ダイナマイト、どん

*1

民権論者の涙の雨で
みがきあげたる大和胆
国利民福増進して 民力休養せ
もしも成らなきゃ ダイナマイトどん


 明治二五年五月、筑豊に生まれ、鶴嘴鍛冶の小僧に始まり、以後十五歳の年から六〇年あまり炭鉱で働いてきた経験を絵とことばとでかたちにした故山本作兵衛翁の『筑豊炭鉱絵巻』の中に、大正七年八月から九月にかけての米騒動の時、大暴れした炭坑夫を描いた一枚がある。

 峰地炭鉱の「暴漢」と説明された下帯一枚、両肩から腕にかけて刺青の男が向こう鉢巻きで電信柱によじのぼり、くわえ煙草で導火線に火のついたダイナマイトを放り投げている。左下では鎮圧に出動した戦時武装の小倉四七連隊の兵隊たちが三人、剣付き鉄砲を構えて狙いをつけている。
 
  添えられた語り書きに曰く、

「一暴漢は電柱に登り、ダイナマイトを投げた。初めは柱下に大勢おってホソビキ(細綱)で上に引き上げ口に巻煙草を咥へその火をミチビにつけて投げるから、遠距離に飛ぶし危険この上なし。兵士は馳せつけてやめろおりろ、と再三叫びしも頑として応じない。やむなくも銃口は柱上に向いた。ズドンと一発、また一発暴漢は胸にあながあき真逆さま、冥土とやらに韋駄天走。」1

 男の眼は吊り上がり、髭は濃く、髪の毛もしっかり目のつんだちぢれっ毛の風情。電信柱の横木に裸足でまたがり、左手で柱の先端を抱えて安定をはかる。その刺青を入れた肩口はたくましく盛り上がっている。季節は八月。真夏の九州の陽差しが男の肩に照り返していたはずだ。

 このダイナマイトを投げようと右手をふりかぶった男の表情に、僕の意識のある部分がわけもなく同調する。理屈じゃねぇ、こいつ本当に気持ちよかったんだろうなぁ、という苦笑混じりの羨望がどこかに宿る。それは、ダイナマイトはもちろん、たとえささやかなかんしゃく玉ですら、ここまで思い切って世界に立ち向かう道具にすることなどできなかった自分自身の不器用、不重宝、もっと言えば芸のなさについての韜晦も含まれている。

 そして、意識の焦点を別の角度に振ってみれば、それはまた、いつかどこかの映画で見た喧嘩姿、きりりと晒を巻いた腹にダイマナイトをこれ見よがしにずらり並べて巻きつけて、鼻ふくらませ肩いからせ歩いてゆくいずれヤクザな男たちの身にまつわらせていたある雰囲気の色っぽさにも通じてゆく。

 あぁ、こん畜生め! 気持ちよかっただろうなぁ!

 とは言え、このような憧憬は憧憬であるがゆえにまた、必ず意識の舞台の上での変形をくぐらさせている。具体的に言えば、いざそのような場が眼の前に現われたとして、その“気持ち良さ”の結果生じるさまざまな具体的なできごと、たとえば、ダイナマイトを投げることによって引き出される、等身大の暮しの連続からすればまずは「すさまじい」と表現していいはずの破壊や死傷の現実について、あらかじめ責任を負えるかどうかなどほとんど考慮しなくていいような質の常ならぬ起爆力を、その“気持ち良さ”は意識の舞台の上で割り振られている。昨今流行りのもの言いを借りれば、「アブねぇ」のだ。

 当たり前のことだ。当たり前のことだが、しかしその当たり前について縦横無尽、とにかくまるごと語り尽くそうという意志を、歴史学であれ民俗学であれ、あるいはまたその他の学問であれ、この国の歴史を語ることばはどこかでいびつに痩せたものにしてきたかも知れない、という想いも僕にはある。

 たとえば、その“気持ち良さ”から発したかも知れないできごとがあるとして、それを「解放」であり「抑圧された民衆の抵抗の表現」であると解釈し、事実そのようなことばを貼り付け、もちろんそれはそれで手続きとしてはいいのだが、しかしその貼り付けたことがまた新たなことばの自律的再生産の同時代的仕掛けに関わっているかも知れないという反省を希薄にしたままにしておくことは、ことばとそのことばを律する他ならぬ自分、生身の身体はどこまでも“現在”の切羽に生きるしかないおのれの抱える現実に対するフィードバックの回路をせばめ、ひいてはつむぎ出されるそのことばの“現在”に対する効き具合まで怪しくしてゆく。そして、その過程からは、“気持ち良さ”と最も素朴に言うしかないような未だ不定形の、ある等身大の関係の場に宿った想像力のあやしい電圧の高さはいつしか文字の向こう側に押しやられたままになり、搾り滓のようなことばだけが手もとに取り残される。もちろんそれは、ことばそのものの問題というより、むしろそれを“現在”の切羽で使い回すべき我々の問題である、と解釈してゆくのがひとまず現実的なのだが、しかし、そのような我々の難儀そのものもまた、それら生身のアウラを瞬時に蒸発させられる場に囲繞されたことばによって編み上げられる関係に規定されているとしたら、ことはそれほど簡単にかたづけられるものではなくなる。

