民俗学的思考の来歴・覚え書き――「現代民俗学」のための、迂遠な考察

 

――故に日本がもし今までの通りに、いくらか流行におくれつつも、真似だけはかならずする国民であるならば、これから三十年五十年の後の、学問の方向だけはおよそ予察しえられるのである。ただ大学は寺院に次いでの保守派であるから、やや余分に遅蒔きに渋々ながら追随するという結果に、陥りはせぬかと気遣うのみである。しかも弘い世界を見渡して、この種の学問の恩恵利益を最も多く収めうる国、同時にこの問題に対する研究の材料を、手近に最も多く供給しうる国は、日本をおいてほかにはあるまいと思うのであるが、これでも人はなおこの学問の世間的価値を疑い、道楽の代わりの無害な暇潰しのように考えるであろうか。*1

 

――同時進行しながら考えるということの快楽は、快楽を通じて、考えるということが生きるということに接近する。*2


はじめに

 「現代民俗学」ということから、まず考えてみることにします。

 まだほとんど正面から提起されていないもの言いですが、いま現在、その「現代民俗学」というもの言いを言挙げして提示することの意味と、その背後にあるより本質的な問題について、最低限必要と思われる考察を加えてみることを始めたいと思います。*3 それは、すでに自立した学問領域としては役割を終えてしまっている日本の民俗学とその周辺に、かつてどのような想像力が蝟集し、どのような知性が具体的に集うようになっていったかについて、言葉本来の意味での「学史」の一環として考えるための、そしてそれらある意味メタレヴェルでの作業も全部ひっくるめたところで新たな時代に対応できる民俗学的思考とそれが宿る知性のあり方を考えるための、いずれはじめの一歩、でもあります。


「現代」ということ――民俗学の「失われた20年」

 「現代」と「民俗学」との組み合わせは、たとえばあの「都市伝説」がそうであったように、本来出会うはずのない (と思われていた) ものを敢えて組み合わせることで、何らかの新鮮なイメージを喚起する、そんな効果を持ったもののはずでした。*4 あるいは、すでに忘れ去られているか、でなくても陳腐な響きの中に埋もれてしまっている「都市民俗学」というもの言いを持ち出しても、構いはしないでしょう。*5 いずれにせよ、「民俗学」というタームそれ自体にまつわる意味やイメージの広がりを前提として、それに対する距離感、相対化の効果を狙ってつくられたものです。

 「現代」でなく「現在」という言い方をした向きもないではなかった。*6。この「現在」という言い方には、もちろんあの「現地調査」「フィールドワーク」にまつわるさまざまな神話をだらしなく全肯定してしまうという効果も仕込まれていました。判断停止、思考の怠惰を正当化する日本の民俗学周辺に埋め込まれたルーティンは健在です。「民俗学にとって「現在」とは?」などという惹句ひとつでお手盛りの会議を工作し、自分たち自身は何ひとつ変わろうとしない、できない知的怠惰を放置したまま何か新たな問題を提示できるように考える、そういう愚鈍さ、無自覚さそのものがとりもなおさず日本の民俗学の現在であるという底知れぬアイロニーに、うすら寒い思いと共に苦笑いした記憶があります。

 現在、大学での専門教育としての民俗学は、ほぼ崩壊しています。何より、学会そのものがすでにまとまりをもって活動できなくなって久しい。査読制度が実質的に機能しない学会誌の類に、誰に、どのような読者に向かって書いているのかもよくわからない綴り方の数々。質疑応答も闊達に行えない学会や研究会、いや、何よりも相互に問題を共有し、ことばのやりとりの中で新たな理解や解決の水準を求めようとする最低限の態度そのものすら共有できなくなっている、同時代の知性として信頼の置けない物件の遍在と常態化。民俗学の新しい成果や最新の研究水準というのがどのようなものか、周囲の領域からも知的関心を持って見られることがなくなっています。

 何も、大学出自の既存の学問領域の体裁をもっとうまく真似ろ、と言うのではない。逆です。日本の民俗学にとっての学問のあり方、互いに「わかる」を宿してゆけるコミュニティの成り立ちとはどのようなものか、そういった根源的なところから果敢に自ら問い直す姿勢もないまま、ただ何かの間違いで演じねばならなくなった「学問」という体裁だけを何とか守っておきたいという小手先の粉飾や糊塗に汲々としているという意味で崩壊している、そういうことです。

 それと共に並行して、90年代以降、政策的な背景もあって爆発的に大学院生が増やされてしまったことで、「学会」を手当たり次第に横断してハシゴするようなことも普通に行われるようにもなりました。それは文科系、とりわけ人文系の領域で顕著でしたが、同時にまた、学会で「発表」することで「業績」をひとつ稼げる、という、まるでポイントカードにポイントを吝嗇に貯め込んでゆくような効率主義に根ざした貧しく卑しい立身出世指向だけが増幅され、若い世代の知性の間で垂れ流しになっていったことでもありました。*7

 そんな状況の中、民俗学会はある意味、格好の草刈り場になりました。文化/社会人類学社会学、人文地理学などは言わずもがな、良くも悪くも領域の溶解が進んだ文学研究、文芸批評といった分野から、思想史に地域史、社会史などこれまた断片化著しい歴史学周辺に、比較文化、メディア研究、カルチュラルスタディーズ……などなど、いずれおのれの立ち位置がどこにあるのかよくわからないまま、それまで分野や領域をへだてていた堤防が軒並み決壊した「文科系」の水びたしの中に民俗学もまた呑み込まれてゆきました。*8

