民俗学や人類学まわりの学史を浪曲仕立てでやったらどうなるか、ということを、まだ院生の頃、いずれ劣らぬ悪ガキたちの間でやっていた時期がある。
その時気づいたことは、“ふたつのミンゾク学”(民俗学と民族学)が未だ渾然一体としていた戦前には、柳田、折口、南方を始めとしたいわゆる“キャラの立った”人材が多く、それらが分裂してゆく戦後になると、民俗学の方には浪曲の文法で描き出せる器量の人物など出なくなったのに対して、なお民族学・人類学方面は実にこう、なんと言うか、浪曲的語り口になじむような類いの人材を輩出している、ということだった。
その時、浪曲として一番華々しいヤマ場はどこだろう、という話になった。いくつか意見は出たが、少なくとも戦前では、民間伝承の会を組織して後の民俗学の基礎を作ってゆく昭和初年の時期、砧の柳田邸に書生として住み込んでいた岡正雄が柳田と喧嘩して家を飛び出し、そのまま渋沢敬三の所へ走ってついにウイーン大学へ留学するようになるあたりの顛末はまず欠かせないだろう、というのが衆目の一致するところだった。
やはりその時期に柳田邸に住み込んでいた、こちらは信州の実直な百姓だった野沢虎雄が回想している。砧の柳田邸は当時屈指のハイカラ建築。そこに書生と言えば聞こえはいいが、牛込の実家から奥さんがやってくるまでの間身のまわりの世話をする係として呼ばれたきたのが岡と野沢で、岡が書架にあるフランスの文学書などを読もうとすると、柳田が、そんなものを読むことはない、と言う。それでも岡はまたしつこく同じ本をとりにゆく。ついには広い図書室の対角線上に両者が座って口もきかない状態になった由。ちなみにこの時柳田**歳。対する岡正雄は三十歳。岡の鼻ッ柱の強さもたいがいだが、しかし、そんな年下の若造に本気でつっかける柳田も柳田だ。
つまり、岡正雄というのは柳田國男を本気にさせるくらいの人物だったのだと思う。似た者同士だったんじゃないの、と僕なんか思うんだけどね。そう言えば、実兄岡千曲の『本屋風情』も、実直そうな回想録のふりして冒頭からいきなり柳田との軋轢をつづったもので、ああ、この人と同時代に会わなくてよかったなぁ、と心から思える偏屈極まりないいやな文体なのだが、つまり兄弟して柳田とは相性がよくなかったということになる。
岡正雄。明治三一年六月五日、今の長野県松本市に生まれる。父は元判事の弁護士。松本中学から仙台の二高へ進み、そこでマルクス経由でエンゲルス、モルガンの仕事に触れる。大学は東大の社会学科。大正一三年に卒業後、ドイツ語を教えながら民族学・民俗学まわりの人たちと接触を深めてゆく。柳田国男の研究会だった木曜会に出入りし始め、雑誌『民族』の編集を手がけるのもこの頃だ。その後、前述のような柳田とのいざこざもあって、六年間ウイーン大学へ留学。博士論文『古日本の文化層』を昭和八年に提出し、昭和十年に帰国後、国立民族研究所の設立を計画。これは、昭和一八年に文部省直轄の研究所として設置されたものの活動はあまりできないままに終わったが、今ある大阪・千里の国立民族学博物館は明らかにこの研究所を下敷きに設立されたものだ。
戦後は、GHQに呼び出されることを怖れながら、故郷の川でヒスイをとったり、漫画(おそらくは貸本の)の出版に手を出したりして息をひそめていたが、GHQがむしろ岡の学識に期待していることがわかると一転、学界に復帰。昭和二三年の「日本民族=文化の起源と日本国家の形成」という座談会は、戦後の民族学・人類学の方向性を規定した画期的なものだった。メンバーは岡の他に八幡一郎、江上波夫の三人で、司会が石田英一郎。民族学と東洋史と考古学の交錯したところに壮大な「文化」史的視野を構築しようとするものだったが、そのくせ「歴史」の大御所のはずの歴史学がいないのは、これは戦前からのつきあいの濃淡以上に、戦前の皇国史観に対する当時の雰囲気があったのだろう。昭和二六年には東京都立大学教授となり、社会人類学専攻の大学院設置に尽力。さらに昭和三九年には東京外国語大学に移り、アジア・アフリカ言語文化研究所を作って初代所長になった。梅棹忠夫と並ぶ文部省転がし、研究所作りの達人、と言っていいかも知れない。