 いかに生身の人間に宿るものであり、その限りで“現在”と“現在”を編み上げる具体的なものの関係にがんじがらめにされているのだとしても、一方でまた、意識は意識の舞台を律する論理、想像力の場の文法に従いながらほどいてゆかねば、同じ生身を介した手もと足もとの現在に役に立つよう再生されないという逆説もある。そのことを、民俗学者としての僕は信じる。この図像を“気持ち良い”という同調の感覚と共に読めてしまう、そのことを単に個人のパーソナリティやある資質に還元しきってしまうのでなく、敢えてよりゆるやかな、ことば本来の意味での“歴史”の広がりの中でほどいてゆこうとすることで獲得されるかも知れないある種の現実を信じる。

「言葉も感覚も、ものは手付かずに残って居て、しかもその関係が移り動いて居るといふことは、古書によって昔を知ろうとする者をまごつかせる難はあるが、それと同時にその移動の跡を辿ることによって、今は別々と見られている幾つかの大きな感覚の、隠れたる連鎖を見出だすといふ興味は深いのである」(柳田國男「感覚の記録」)

 ダイナマイト片手に電信柱に昇り、あるいはまた、腹にダイナマイトを巻いて喧嘩の場に出てゆく男たちは、そのとんでもない力を自分の身にまつわらせて相手に対する実体的威嚇を意図すると同時に、その力によって自分の肉体もそれこそ木っ端微塵に破壊される可能性という緊張を課すことで、そのようなおよそとんでもない事態まで想定している自分自身の象徴的な「強さ」や「誇らしさ」や、あるいは「ギリギリの真情」といったもの言いで語られるようなある円錐状に研ぎ澄まされた感情を場に浮き上がらせることも考えていた。少なくとも、僕が僕の内側に宿らせた意識の舞台において、彼らはそのような方向にイメージの形を与えられていた。ダイナマイトという近代の力を秘めた“もの”がひとつそこにあることによって、身体もまたその“もの”との関係によって異なった意味を付与されるようになってゆく。少なくとも、そのようなダイナミズムが濃密に想定される関係と場において「ダイナマイトを投げる男」のイメージは起爆力、貫通力を持つ。そうでなければ、それは“ただ意味もなく危険なことをするバカ”2にしかならないし、たとえすでにかなりの程度すり切れたもの言いだとしても、「解放」や「自由」といった方向のことばが引き出されることはないはずだ。


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「ダイナマイトは三、四本。ピス一個だが(導火線)ミチビは七五センチ位。長いが安全だが通気が悪いから爆煙が何時までも消えない。右のマイトを長さ二メートル位の篠竹にククリつけて点火して穴に押し込む。二分後に爆発する。シノ竹が二十メートルも飛んで函にササッテおることがある。」3

 同じ山本翁の画集に描かれた明治三十年代以降、おおむね大正始めあたりにかけての炭坑坑内での発破作業の手順である。

 数本のダイナマイトにピス、つまり雷管だろうが、これを一本装填、七五センチばかりの導火線をつけ、二メートルほどの篠竹にくくりつけて発破をかける穴に押し込む。当時使用されていた規格は「径3/4、19ミリマイト、ピス六号」が多かったという。直径19ミリのダイナマイトに六号雷管を使用したということだろう。現行の膠質ダイナマイトは装薬量100 で25ミリ径という対応になるというから、それよりは小型ではあったのだろう。ただし装薬が現在とは異なっていたはずだから、小型とはいいながら爆発力が現在のものより小さいとは限らない。いや、坑内用に減圧消炎剤の配合されたダイナマイトなどまだそれほど出回ってはいない頃だ。むしろ単発での爆発力は現在の炭坑用ダイナマイトよりも大きかった可能性は高い。また、雷管にしても当時の工業雷管は陸軍の小石川、および大阪の砲兵工廠から払い下げられたものがほとんどで、主な装薬である雷こう(雷酸第二水銀)も、ダイナマイトと共に輸入された輸入雷管からバラして取り出したものだったという。

 それまではことごとく輸入、「舶来モン」に頼っていたダイナマイトだった。日露戦争当時、二〇三高地の旅順要塞攻略戦で、日本軍工兵がモグラよろしく坑道を延々掘り進み、2トンのTNT爆薬を仕掛けてロシア兵の立てこもる東鶏冠山北堡塁を爆破した時も、坑道の掘削に使用されたのはイギリスより輸入されたノーベル社製ダイナマイトだったという。

 国産鉱工業用ダイナマイトの生産は、明治三九年に陸軍岩鼻火薬製造所で作られたのが最初だという。4 二〇三高地攻城戦での威力を眼の当たりにしてのことだったらしい。ニトログリセリンの含有量によって鶴印、亀印、鷹印といったブランドにわけられていたが、そのほとんどが珪藻土ダイナマイトだった。この珪藻土ダイナマイトとは、ノーベルがニトログリセリン珪藻土に吸わせて塑形したものだが、高温下でニトロが滲み出したりするなど安全性という意味で問題が大きかった。この表面にニトロが滲み出し「汗をかいた」状態になったダイナマイトは過敏で危険なものだという。これらは足尾鉱山で爆破試験が行なわれ、すぐに実用化された。