 対象と認識、方法論いった道具立てで、多くは大学の講座制度の枠内で「総論」「概論」からひとつずつ積み重ねられていたような既存の「学問」の枠組みや世界観自体、ここに至って最終的に崩壊しました。崩壊という言い方が粗雑に過ぎるならば、本音としてはもとよりタテマエとして馬鹿正直に信奉してみせることすら意味も実利もないものに思えるようになった、とパラフレーズしてもいいでしょう。いずれにせよ、日本語を母語とする広がりの中でそれなりの歴史と伝統を維持してきていたいわゆる「文科系」「人文系」の「学問」をめぐる生態系、情報環境はその時期を境にして、激変してゆきました。彼は昨日の彼ならず。大学は大学で、学問は学問で、昨日と同じたたずまいで存在していても、その内実、中身を支える知性のあり方やそれらを相互につむいでゆく関係のありかたなどは、それ以前との間にひとつ、大きな不連続線が現れています。

 それらの事態について詳論する場ではないので、ここではこれ以上深入りしません。ただ、この場に関わる限りで、少なくとも民俗学について言えば、しょせん出自は野の学問、そのように大学由来の「学問」の世界観自体もとりあえずの借り物のまま推移してきていた分、その中にいる者ひとりひとりの思想信条や世界観、価値観に根本的に関わるような崩壊はどうやらあり得なかったらしい。まただからこそ、のんべんだらりと延命できたという事情はあるように思います。*9

 それでも、「現代民俗学」という言挙げをいまさら敢えてせねばならない、そう痛感する理由のひとつには、そんな息絶えることもできぬまま形骸化し、生き恥をさらしている学問ならば、未だ十分に解き放たれていないその「学史」ごとスクラップ&ビルドを試みるしかない現在、という認識があります。そして、その程度にはまだ、この立ち腐れたまま久しい民俗学という学問の中からもまだ、何らかの可能性がこの酸鼻を極める屍臭の中からでもなお、引きずり出せると信じているからです。


「現在」をとらえたい欲望

 再度確認しておきましょう。問題にすべきは「現在」でした。それは間違いない。他ならぬ自分自身が、日々生きて呼吸している〈いま・ここ〉、この同時代のうつろいゆく全体こそが、知的好奇心と関心の赴く先にありました。

 民俗学がどのように「現在」を回復し、眼前の事実、〈いま・ここ〉で生起しているできごとをいきいきととらえることができるのか。かつて、ある時期まではそうだったように。少なくとも農山漁村の日常生活の中に織り込まれていた、文字の側からそうとは意識されることの少なかった生活文化の現在形について、「道楽」「趣味」の情熱から粒々辛苦、同好の士の広がりと共に大きく「わかる」ことを志していた頃のように。

 そのためには、「民俗」の「消失」や「変貌」といった角度から感知されていた高度経済成長の現実を、民俗学の目線からどのようにとらえなおすのか、という問いがまず何よりも必要でした。個別具体の相においてことばと身との距離を計測しながら、〈いま・ここ〉に生起している日常生活の諸相を「同郷人の感覚」で「実験」「観察」し書き留めてゆく。現在「フィールドワーク」などと呼ばれて丸められている営みの最大公約数のところでの方法的射程とは、そのようなものでした。ならば、それをもう一度、高度経済成長の「豊かさ」が実現してしまっている日本の現在に適用してゆくことはどのように可能だろうか――柳田没後の、うっかりと大学の「学問」に取り込まれつつあった、上に向かって堕落を始めていた民俗学が自らに問い直すべき第一歩はそこでした。

 そもそも日本の民俗学とは、日本人の多くがまだ「百姓」であった時期に、その「百姓」の暮らしをものさしにしながら、日本人がどのようにこのアジアの東の端っこの列島で暮らしてきたのか、その来歴を紙と文字の文書だけに頼るのでなく、〈いま・ここ〉の手もと足もとに記憶され、たまさか伝承されてもいる個別具体の〈もの〉や〈こと〉から発して、言わば望遠鏡をさかさにのぞくようにしながら、「いま」から、あるいは「いま」の中に溶かし込まれている「むかし」を見てゆこうとした、そんな迂遠でおだやかな、まるで漢方薬のような薬効の学問でした。少なくとも、かつて柳田國男が構想し、実際に組織化もしていった広がりの中に宿っていたのはそんな知性の可能性のはず、でした。

 文書を一次資料 (史料) として考えるそれまでの歴史学に対して、敢えてそれ以外の伝承なども資料として考えようとしたため、「実験」「観察」を介して眼前に存在している事実が問題になってきた。だからこそ、「現在」を、それがどのような水準にせよいきいきとした、身に即した等身大のリアルなことばによってとらえようとする欲望が、民俗学へと向かう知性の必須の条件にならざるを得ませんでした。

 「現在」をとらえたい欲望。それも他ならぬこの身の感覚の内懐で、日々のことばの水準にできる限り近いところで。そのような知性のあり方は、ある時代条件、一定の情報環境の下に同時多発的に生まれてきます。たとえ民俗学に向かわずとも、あらゆる意味での文学や芸術、思想や社会運動、などなど、さまざまな出口に向かってゆく。そんな同時代の知性のあり方との関わりもまた、民俗学的思考の精神史には含み込まれています。


再度、民俗学考現学の間から

 思えば不思議なことではあるのですが、これまであれほど喧伝されてきた柳田國男という知性の全体像の中で、ジャーナリスティックな柳田、というのは忘れられてきたようです。でなければせいぜい、柳田の偉大さ、知の巨人ぶりをを強調する味付けのひとつとしてだけ扱われてきた。官界を辞した後、朝日新聞社客員、論説委員として暮らし、紙面にコラムを定期的に書き続けていた時期も長かったにも関わらず、同時代の新聞人、ジャーナリストとしての側面から柳田を正当に評価しようとした仕事はほとんどないと言っていい。*10