彼の提示した、五つの種族文化複合、という日本文化の基層構造についての理論は、後に民俗学の方では坪井洋文の『イモと日本人』を生み、民族学・人類学の方では照葉樹林文化論などを作り上げる培養基になったと言えるが、個人的な印象で言うと、岡のこのような大風呂敷の「文化」論は、むしろ、考古学や歴史学といった領域でこそ最も生かされたのではないだろうか。民俗学や人類学まわりでは、こういう岡の提示したような、「エトノス」や「基層文化」や「文化複合」といった用語を使った、良くも悪くも壮大な大風呂敷「文化」論が支配的言説だった時代は、すでにひとめぐり終わったように思うのだ。
で、それは決して良いことばかりでもないと思う。たとえば、民俗学の側から言えば、折口が幻視した「古代」と岡の説いたような「文化の古層」とがどのようにズレていて、どのように協調し得るものなのか。あるいはまた、中世を軸に展開した社会史の流れが、岡の「文化」理論とどうからむのか。それらと正面から取り組んだ仕事はまだ出ていない。
「学問」を広く世間に根づかせてゆくことは、別に大学とそれをめぐるアカデミーの政治にたけてゆくことでもないし、と言って、こつこつと自分の研究を地道に続けてゆけばいいというだけのものでもない。良くも悪くも壮大な大風呂敷を広げる腕力や押し出しの強さを持つ人間が出ないことには、どんな「学問」も狭い内輪を超えた現実を獲得してゆけない。言わば、勘違いも含めた幻想のプロモーターがどこかで必要になってくるのだ。文学や歴史や、そういった文字のまわりに固着してきた「学問」の作法からはそのような傑物は出にくかっただろう。今もそうだ。その意味で、それまでのタガの外れた戦後の言語空間で「文化」や「起源」といった大文字の言葉を平然と云々する当時の民族学は、言葉は悪いが、そんな学術的大風呂敷を広げるには実に絶好の素材だったのだろうと思う。
人となりについてもさまざまな“伝説”がある。『東京スポーツ』を研究室に持ち込んでいつも読んでいたこと、読売巨人軍の監督になりたかった、というのが口癖だったこと、大学院の試験を受けた坪井洋文が外国語ができなくてひとり落ちたのを、おいおまえら一緒につきあえ、と大学院の仲間に混ぜたこと……等々。単なる豪傑譚じゃないか、と思うのだが、しかし、その豪傑譚が似合うようなキャラクターだったことは間違いない。
そうだ、どうせ豪傑なら浪曲的語り口にふさわしい、いい通り名を思いついた。曰く、「文化」的大風呂敷の大元締。これでどうだ。
*1:朝日新聞社から出していた『二十世紀の千人』という全十巻シリーズものの依頼原稿。勧進元が朝日なのになんでこちとらに……と思われるだろうが、言い出しっぺで監修をやったのが千本健一郎という朝日新聞記者にして、週刊朝日や朝日ジャーナルで仕事をしていた御仁で、同時に、現代書館から出していた雑誌『マージナル』の同人というか、一味同心みたいな形で関わっとらしたので、同じくその頃、そこに首突っ込んでいた自分と接点があった関係から、おまえもついでにひと口乗れ、と朝倉喬司兄ィその他の『マージナル』同人から引っ張られてのこと。ああ、中川六平なんかも当然、企画から加わっていたような。『大衆文化事典』もそうだったけれども、こういうデカい風呂敷の企画ものの場合、便利に使い回されるような立ち位置にいた若い衆世代、てな感じになっていたのかもしれない、後付けで思い返せば、ではあるのだけれども……