 この国産ダイナマイトが導入されたすぐ後とおぼしき明治四十年二月、足尾鉱山では大騒擾が起きている。

「数日間にわたって、投石、棍棒、更にはダイナマイト等さへ使用しての威嚇的・暴力的行動に出たもので、銅山の事務所、坑内の電灯、電話線を始め。諸施設、諸器具等を破壊し、放火、略奪にまで及び、一時、すこぶる猖獗を極めたが、最後は、軍隊の支援出動によって、ようやく鎮静に帰した。」5

 これはまた、別のところでは次のように語られている。

「一千二百名の坑夫が、一斉に起こった。かれらは手に手に得物をとって、手あたりしだいに破壊を始め、電線を切って電燈を消し、ダイナマイトを投じて、工場、事務所、火薬庫、石油庫、住宅などを襲撃して焼き払い、鉱業所長南挺三に瀕死の重傷を負わせ、二百余戸の家屋を焼失させた。」6

 この騒擾は、親方制度の中で頭役の中間搾取についての不満を持った坑夫たちが労働条件の改善を訴えてのものだったとされている。明らかな「理由」というのは、なるほどそうだったろう。だが、そのように明らかな「理由」だけで人はこのようにはじけ、荒れ狂うことはない。明らかな「理由」をことばにしてゆくと同時に、国産化によってそれまでよりスムースに仕事の場に供給されるようになっていただろうダイナマイトの爆発力の経験の遍在が、足尾の坑夫たちの意識にそれまでとは異なったある“傷”をつけ始めていた可能性を並行して考えてみるのも、民俗学としてはそれほど無理スジではないだろう。

 この時期、明治三、四〇年代には坑内災害の発生率が、当時世界最高に達している。単に事故の件数というだけでなく、その事故の規模も飛躍的に大きなものになっていった時期である。明治三十二年、豊国炭坑のガス爆発では二一〇人が死亡しているが、いわゆる巨大災害のこれが嚆矢だとされる。この時期を境に、炭坑で経験される災害の様相は巨大化、言い換えれば“近代”化してゆく。

「大資本の投下によって深層炭へ達する竪坑が開かれ、蒸気汽罐も数台据えつけて排水はもとより運搬も機械化して、つるはしで堀りスラで曳く作業は、炭層のある限りどこまでも追いすがって行けるほどになっていた。数百人の坑夫がその作業現場へ入り、そして一挙に死亡しだしたのである。」7

 事故の原因も落盤だけではすまなくなる。大規模な坑内ガス爆発、炭塵爆発、そしてダイナマイトなど発破薬の爆発。爆発というできごとによってもたらされる破壊力の遍在。それまでではちょっと考えられないような過剰な肉体の損傷、死亡が、徐々に日常的になってゆく。8

 このような「爆発」とそれにまつわる経験の増大は、そこで生きてゆく生身の身体にとって、仕事の場を離れたところでもそれまでとは異なった自己表現の方向へ誘われるものだった。たとえば、こうだ。

「明治四十三年六月十二日、栃木県足尾町本山の支柱夫大井藤五郎(二十一)は同町料理店軍司こま方の酌婦関はま(二十)と深くなり十日午前三時頃同店にて坑内爆発用のダイナマイトを両人相擁したる腹部の間に置き、爆発せしめて情死を遂げた。これは比類稀なる痛快な情死だが両人の臓腑は四方に散乱し、骨砕け肉飛び惨状目もあてられず、原因は不義理の借財嵩みまた料理店では警戒してはまに遭ふことを拒絶した為めなりと云ふ。」9

 また、同じ年の夏、北海道炭坑汽船会社幾春別炭鉱の坑夫曳地伊作が別れた妻お花と無理心中した事件では、「幾春別川に投じて雑魚を捕る目的のために鉱内の作業場から窃取って来て隠匿して置いた爆発薬」10が使用されている。「天柱砕け地軸も裂けん計りの強烈なる大爆音があがった。棟続きの長屋ぢうがビリビリと大地震のやうに動いたので、恐怖と驚愕と好奇とは人々を駆って精次の宅へ潮の如く押寄せた。其時既に伊作とお花とは共に腹壁破裂、大腸露出、骨片飛散し二目とは見られぬ大惨状を呈し、屍となって横はっていた。」11

 心中という行為自体はとりたてて珍しいことではないと言えるかも知れない。しかし、その心中の作法にはやはり同時代を生きる人々の意識の影が刻印される。ダイナマイトをその身に帯びて共に爆発、四散するという作法の過剰さは、鉄道への飛び込み自殺、猟銃などの銃器による自殺などこの時期に増えはじめた新たな自殺や心中の作法にも通じる、肉体の破壊、損傷に焦点を当てた語りを発動してゆく。12あるいはまた、同じ頃、ある種の英雄譚として流布されていった旅順港閉塞作戦における広瀬中佐の“爆死”の物語が、「わずか一片の肉とサーベル」というその遺留品に重心をかけた語りをつむいでゆき、その遺留品の尋常ならぬ様子と引き換えに中佐の部下想いの心情を光り輝かせるといった仕掛けを持つようになっていったことを想起してもらってもいい。火薬の速度と力によって引きちぎられる肉体。個々の事情を全く超えて一挙に、そして“平等に”破壊される複数の人間たち。