 確かに、農山漁村に「残存」している「古い」 (と思われる) 生活習慣=「民俗」、を「採集」し「記録」することを第一義としていた分、近代化・工業化・都市化の先端部分、最も動きの激しい現実についての視線は柳田には希薄でした。彼自身については、かの『明治大正史・世相篇』以下、〈いま・ここ〉から歴史や文化を見通すジャーナリスティックな視線は十分に備えていましたが、その一方で、組織としての「民間伝承の会」以下、当時の彼のまわりの若い世代にそれら「都市」「モダン」への志向は意識的に制限していました。*11 それは柳田個人の志向もあったにせよ、まずは組織者としての政治という部分が大きかったと思います。しかしその結果として、そこに宿る学問としての民俗学に対して、おのが手もと足もとの「現在」をかなり不自由な形でしか見通せない、意図せざる手枷足枷をはめることになりました。

 その一方で、「考現学」が、それら柳田を中心とした民俗学とある意味、表裏一体のように現れてきました。「都市」「モダン」へのナマの視線はジャーナリスティックであり、同時に、当時の新たに勃興し始めていた大衆社会状況へどのように学問が、知的な営みがアクセスしてゆけるか、という大きな問いにもつながる可能性をはらんだ運動でした。*12

 「都市」の先端の「風俗」をことばによってでなく視線によって捕捉し、視覚的に絵画的に「描く」ことによって「記録」してゆこうとする態度。彼の擁した「しらべもの」というもの言いには、「調査」や「採集」といった柳田系の民俗学が好んで使おうとしたタームよりさらにカジュアルで砕けた雰囲気と共に、ジャーナリスティックな“くどさ”、アクの強さといったものも漂っています。*13

 関東大震災という、日常生活に不連続を生じさせる大きな節目をきっかけに、アクティヴに活動を始めた彼らは、世代的にも、また個性としても、正しく「モダニズム」の申し子でした。柳田の周辺で組織づくりに賛同していった者たちと同世代ではあったけれども、「モダニズム」への傾倒の度合いは異なっていた分、柳田から疎まれる結果になりました。*14

 もうひとつ、民俗学考現学とに同時代の知性が企てた運動としての共通項があるとしたら、「趣味」「道楽」としての学問の可能性を前面に押し立てたことでしょう。アマチュア=素人であることが最も強みになり得るような方法意識を設定した点において、民俗学考現学はここでも表裏の関係になります。民俗学において称揚された、「同郷人」が関わることによって最も高められる学問、という設定は、後に「一国民俗学」と呼ばれるような「日本」限定の、ナショナリティに収斂させてゆくような学風を強めさせ、結果として「通文化比較」といった視点を稀薄にさせた、と批判されます。しかし、その一方で、「自文化研究」といった、20世紀後半に勃興してくる文化と社会をめぐる学問領域での新たな潮流の先取りをしていたところもあると共に、別の角度から言えば、そのような批判のあり方そのものが、民俗学を「新国学」とも称していた柳田の意図を矮小化してゆく隘路に陥らせることにもなっています。

 そして、言うまでもなく実地の調査、観察、現場での作業を重視する方法的意志。戦前、日本の人文科学の分野には、それら実地に現場を歩いて調査をする、後にフィールドワークと呼ばれるようにもなった「方法」は、まだそれほど根づいていませんでした。人文地理学や初期の考古学など、「自然」を相手どる分野では自然科学の方法の影響などが現れていたものの、ことばや習慣、文化といった人間や社会の〈いま・ここ〉に直接関わるような「調査」の視線は戦後に比べてずっと乏しかった。旧満鉄調査部の仕事など例外的なものは別にして、実証的なそれら「調査」の本格的な組織が行われるようになるのは、一般的に戦後、アメリカの影響で実証主義社会学などが一気に流入してきて以降と言っていいでしょう。何より、その社会学自体にしても、戦前は社会哲学の脈絡が主流で戦後に比べてはるかに思弁的でしたし、せいぜい労働問題など社会問題を扱う社会主義マルクス主義系の実践家たちがさまざまな形で「現場」に「調査」に赴いていたくらい。明治から大正にかけての貧民窟ルポなどはそれらの先駆的な形態でしたが、ジャーナリズムや社会運動の分野での広がりにとどまり、当時の大学出自のアカデミズムの学問のあり方に積極的に影響を与えるまでには至らなかったと言わざるを得ません。*15

 その意味で、「民間学」としての民俗学考現学には、その後それぞれ異なった経緯をたどることになる流れとは別に、その初発の段階で、その同時代性にいまいちど注視してみることによって、形にならなかった未発の可能性がまだ残されています。

 「民間」であること、どこの誰ともわからない無名の知性がそこここから姿を現し、横に手をつなぎ、連絡してゆくことで獲得してゆく広がりの中で、新たな「わかる」を宿してゆくこと。「西欧」の力量任せに、効率的かつ合理的にみるみる構築されてゆくような「知」の構造体=「科学」の方向に、ではなく、そのような「知」への力学が同時代にすでに存在してしまっているという事実をまず光源として、そこから逆照射されざるを得ない場所にいるらしいおのれの立ち位置を前向きにあきらめながら自覚したところからようやく初めて足場を確保してゆけるような、そんな言葉本来の意味での「オルタナティヴ」な「知」のありよう。ぐっと腰を下げ、重心を低く保ちながら、目線あくまで低く、身の丈の高さと視角とに慎重に維持しつつ、地走りのごとく、あるいは蔓草の生い茂るごとく、水平方向に広がりをゆっくりとわがものにしてゆく作法。

