞く。また、我々に近いところでは、『猥談!』というタイトルで上野千鶴子との対話をまとめる作業も進行していて、この秋にはなんとか上梓できるようにと思っている。いずれにしても、文字通りコツコツと書きためてきた翁の仕事がそのような形で世に出ることは、民俗学や考古学周辺の人間だけでなく、読書家一般にとっても喜ばしいことに違いない。

*1:何か翁の単行本の解説として書いたもの、という記憶はあるが、どの著作だったのか当面不詳。調べてまた追記させてもらいます m(_ _)m

*2:判明しました。ので、タイトルその他書き換えておきます。171125