 音と煙と炎と、そして硝煙の匂いと爆風と、それらが抗うことのできないとてつもないまるごとの総体として立ち上がり、文字通り一瞬にして眼の前の風景をそれまでとの連続性を切断した位相に運んでゆく。そこに過程はとりあえず存在しない。平手打ちのように世界はまるで別なものになり、形あるものは変形され、あるいは破壊され、分解され、個々の断片にちぎられてしまう。文字のまつわらせるあるくっきりとした輪郭を持った意味を素材に組み立てられた観念から遠く、そしてそのような観念を形づくるような技術も経験からも縁の薄いところにただそのように生きる人間にとって、“近代”をひとつ手ざわりや実感のあるものとして経験できる契機があるとしたら、たとえばこのような過剰な現実変形の瞬間だったはずであり、さらに言えば、そのような変形の背後にとてつもない“力”の存在を予測する瞬間だったはずだ。13

 しかも、そのとてつもない“力”もまた眼の前の微細で具体的な“もの”を媒介にして立ち上がるものである、という等身大の現実に対する揺り戻しのような還元効果も同時に立ち上がる。その見えない“力”と眼の前の“もの”との間をつないで関係づけてゆく論理が、たとえば「科学」としてある程度まで実験によって再検証可能な説明体系として整備されてゆくこととあいまって、それは、同じとてつもないものにしても暴風雨や雷や火山の噴火といった自然現象に翻弄される経験とはまた違ったその後の落ち着かせ方を人に強いてゆく。それは、そのような過剰な“力”を引き出す“もの”にその“力”のとてつもなさに見合った過剰な意味をまつわらせる過程を引っ張り出し、日常の中の“もの”のあり方をねじまげ、“もの”と人との関係を変えてゆく。そして次には、そのような過剰な“もの”を強引に抑え込むことで他ならぬ自分もまた“力”に拮抗できるだけの存在になれると思う心性を削り出し、その延長線上に、たとえば削岩機と競争して死んだ黒人トンネル坑夫ジョン・ヘンリーのフォークロアに象徴されるような、そのようなのっぴきならぬ生の場にある「人間」についてのある壮大な幻想の磁場をも生み出してゆく。

 山本翁は「大正八年春の頃、酒と心中して冥土に行った」男のことを描いている。

「左の男はヤマで評判高い豪傑で仕事も二人前平気でするが酒豪でもあった。大正八年春の頃、酒と心中して冥土に行った。なんと四斗樽を七日間で呑み干し八日目に死んだ。呑死した阿部某は三十七才位の精悍な男であった。命がけで鱈腹のみ、本人は満足して冥土に走ったのであろう。」14

 ここですでに酒は酒でなくなっている。酒もまたダイナマイトのように過剰な意味をはらんだものになっている。もちろん、酒はダイナマイトのようにそれ自体爆発力を持つものではないし、何よりもそれまでも身の回りに当たり前のように存在してきたものである。その意味ではとりたてて過剰な意味をまつわらされるようなものでもないし、四斗も呑まない限り何も具体的に危ないものではない。そのことは確かに“当たり前”として世間に共有されていたはずだ。しかし、酔いと酔いのもたらす常ならぬ関係性を考慮するならば、“近代”に至ってその酔いについてもまたそれまでとは異なった意味づけがなされるようになっていたかも知れないことは、静かに考えてみる価値のあることではある。でなければ、「四斗樽を七日間で飲み干」すようなひとまず異常としかいいようのないような行為が行なわれ、しかもこのような文脈で語られるようになっていたことの説明はうまくつけられない。酔いにもまた歴史があり、その限りにおいて微妙に異なる同時代的意味づけの積層があるのだ。

 炭坑や鉱山周辺の色街などでは、「坑夫可愛や淋しき夜半は、ダイナマイトを抱いて寝る」と歌われていたという。あぶく銭を持った彼らの金遣いの粗さについては、たとえば漁師や兵隊などとも通底する語りがそれら水商売の世界に流通するフォークロアとして存在してきている。そのような過剰な“力”を引き出す“もの”に身を寄せることで世界に、言い換えれば“近代”に拮抗しようと志すある種の人間の原像は、この時期に確かなかたちを整えられていったらしい。そしてやや先走って言っておけば、それはある信頼できる「個」という意味での「人間らしさ」に還元され、同時にまたそのような文脈での「男らしさ」という語りを発動してゆく重心を形成もしていった。それはまた後の、単なる事故にすぎなかったできごとが勇躍爆破筒を抱えて敵陣突破する物語に変形されていった「爆弾三勇士」にまで揺曳しているのかも知れない。

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 閑話休題。話を先に進めよう。

 珪藻土ダイナマイトに比べて安全性が高いとされる膠質ダイナマイトの国産化も、ほぼ同時期に行なわれた。炭坑用爆薬としては、梅、蘭、楓といったブランドの膠質ダイナマイトが最初である。この段階で減圧消炎剤を混入することは行なわれていたらしい。その後、現在も使われる松、竹、桜といったブランドのダイナマイトが流通するようになった。大正二年には陸軍宇治火薬製造所でさらに安全性の高い硝安爆薬が製造開始され、その一方、珪藻土ダイナマイトは大正四年以降、行政指導により生産中止となった。よっぽどおっかないものだったとみえる。ちなみに、民間でのダイナマイト生産は許可がおりたのが大正初めであり、大正六年に山口県厚狭の日本化薬で、大正十四年に日本油脂、昭和七年に旭化成がそれぞれ製造開始している。