 しかし、間違ってはいけない。それらは共に同じ「近代」の情報環境において、構築的な「知」への力学との相互性の裡に現前したものです。そのことをまず、静かに思い知ることからわがものにしておかないことには、この「民間」というもの言いは、常に容易に石化し、頽廃してゆくでしょう。 「現代民俗学」を言挙げしようとする時、最初に覚えておかねばならないのは、この「民間」というもの言いの、これまで十分に展開され得なかった未発の可能性の存在です。


文化論と「戦後」の言語空間

 「民間」にも位相がある。質もあれば、そうなるに至った来歴がある。民俗学考現学とが共に、表裏一体のように「モダニズム」の同時代の中から立ち上がってきた大正末から昭和初期の時期だけでなく、もちろん、「戦後」の言語空間の変遷に伴ってそのうねりの中で浮かんでは消えていったさまざまなもの言いの脈絡においてさえも。

 たとえば、鹿野政直鶴見俊輔らが称揚した「民間学」というもの言いには、山口昌男が「歴史人類学」の語に込めようとした、そして「敗者」とあからさまにある方向での意味づけを施しさえしたニュアンスは、そこに含まれてはいても決して中心に置かれていません。むしろ、その「民間」であることが無条件に善であり、価値であり、時に正義にもなり得るような意識のあり方を前提にした時点から、民俗学とその係累はみるみるうちに堕落してゆきました。*16

 「文化論」の隆盛は「戦後」の言語空間を特徴づけるひとつのモードですが、その「文化論」になめらかに吸い寄せられていったのも、そんな民俗学とその周辺でした。1946年、ベネディクトの『菊と刀』をめぐって開かれた座談会あたりから始まり、「敗戦」の原因究明の一環として、「日本」と「日本人」とは何か、という大きな問いが新たに同時代の知性の間で共有されるようになっていった過程の初期の段階で、民俗学とその周辺は陰に陽に少なからぬ影響を与えています。柳田最晩年の著作『海上の道』へと至る道筋に背景として同伴していたそれら「戦後」の言語空間とその情報環境も含めた推移の考察もまた、これまでの民俗学の「学史」に置いては手つかずのまま残されている部分です。

 ひるがえって現在では「日本文化」を、そのような「文化論」の脈絡で語ろうという欲望自体がもう、宿りにくくなっています。ならば、どうしてある時期、あれほど「日本論」「日本人論」が「文化論」の脈絡で発熱してゆくことができていたのか。それは「文化の古層」とか「文化複合論」とか、もちろんあの『タテ社会の人間関係』に代表されるような心理主義的な色彩を加えた通俗文化論への回路の開き方も含めてのことですし、さらに言えばそれは、血液型や占いといったさらに通俗へと開かれたたベストセラーの系譜とも連なっていたはずです。学問の継承というのもまた同時代の情報環境と無関係であり得ないという当たり前過ぎるほど当たり前のことを、しかしきちんと認識できる主体かどうかによって、これらのことについての解釈もまた変わってきます。*17

 かつての大林太良や泉靖一、さらにさかのぼれば岡正雄石田英一郎、といった連なりの人脈で共有されてきた、民「族」学的な「文化論」への志向。「基層文化」や「文化の重層性」や「古層」といった、ある種堆積系のイメージを持つもの言いがそこから繰り出されてきていたことの意味は、結構根深いものがあります。それは戦前のドイツ系民族学、シュミットなどの文化理論に由来するもの、という一応の学史的解説とは少し違うところで、「地層」そのもののイメージから発された、その限りで当時の「考古学」の普及/通俗化とも関わったところで起こっていた現象だった側面もどこかにあるように思います。

 「文化」をそのように「地層」のように堆積されてゆくものとして見る、その見方自体がどういう「知」の装置連関から生まれてきたのか。ここでは「地層」というイメージが、眼前に具体的に存在する地層から一般化してゆき、それが歴史的な時間軸のイメージと重ね合わされて解釈されてゆく方向に何か動かされていったことをまず、気に留めておきましょう。

 それは、たとえば戦前、柳田がそれこそ「山人」に興味を深めていた頃の、彼の脳髄にイメージされていた同時代的な広がりも含めての「歴史」のあり方との距離や、晩年の彼が「日本人論」的な方向にどんどん傾いていったこととの連続/不連続を確かめてゆくことにも、おそらくつながってゆく。

 「山人」を幻視していた頃の柳田が生きていた同時代において、彼のまわりであたりまえに語られていた「歴史」とは、どのようなイメージとして存在していたのか? 「山人」は、果たして「地層」的な歴史イメージを前提にして立ち上がるようなものだったのか? とすれば、同じ頃、折口信夫などと交わしていた「古代」というもの言いの内実は? 後に柳田が心意伝承だの、そこに棲む同郷人の内面だのといった方向に民俗学の向かうべきある究極の目的を設定するようになっていたことを考え合わせれば、前提とされていた装置はまず「心理」であり「精神」であり「意識」であり、いずれ人の内面であり、しかしそこにも必ず「歴史」がはらまれている、という認識だったのではないでしょうか。とすれば、それは先の堆積系のもの言い、「地層」に象徴されるようなイメージに規定される「歴史」とは、そもそものあり方からして別のものだった可能性もありそうです。

 「生活の古典」というもの言いも、そのような脈絡で改めて光を当ててみる必要があるかも知れません。日常の細部、立ち居振る舞いや習慣なども全部ひっくるめた現在=〈いま・ここ〉において、「古典」「古代」は平然と内包されている、という認識。それは、もしかしたら戦後に励起していったらしい「地層」的なイメージでの文化や歴史に対する理解のあり方――とりもなおさずそれは〈いま・ここ〉のわれわれを規定している理解の仕方ですが、それらとは想像以上に異なる位相をはらんでいたような気がします。


〈いま・ここ〉の「むかし」へ

 単線的な歴史を考えるならば、民俗学の方法ではどう頑張っても中世までしかさかのぼれない、と柳田は明言していました。昭和初期の段階においてすら、です。同じような意味で、北海道では民俗学はできない、あるいは、東京で生まれ育った弟子に対して、君は町育ちだから民俗学は難しい、というようなことも口にしていたと伝えられています。*18

 それに対しては普通、「伝承されている古い残存文化」を知らないから民俗学を手がけるのが難しい、といった解釈が施されてきていたはずです。田舎育ち、地方在住の者が優遇され、時にそれは「優れた伝承者」といった制度的権威として固定化される一翼を担ったりもした、日本の民俗学にまつわる習い性。だからこそ、前述したような「都市民俗学」というもの言いの不自由も、それら柳田“信者”の習い性から規定されていた部分すらありました。

 けれども、必要なのは単なる「民俗」、収集可能な文化の一要素としての「伝承されている古い残存文化」に個人の生活歴としてなじみがあるかないか、といった水準を超えて、「心理」や「精神」「内面」にはらまれている「古典」に感応できる資質を、その人の生い立ちや生活背景から判断してどれくらい濃密に持っているかどうか、ということであり、さらに突き詰めてみるならば、それは柳田自身の自覚としておそらく生涯の最後まで持ち続けられていたはずのあの「国学」という手ざわりにもつながり得るような資質にまでまっすぐ垂鉛を下ろしてゆく作業、だったりするのだと思っています。

 それをたとえば、「カミ」を身近に感じることのできる資質、といった風にひとまず切り縮めてみる向きもあります。原則、間違いでもないと思う。ただし、そこに執着しすぎると、柳田が考えていたような民俗学が初発の時点ではらんでいたような全体性は永遠に現前化不可能のまま、それこそ浪漫主義的な装置の中でいたずら石化し硬直した立ち位置を占めるだけで終わってしまうでしょう。

 「カミ」、ではない。少なくとも「カミ」と言ってしまうことを、〈いま・ここ〉から民俗学を活きたものとして再度立ち上げることを志す立場からは、まず最初に禁欲しなければならない。*19

 単線的な、それこそ一時期のように「地層」の比喩で解釈され回収されてしまうような「歴史」でもない。〈いま・ここ〉に、そこに生きる自分の「心理」「意識」「内面」に、間違いなく「古典」と呼びたくなるようなある痕跡が、何かの瞬間にふと垣間見える、そんな微細な感覚にまず自覚的になろうとすること。そんなささやかな自覚から始まって〈いま・ここ〉からゆっくりと掘り下げてゆくような「歴史」という水準も、まだきっとあり得るらしいこと。

 民俗学的思考にまつわりついてきた「歴史」や「文化」を考えようとする時に常に立ち上がるあの「地層」的なイメージを括弧にくくってみれば、同じように「階層」や「系統樹」的なイメージもまた、ある程度相対化してゆくことができるはずです。要素と要素、断片と断片が単線的に連なってゆき、何か全体へ向かってまとまって伸びてゆく、といったイメージの呪縛。そういう仕掛けによってだけ「全体」「まるごと」を手もとに引き寄せることができる、という信心は、思えば相当に根深くわれわれの知性のあり方そのものに関わっているもののようです。*20

*1柳田國男「青年と学問」(原題「楽観派の文化史学」長野県東筑摩郡教育会講演、1925年5月30日)、初出『青年と学問』、日本青年館、1928年; 岩波文庫版、1976年、p.32。

*2平岡正明「自立的言辞による自立小僧のものほしさ」初出『ニューミュージックマガジン』1970年3月、『永久男根』所収、イザラ書房、1971年、p72。

*3: 2009年度後期から「現代民俗学」という名での講義を本学人文学部の専門科目として新たに開講、担当することになった。本稿はその講義のための手控えをもとに、その一部を大幅に加筆したものである。講義を介してさまざまな感想や印象、意見などを寄せてくれた学生諸君に、この場を借りて深く感謝する。「現代民俗学」に関しては、「現代民俗学会」という代物も近年、できているようだが、旧東京教育大学系の「大塚民俗学会」が衰退と世代交代による解体状況から苦しい延命のために衣替えしただけのことで、日本の民俗学のこの敗戦後の焼け野原のごとき状況から新たに建設的なアウトプットを期待できるようなコミュニティではない。

*4:「都市伝説」は“urban legend”の訳語である。近年、さまざまに人口に膾炙して一般でも使われる語彙に加えられているが、もとは北米の民俗学におけるタームである。筆者とその仲間がJ.H.ブルンヴァンの一連の著作を紹介した時点でも、意図としてはこのような方向からの「現在」との対峙の仕方の示唆も含めたつもりだったのだが、その後、民俗学プロパーでは単なる「民話」研究の脈絡にだけ切り縮められるのがせいぜいで、「学校の怪談」といった最も貧しい方向での通俗的な解釈でのみ一時的な流行を作り出す程度に終始している。

*5:「都市民俗学」というもの言いに対しては、団地アパートの民俗、などという問いの立て方が一時期平然と行われたり、また、城下町の民俗、宿場町の伝承、といった「都市」というタームの理解についての自明性を前提にした情けない解釈が横行した。けれども、執拗に確認しておくが、当時「都市」という語で表現されようとしていた問いは本質的に「現在」であり、具体的には戦後の高度経済成長期を介した変貌の中で、従来の「民俗」が「消滅」しつつある、という民俗学自身の危機意識に根ざしたものだったそれらの経緯と問題点については、拙稿「『都市民俗学』という神話」 (『民俗学という不幸』所収、青土社、1992年; 原題「『都市民俗学』論の本質的性格」) などを参照。