 これらのことから推測すると、山本翁の手による明治三十年代から大正初めにかけての坑内労働の現場に描かれたダイナマイトは、ニトログリセリンの含有比率が高い、その分後のものに比べて管理の難しいものだった可能性が高い。

 だが、「アブなかった」のは別に使われた“もの”としてのダイナマイトだけではない。それを使う方、生身の人間にしてからが、化学の知識など薬にしたくともない豪傑たちがそこここにいた。

  同じ山本翁の記述によれば、大正七年一月二十六日、麻生資本系の山内二坑で二百個以上のマイトが一度に爆発して、死者十一名負傷者数名という事故を起こしたという。その原因というのが、「凍結マイトにピスの挿入困難なため安全灯の裸火で温めていたのが爆発した」というから話が手荒い。15ニトログリセリンの「凍結温度は8〜11℃。いったん凍結すると約14℃にならないと融解しない」が、「凍結したものは外力に対する緩衝性が少なくなるため、液状のものより取り扱い上の危険性が増加する」。それを裸火で温めて雷管を押し込もうとするなどということは、火薬に素人の僕が考えても空恐ろしい。言うまでもなく、爆発物についての無知がもたらした災害と言える。

 このような手荒さは、また次のようなエピソードも生む。当時、筑豊遠賀川流域の農家の造り小屋などが、夜中にいきなり爆発することがよくあったという。それは、不発や発破残りのダイナマイトなどをどういう径路でかは知らないが集めてきては解体し、鍋で煮詰めてまた別の再生ダイナマイトを造ろうとしてのことだったらしい。煙草のモク拾いじゃあるまいし、と思うのだが、小鍋の類であるものを煮溶かしまた別のものにしてゆくという手続きの手軽さとその手軽さに比べての効果の獰猛さは、たとえば飴細工やガラス工業などにもつながる想像力ではある。また、わざわざそのようなものを作るということは、一方でそんな再生ダイナマイトをさばくルートもすでにあったのだろう。

 喧嘩の際はこのダイナマイトに雷管と適度な長さの導火線を装着し、高い場所から放り投げる。「ミチビが長いと投げ返される」から、導火線の長さの調節が難しかったという。導火線を使った発破は爆破時間の調整が結構微妙だったりといった難点があるため、後になるとほとんどが電気発破になるのだが、この時期はまだ導火線が使われていた。また、時には空き瓶に砂を詰めた上にダイナマイトを突っ込み、それを投げるという工夫もしていたらしい。

 また、山本翁はこのような事件も記述している。明治中期、おそらくは二十年代半ばから後半にかけてのことと思われるが、「豊前の会社」の大喧嘩では「谷を挾んで大納屋同士の決闘で、一方は七百人、一方は二百五十人。互いにマイトなど投げ合、両方の死者だけでも三十九名も出たらしい。それが三日三晩も続いた」とある。16この大喧嘩、寄るとさわると噂になり、その噂になった分だけ話が大きくなった可能性はあるが、それにしても納屋同士が谷を挾んでダイナマイトを投げ合うそのイメージの喚起力は、このできごとについての語りに単なる大喧嘩というだけでない鮮烈さを添えながら、坑夫たちの小さな語りの場に確実に共有されていったはずだ。

 あらゆる事象の背後に連綿として連なる「民俗」なり「伝承」を無媒介に発見したがるこの国の民俗学の手癖に従えば、たとえばこれを礫打ちにつながる「民俗」と短絡させることもできなくはない。民俗社会における投石の伝統についてはすでに中沢厚の詳細な研究もある。谷を挾んで数百人の規模の集団がにらみ合うというこの光景は『尾張名所図絵』に見られる印地打ちにも通じるものかも知れない。17しかし、すでに単なる石ではなく、過剰で具体的な“近代”そのものの“力”を宿した爆発物を放り投げる経験は、単に腕をスイングさせて遠くへものを投擲する技術とその技術にまつわる感覚だけでなく、そのさらに向こう側に、投げた果て心地良く弾ける自我とでもいったものを濃厚に意識させた可能性の方に、敢えて僕は焦点を合わせたい。その程度には、“近代”のとほうもなさによって生じただろう意識の断層に敬意を表しておきたい。

 このような素朴な腕力まかせのスイングによって遠くに放り投げる爆発物の威力は、軍事史的に見ると日露戦争時の日本陸軍が再認識させたという。西欧ではそれまでも擲弾兵の伝統はあり、それは大砲の出現と共に衰退したものというが、日本では投石専門部隊を抱えていたとされる甲斐の武田軍などの例があるくらいで、その後爆発物を投擲することが軍事的に利用されたことはあまりなかったらしい。

「手榴弾とはいうが、日本軍のそれは工兵や歩兵の手作りで、最初は工兵から渡された爆薬を、適当に油紙や布袋に包んで、導火線をつけたのだった。やがて器用な兵士は空き缶に爆薬を詰め、投げやすいように木の棒や竹の柄をつけた。」18