*6:「都市民俗学」というもの言いが批判にさらされたので、その「都市」の部分をそのまま「現在」という形にすり替えてごまかそうとしたと言っていい。もちろん、ある時期以降の民俗学界の習い性として、批判や問題の指摘に対して誠実な対応や議論の応酬がされることはほとんどないまま、批判についてはその存在すら黙殺、なかったことにして、狭い学界の体裁だけを糊塗する対応に終始していることは言うまでもない。ちなみに、筆者自身はそれらの問題の所在を強調する意味もあり、敢えて〈いま・ここ〉という言い方をしてきてもいる。

*7:これらの知性のあり方と「世代」の関係については、たとえば、拙稿「「研究」という名の神――あるいは「好きなもの」の消息について」(初出、永瀬唯・編『ターミナル・エヴァ――新世紀アニメの世紀末』所収、水声社、1997年; 『全身民俗学者夏目書房、2004年) 、「“大塚英志”という病」(大月隆寛・監修『腐っても「文学」?!』『別冊宝島Real』017、宝島社、2001年)、「偏差値秀才クンたちのゆがみ切った自画像」(『諸君!』2003年 12月号、文藝春秋) 、などを参照。

*8:90年代に起こった大学のいわゆる「一般教養」過程の再編に代表されるさまざまな文教政策上の大きな流れの結果として、ここで言う「文科系」の崩壊をとらえておきたい。「○○学」という看板と講座制度の複合で成り立っていた「文科系」の世界観は、この時期、互いを隔てていた幸福な垣根がみるみるうちに崩れてゆき、融通無碍なものに変貌していった。あの「隣接諸科学」という、一時期好んで使われた民俗学の自意識表明のジャーゴンもまた、このような状況ではめでたく意味を持たないものになった。にも関わらず、それら堤防の決壊と共に流入してきた新たな世代の知性によって、民俗学はその蓄積はもとより意匠まるごといいようにコピー&ペーストされ、本来の脈絡を無視したまま使い回されている部分もある。突き放して言えば、ひとつの学問領域の消長のサイクルとしてそのような「回収」「清算」の時期にさしかかっているとも言えるのだろうが、それにしても、そこには民俗学の初発の意志としてあった「野の学問」「民間学」としての矜持も心意気も、残り香程度ですら感じとれなくなっているのはなぜだろう。

*9:日本の民俗学のこのような性癖については、これまで案外見過ごされてきている。たとえば、これまで比較的指摘され、問題にもされてきた柳田とその門弟たちにとっての「敗戦」の受け止め方にしても、それぞれの民俗学者たちが同時代の思想や政治、言論といった環境でどのような主体を形成していたのか、ありていに言ってどのように非「政治」的なまま推移してきたのか、についての洞察を介在させないと本質的に理解できないだろう。 また、高度成長期以降、既存の大学制度の中に民俗学がまぎれこんでゆく過程でも、同時代の政治的状況とそれに関わる大学内政治の場で、個々の民俗学者がびっくりするほど無自覚、無意識なまま立ち振るまってきた経緯についても、言葉本来の意味での「学史」として、その経験ともどもそろそろ記述され始めねばならない。大学を中心として成り立ってきたわが国の知的ギルドにおいて、民俗学者は往々にして「馬鹿」「愚鈍」「異物」扱いされてきたことも、個々の資質や能力などとは別に、このようなところに根ざしている部分は大きい。柳田が「ルーラル・エコノミー」として、そして「ポリティークス」として民間伝承の学を構想していたことを、それがどれだけ異端で奇矯な響きを感じさせるものだったとしても、再度〈いま・ここ〉から鋭く想起しておくべきだろう。

*10:「この時期の柳田のこれらの文章に繰り返し現われるモティーフは、ひとまず「普通選挙」と「国際化」と「都市問題」とに要約できるように思えます。さらにそれらのモティーフの背景に流れている時代相について何かひとつもの言いを擁するならば、他でもない、急激な大衆社会化の現実ということになるのでしょう。そう、ジャーナリストとしての柳田國男は、あれよあれよという間に変わってゆく大衆社会化の流れとそれを可能にした情報環境の変貌に対して、真正面から提言し、未来に相渉る身の処し方を説こうとした社会改良家でした。」(拙稿「ジャーナリスト・柳田國男の志」、初出『コンステラツィオーン』1993年5月号、日本経営開発センター; 『全身民俗学者夏目書房、2004年) 。柳田國男とその民俗学にとっての大衆社会化、そしてモダニズム、という問いは、今なおこのように未開拓のまま放置されている。それは民俗学的思考一般にとって、そしてそれらをうっかりと宿してしまう知性にとって、“modern” とは何か、というおよそ根源的、認識論的な課題にまっすぐ突き刺さってくるものでもある。

*11:『明治大正史・世相篇』の「評価」については、それ自体「現代民俗学」を考える時の「学史」の水準でのエチュードになり得る。すでに各所で指摘されてきていることだが、民俗学以外の領域からの高評価に比べて、民俗学プロパーからの評価は驚くほど乏しく、貧しい。「一編の世相篇も生み出せない民俗学など、興味はない」と言い放った歴史学者もかつていたくらいだが、しかし逆に言えば、この「評価」の内外での落差がなぜこのように露わに現れたのか、を静かに考えてみることも、学問としての民俗学の「ポスト柳田」=高度経済成長以降、に埋め込まれている構造的問題を明らかにしてゆく糸口になるはずだ。「戦後」の言語空間において、民俗学とその周辺にどのような知性が集まるようになっていたのか、という問いはここでも当然、有力な補助線として機能する。

*12考現学についてはおおむね80年代以降、改めて脚光を浴びてきたこともあり、ジャーナリスティックな方向からも含めてさまざまに解読が進められてはいる。首魁は言うまでもなく、今和次郎1888年青森県弘前市の生まれ。もともとは建築学者で、そして画家。考現学民俗学の領域一般だけでなく、民家研究、服飾研究、意匠研究(デザイン学)といった分野でも仕事を残した。大正初期、『郷土研究』時代の柳田國男の調査に帯同、民俗学的な「調査」に接する。その後、民家の調査に向かい、朝鮮半島まで足をのばしていたが、関東大震災をきっかけに国内の「都市」の先端の風俗に焦点をあわせ、「考現学」を提唱。一次的なブームと呼べるほどの現象を引き出すが、そのために柳田國男からは「破門」された、とも言われている。今日、学問的な流れとしては、日本生活学会、現代風俗研究会路上観察学会などに、その手法や発想はある程度まで受け継がれているが、講壇民俗学の周辺からの動きは相変わらず鈍い。

*13考現学に関して言えば、川添登佐藤健二などによってすでに指摘されてきているように、舞台装置作家の吉田謙吉が立ち上げの段階でのブレーンとして存在していたことをどう見るかが、ひとつの突破口になるだろう。個別具体のディテール (細部) にこだわってしまう性癖は、柳田の世代とは違う、彼らの世代に宿った才能でもあったらしい。だから、広い意味での芸術運動、アート系ムーヴメントという色彩も、初期の「考現学」には色濃く宿っていた。「文学」(小説のみならず、詩や短歌、俳句なども含めた) や「美術」 (絵画や版画、彫刻など) から演劇や芸能などの舞台芸術、パフォーミングアート、音楽や映像(活動写真や映画)、写真、デザイン (意匠) やファッションなどまで広く含み込んだ「現在」=〈いま・ここ〉と真正面から向き合い、取っ組み合いながら、自分たちの同時代の〈リアル〉を発見してゆこうとするダイナミックな運動、だった。「ラリルレロ玩具製作所――いささか首をかしげているが、門柱のある家だ。その門に、この札をぶらさげたのである。池袋の家は、ナレの思い出を切れるようにと、引き払って、巣鴨宮中へと引きうつったのだ。(ああ、どこにも、ここにも空家があった。自由な自由な昔よ) 部屋数は、下が三間、二階が一と間。家賃は二十五円。敷金が三つ。二階を寝室にして、下は工房。ノコギリミシンを、先ず一台工面してきた。フクサンが、自分の愛犬シエーパードを売って、買ってくれたので。湯殿がついているので (おお廿五円で湯殿つきですぞ) そこへ釜をすえた。釜と言ってもゴハンをたく釜ではない。ねんどでこしらえたオモチャを焼く釜だ。セトモノをやく釜のキボの小さい奴だ。広く、同人を募集した。というと、新聞広告でも出したように思われるが、そうではない。来るものはこばまずと、つてを求めて若き美術家を集めたのだ。」(サトウハチロー『青春風物詩』東成社 1952年 p.51-52)このような「場」に集まった猛者連として残されている名前の中にも、吉田謙吉の名前がそっとまぎれこんでいる。ひるがえってこれから少し後、世田谷は砧の新開地にあの洋館造りの自邸を建てて、そこを自らの書庫にし、同人の集う「場」にもした柳田國男の「モダニズム」との連続/不連続を計測しようとすることもまた、初発の民俗学考現学との距離を、この場で言う「学史」の位相で考えるための作業になり得る。

*14:「モダニズム」研究もまた、人文学の領域一般で注目を集めてきているが、それらの背景も大きく見れば、民俗学が「現在」との相克を自覚し始めたのと同じく、学問を支える知性の世代性の必然が介在している。杓子定規な「研究テーマ」の消長というだけでなく、自分たちの〈いま・ここ〉と地続きの〈リアル〉を「歴史」の相に再発見してゆく、そのひとつの現れが「モダニズム」へと雪崩を打つ若い世代の研究者の群れとなっている側面は否定できない。しかし、あの日本的脈絡での「ポストモダニズム」の軽佻浮薄を可能にした80年代以降の情報環境がそのような「モダニズム」へのスタンピード (殺到) をもたらしたことは、それ以降、今の「モダニズム」研究にはらまれている構造的な特性についてその中にいる者はおおむね無自覚のまま推移している、という不自由をもたらしてもいる。知性とそれを支える同時代の情報環境との関わりにおいて否応なしに形成されるある種の傾向は、常に「あらかじめ隠されたもの」としてのみ、表象の向こう側にたたずんでいる。

*15:とは言え、これら「下層社会」「貧民窟」ルポも今やまた、先に触れたような「モダニズム」への殺到の中で、新たにいじくりまわされる素材となっている。村島帰之や賀川豊彦の仕事が古書市場の流通に閉じられることなく、復刻や著作集といった形で広く参照しやすくなっているのは言うまでもなくありがたい状況だが、同時にしかし、そこで同時代の知性が現在の情報環境でどのような「読み」を引き出しているのか、については、一見隆盛を見せている「モダニズム」周辺の研究状況に対するカウンターを当てつつ、距離を置きながら自省しておく必要を感じている。「貧困」「貧乏」という単語の向こう側にひそむ〈リアル〉への想像力の変質までも含めて、それら「読み」の批評は同じくこの同時代の内側でなされねばならないと思うからだ。