 ここでの「空き缶」は、日露戦争で初めて軍用携行糧秣として支給された缶詰やビスケットの罐であるという。この発明はかなりの程度自然発生的なものだったらしいが、日本の兵士たちのこのような小手先の変形能力、そこにあるものを利用してありあわせの道具を作ってしまう“使い回し”の技術というのは、確かに民俗学の考察の対象である。

「をかしな話だが、露軍で使ってをった砲弾の薬筴は大きいんだ。それを、獣医のところには、鍛冶屋の使ってをるやうないろいろな道具がある。それでもって広げると、その薬筴が立派な真鍮の盆になるのぢゃな。一つところにながい間とどまってをると、そんなものを作ったりする。人間といふものは妙なもので、明日はどうなるやらも分からん身で戦野を歩いてをっても、いつの間にか荷物がふえる。火鉢だとか、爼だとか、空罐で作った灰落としだとか。そして、さうなって見ると、捨てるにも惜しいしなァ。いざ出発といふとさういふものまで何も彼も持って行きたくなるのだが、隊のものならば輜重車にでも載せられるが、自分のものではさうは行かん。また載せては馬が可哀さうだ。それで、捨てて行けと行っても愚図愚図してをる。惜しければ持って行けと言ふとな、中には魚屋のやうに天びん棒で担いで、後前に、両手でかうするほどの大荷物になってをるのもある。」19

 近代戦における野戦の経験というのが生身の個々の人間にとってどのような経験を準備し、そしてどのように記憶されてゆくのかを考えようとする時、これらの資料は興味深い。おそらくは漠然とした理由でなんとなく手もとに残しておいたのだろう、膠着状態の塹壕の中で、食べた後空になった牛罐やビスケット罐などをあれこれひねくり回して、これまたなんとなく手投げ弾を作ってしまった無名の兵士たちの顔は、世界に対するある鋭角の変形技術をおのれのものとしたような種類の獰猛さを漂わせていたはずだ。このような変形能力は、太平洋戦争中でも補給の絶たれた前線での武器や日用品の創意工夫のエピソードとして受け継がれたし、もちろん戦後、物資不足の状況下においてもなお、あらゆる“使い回し”の発想と共に展開していった。


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 だが、野戦といったある限定された状況においてなら、武器という脈絡でまっすぐ具体性直接的有用性の方へと発露されることもあり得たこの“使い回し”の発想も、どうも日常の中ではあるどこかの地点で屈折し、武器としての脈絡における具体的な効果や有用性といった方へなしくずしに向かわなくなるような傾向がこの国の人々の意識にはプログラムされてきているらしい。電信柱に昇りダイナマイトを投げていたあの坑夫にしたところで、自ら日々の仕事に使っていただろう、その限りにおいてはたとえ過剰ではあっても仕事という脈絡で日常の意味世界に落ち着かされていただろうダイナマイトを、蜂起した自分たちに向かってくる鎮圧部隊に対するある明確な戦略の下に手にしたのではないだろう。言い換えれば、それまでは単なる仕事のための道具に過ぎなかったダイナマイトを、明確に武器として意識した上で武器の脈絡において新たにコントロールしてゆこうという意志の下に手にとりなおしたわけではないだろう。同じ日々使い回していたような道具であり、“もの”であっても、それが単純に“もの”でなく爆発という属性を内包したものになった瞬間から、そこには爆発というできごとにまつわる民衆的想像力とでもいうような水準がその“もの”についての意味づけのフィルターとして介在し、それを直接的な有用性の方向に最短距離で志向させることからずらしてゆくような働きが現われる、うまく言えないのだがそんな印象があるのだ。

 先に引用した『テロ爆弾の系譜』という書物は、このような問いにある大きな示唆を与えてくれている。

 この中で著者の木村氏は、加波山事件と大逆事件にまつわる爆弾を資料を駆使して復元し、その具体的な効果について実験した経験から、加波山事件の爆弾の爆薬は「マッチか花火の成分に近い」ものであり、大逆事件のそれは「玩具花火のクラッカー・ボールと同じ」と明快に断じている。殺傷能力においては前者が格段にすぐれてはいたが、しかしそれにしても、対人テロを目的とした着発式爆弾としての実用性という点についてはさまざまな点で問題がありすぎるし、まして後者については論外、というのが彼の結論である。

「わたしは大逆事件の爆裂弾を再現しようとして、その寸法に驚いた。資料では直径一寸、長さは原稿用紙六角という。いくらなんでも小さすぎる。資料が間違っていると思い、関係書をあさったが、どれも長さ一寸八分、直径は八分か一寸、と書いてある。奥宮や新村の調書にも何度も出てくるのだから、印刷ミスではない。わたしは唖然とした。直径三センチのバクダン。そんなものがあるだろうか。それは爆裂弾などではない。ただの玩具花火である。」20

 一方、明治十七年の加波山事件に使われた爆弾の残りは数奇な運命をたどり、当初同事件を担当していた栃木始審裁判所長飯田恒男の手に渡る。彼は、「大阪へ転任する途中郷里へ立ち寄り、山中で一弾を投げて実験し、一弾は小刀で切り、分解して構造を確かめた。口に水を含んで吹きかけ、爆薬に湿気を与えながら分解した。切り裂いた袋のなかに、誰の筆か「自由萬歳」と記した二寸ほどの紙片が、小さく折りたたまれて守り札のように入っていたという」21