*16:「民間学」というもの言いが、80年代末から90年代にかけて浮上してきたことの意味も、ここで言う「学史」の位相で考える準備が必要である。戦後の言語空間における『思想の科学』とそこから発した人脈が、アカデミズムのみならずジャーナリズムの拡張も含めた「場」の内側で、どのような“力”を、ありていに言って「権力」をシステムとして発動してゆくようになっていったのか。その過程で、たとえばこの「民間学」といったもの言いが、どのように価値をはらんでいったのか、同じように「現場」やそれらから引き出される「体験」「経験」「見聞」がどのようにそれまでと違う特権的な文脈に祭り上げられていったのか、それらもろもろの考察の果てに立ち現れる「場」をまず明確にことばにし、共通の認識として提供できるようになって後に初めて、この民俗学的思考に装着されて久しい拘束具をリリースするコマンドも発動できるようになる。「日本近代の公的な世界の建設のかたわらに、公的世界のヒエラルヒーを避けて、自発的な繋がりで、別の日本、もう一つの日本、見えない日本をつくりあげて来た人がいたということである。その人たちは公的日本の側からは見えない人たちであったために勲功の対象になることはほとんどなかった。書かれたものも散発的で、よほどの積み重ね作業を行わないと全体の眺望を得られない人々の繋がりである。しかし、一度、眺望あるいはその手がかりが得られれば、二十一世紀に日本が生き残るために見習わなければならないのは、これら「敗者の視点」で日本近代を見つめて生きた人々であることが明らかになる。」(山口昌男「結びに替えて」、『「敗者」の精神史』岩波書店、1995年、p.555)晩年の (と敢えて言う) 山口昌男が全力で言挙げした「歴史人類学」の枠組みは、しかしそこに「挫折」「敗者」といったもの言いが必ず同伴していることの意味も共に深く、静かにかみしめることで初めて、十全に理会できるものである。ことばの表層などではなく、思考するおのが身、知性のあり方自体の自省の過程もひっくるめて思い知る、そんな境地。もちろん、ありがちな浪漫主義のぬかるみに足とられることからでき得る限り距離を置きながら、であること、言うまでもない。

*17:それはまた、意識の方向性としては、昨今は民俗学文化人類学といった領域から入ってゆくよりも、むしろ考古学などの周辺に色濃く蝟集してゆくものにも思える。言い換えれば、眼前の現実をどこかで散文的なことばの水準でとりまとめて「論」の方へと向かう、という手続きではなく、むしろ、「もの」の具体性の水準から「科学」的な視線も含めて、ある種淡々と冷徹に精査してゆく、といった欲望の方向からでしか、現在ではそれら「文化論」へと赴くモティベーションが宿りにくくなっているらしい。そのような状況下では、「日本とは?」「日本人とは?」といった、それ自体は漠然とした抽象的な問いかけに対して何らかの確かさを伴いながらの応答を構築してゆこうとする時に、ことばの射程距離、とりわけ話しことばも含めた「場」の広がりに織物のように含み込まれる、書きことばも含めた広義の「言語」のつむぎ出す意味の磁場に対する信頼を、どこまでかけがえのない〈リアル〉のよすがとするのかどうか、という大きな分岐点を主体の側に強いてくることになる。今日の「文科系」「人文学」の変貌とは、実にそのような水準での認識変換をもはらんだ過程であるものらしい。

*18:「私は柳田国男が亡くなる少し前に、はじめて成城のお宅にお訪ねしたとき、柳田は「はあ、君は北海道出身ですか。北海道は民俗がないから、民俗学は無理ですな」と言われたことがあった。」(山口昌男モダニズムと地方都市―北海道と金沢」『「挫折」の昭和史』所収、岩波書店、1995年、p.387)柳田に愛された、という「伝承」と共に、柳田に疎まれた、叱られた、という「伝承」もまた、すでに「学史」の水準で解釈されるべき素材になっている。先の今和次郎の「破門」伝説もまた、「伝承」として考えられるべきこと、言うまでもない。

*19上野誠「〈神〉という自動説明ボタンに封印をせよ――あまりにも、巨大な風流獅子の話」『正しい民俗芸能研究』0号、民俗芸能研究の会/第一民俗芸能学会、1991年12月、などを参照のこと。上野自身がその後どのようにこの時点での認識を深化、結晶させていったかとは別に、ここでのマニフェストは未だ圧倒的に正当であり、またその正当である分、その後の民俗学、民俗芸能研究の分野に限らず、ここで言及しているような意味での人文学一般においても、本質的な意味において等閑視されている。

*20: 「赤松啓介がたどりついた『私たちがほぼ事実と認めることを積み重ねるほかはない』という決意にまず身を重ねてみよう。そして、そこから見通せる「地域」(まるごと)にすべての感覚を、しかしゆっくりと同調させよう。そのような営みの連続によってつむがれてくる経験こそが、かつて民俗学を支えた初発の志である「旅」という方法に深く関わってくる。それは、そのような経験によって主体が変容してゆく、その効果において本質的に社会教育であり、また、だからこそある方向において「革命」的にもなりえた。今や手垢にまみれきった「調査」も、しかしその効果においてそのような「旅」だと言いきれねばならない。もしそうでない「調査」があるとすれば、それは「まるごと」の場に同調する身振りを何かに阻害されていることに他ならない。」(拙稿「「まるごと」の可能性――赤松啓介民俗学の現在」、初出『国立歴史民俗博物館研究報告』第27集、国立歴史民俗博物館、1990年; 『顔あげて現場へ往け』所収、青弓社、1997年、pp203-204) 。