 爆弾テロ成功の暁には、この紙片は現場に舞い上がり、おそらくは煙と怒声と悲鳴の中、とぼけたように中空から舞い降りることになっていたのだろう。「自由萬歳」。なるほど素敵なことばだ。だが、僕はこの紙片を敢えて封入しようとした心理に、この国の爆発物をめぐる意識を規定していたある桎梏を見る。

 この紙片は、当時の花火師によって「袋もの」と呼ばれた種ものの一種だと思われる。たとえば、煙草で知られた村井兄弟商会は、明治三十一年秋の靖国神社大祭で宣伝のためこの種もの入りの花火を打ち揚げ、空中にばらまかれたビラを拾った者にビラと自社製煙草を引き換えたりしたという。

「ターンと割れた花火のなかから『帝国万歳』『祝明治節』などと書いた幟や、日の丸や万国旗がパラシュートにぶらさがってユラリユラリと降りてくる。
袋ものといって乃木将軍や東郷元帥、飛行機、軍艦、戦車、大砲などの軍国ものやダルマ風船や五重塔をかたどったものも降りてくる。この昼花火の吊りものや袋ものは現在ではあまりやらなくなったが、当時は花火大会でもなかなかの人気があった。パラシュートや風船を利用して、なるべくゆっくりと宇宙散歩しながら降りてくるように細工するのが、花火師の腕のみせどころにもなっていた。」22

 もちろん、この爆弾を作った鯉沼九八郎は花火師ではない。しかし、この袋ものと呼ばれたような種類の仕掛けをテロ用の爆弾にすら封入しようとしたことからして、この加波山事件の爆弾もまた、作る側の意識としてはどこかで花火と連続したある種見世物的な文脈が過剰にあったとは言えまいか。もっと言えば、武器としての直接の殺傷能力とは別に、むしろ爆発と共に中空高く舞い上がる「自由万歳」の紙片のイメージの方に、その爆発力の保証するはずの具体的現実はシフトさせられていたとは言えまいか。

 この鯉沼の爆弾は開発中の事故で彼自身の手首を吹き飛ばしたが、これが正しく殺傷能力の発揮を目的とした配合と分量の爆薬を装填されていたなら「九八郎の身体は粉砕されていたはず」と木村氏は冷静に指摘している。23さらに、一般的に言って、花火なり爆弾なり弾体の内部に仕込まれた袋ものや吊りものを破壊することなく爆発と共にうまく空中に飛散させるためには、構造的にも割薬が多く外殻強度の大きい割物と呼ばれるつくりではなく、むしろその逆のポカないしはポカ玉と呼ばれるつくりにする必要があるとされる。この鯉沼の手投弾は爆薬の周囲に鉄片を充填して殺傷力を持たせることを狙った構造になっていたというだから、中に収められていた紙片が実際にそのままの形で空中を舞うような事態を本気で想定していなかったのかも知れないが、しかしそれにしても、最も具体的な効果を考えて設計されるべき武器においてなおこのような仕掛けが加えられるあたり、やはり何かことば本来の意味での民俗的な呪縛、この国の民衆的想像力の地平における爆発物の記憶が仕掛けてくる難儀な安全装置を感じる。

 あるいはこう言ってもいいのだろう。どうやらこの国の民衆的想像力の地平において、火薬とはその爆発力によって具体的な世界変形の力を引き出すものというよりも、むしろその爆発に伴う音や煙を見世物的に利用するものといった意味づけがされていたらしい。それは、もう少しほどいて言えば、爆発という現象を現象そのものとして立ち上がらせ、具体的な世界変形の道具とするといった方向の発想ではなく、むしろそれを視線の濃密な交錯によって編み上げられた身体的上演の場に放り出すことによって得られる関係性の中の効果の方に焦点を合わせる発想に規定されている。24石を手に取り遠くに投げることはあっても、その石がたとえば爆発という“近代”をまつわらせた別の過剰なものにシフトされた時から、その投げるという行為もまた別なものに、過剰に見世物的なものになる。もちろん、そのことによってその投げる当人に収斂する視線の求心力が高まるといった効果はあるにせよ、それは同時にその投げた結果もたらされる現実ではなく、投げることそのものを目的としてしまうような意識の倒錯も準備する。

 一九一八年八月十八日、峰地炭坑付近の電信柱の上からダイナマイトを投げていた坑夫の身体には、二〇三高地塹壕で手投げ弾を発明した匿名の技術と経験とが民衆的想像力の回路を介して宿っていたかも知れない。しかし同時にまた、彼の身体を律する意識は、濃密に編み上げられた視線の交錯の中ですでに彼自身が正しく引き受けられるようなものではなくなっていたかも知れない。身のまわりに遍在してゆく爆発の経験に触発され、ひとまず蜂起と呼んで構わないようなそれまでと異なった次元の現実へと身を運ぶことに向かった彼らが、しかしダイナマイトを手にした時、すでにそこには武器持つ戦士の意識ではなく、爆発の可能性を内包させた過剰なもののその過剰さに意識を溶かし出された言わば見世物の演者として意識がばかりがふくれ上がり、介在する。そこから先、彼のあらゆる行為はその見世物の仕掛けの中に吸収されてゆくしかない。そして、彼を描いた図像に “気持ち良さ”を読み取るこちら側にも、そのようなおのれの身体の界域を超えて拡散し律動し始めた自我の、そのような見世物の仕掛けの中においてこそ感じられるはずの“気持ち良さ”に対するある感応が含まれていなかったとは言えない。


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 それにしても、たとえそのような見世物的な視線の仕掛けの中で心ここにあらずで手にしたものかも知れないにせよ、現実に他ならぬダイナマイトを投げる男を場にはらむまで至ったこの暴動は、いったいどのような経緯をたどったのだろうか。そのような“もの”との関係に介在しているかも知れない見世物的視線の呪縛がこの国の世間にあったとして、ではそれは、その日その時その場所の具体的な暴動の場と過程とにおいて、どのような立ち現われ方ををしたのだろうか。

「八月十七日の夜、福岡県田川群峰地炭坑の坑夫および職工三百名の暴動が起きた。理由は坑場によって、配給米の値段が違うというのであって、会社の配給所、会社本部、炭鉱事務所を襲って暴行し、十八日の未明にいたって、さらに炭鉱事務所、古智配給所、洗炭場などを、炭鉱用のダイナマイトで爆破した。その十八日の夜、労働者はガス坑に集合し、不穏の形勢を示した。これよりさきこの日、福岡県知事谷口留五郎は、小倉の留守第十二師団(師団長は大井成元で、師団主力はシベリア出動中)に対して、軍隊の派遣を養成したので、小倉から歩兵二中隊が急派され、その夜峰地に到着して、要所を警備した。労働者はこの軍隊を見るや、ダイナマイトを投げつけたので、軍隊は実弾をもってこれに応じ、ダイナマイトは不発に終わったが、実弾は坑夫ひとりを倒した。労働者は激昂して、軍隊を攻撃し、死傷者を出したが、夜の十一時、小倉からさらに四百名の増援が到着し、この威力によって、暴動はようやく鎮静した。」25

 この記述に従えば、まず初発の時期、施設破壊のためにダイナマイトが使われ、次に軍隊という存在のはらむ過剰さが再びダイナマイトを引き出したことがうかがわれる。山本翁も、サーベルを持った警官による慰撫に対しては「巡査は飯はくわねーか、やっつけろー」と気勢をあげて効果がなかったこと、しかし「軍隊の戦時武装にはサスガの暴漢も四散八走の形」だったことを書き記している。鳶口やスコップ、穴くりノミ、鶴嘴といったふだんの仕事の場で扱う道具を主たる武器として蜂起した坑夫たちにとって、サーベルだけしか持たない巡査は身にしみてこわいものではなかったのだろう。26坑夫たちおよそ百名。これに対し、当初鎮圧に向かった兵士の数は「一ヶ小隊五十七名」。

「蜂起の拠点たる峰地炭坑のばあい「米価騰貴のため坑夫に限り一升三五銭の米券を交付したが、各地の米騒動の結果、米商も米価の漸落をみこし三五銭内外の安価で販売を開始したため米券の効なく」、坑夫群ははじめ賃金二割五分の値上げを要求したが「既に一割値上げを実行してあるので重ねて要求しても無益と知り」、米価を一五銭にせよと要求して即答を得られず、配給所、米屋、警察署などを襲撃した。これにたいし、資本は米価をはじめ一〇銭、ついで五銭を引下げ、二〇銭で販売を開始した。」27

 山本翁によれば、この峰地炭坑の暴動のリーダーは、自ら朝比奈三郎を名乗っていたという。鎌倉時代の伝承的豪傑譚の主人公だ。28もちろん誰に命じられたわけでもないだろう。しかも、この「朝比奈三郎は売店の小金庫の中にある沢山の五十銭銀貨を暴徒のひとりに一枚ずつ入会金手当に渡していたと云う」から、なんとも愉快ではある。

「日用品なら揃うておるヤマの売店、乱入とともに叩き割るやら投出すやら乱暴の限りを尽したが、酒樽だけはご丁寧テイネイにもち出して鏡を抜きヒシヤクも湯呑みもある。ノンベ連は大満悦のむはむは(逢うた時兜脱げ)筑豊方言)鯨飲鱈腹あぶった。サアーアルコールが充分まわると一層気が荒くなるオーイみんなこの景気でやってくれとリキミ合う蛮勇に拍車がかかる。」29

 この暴徒が略奪した酒を相互に振る舞い合い、中で自然発生的にリーダーを名乗る者が出てくるあたりの経緯は、それより以前の一揆や打ちこわしにおけるそれと確かに共通している。安丸良夫は興味深い資料を引用しながらこう描写している。

「名も知らぬ英雄が登場するのも、こうした高揚の一環としてであった。とりわけ、鎮圧に向かった武士団と一揆勢との対決が緊迫したものとなった場合に、一揆勢のなかから無名の英雄が登場して重要な役割を果たしたことなどが注目されよう。たとえば、槍をふりまわして民衆を威嚇する役人に向かって、「久敷死で見ぬ、下之郷の嘉平が*を突いておみやれと、むな板押しくつろげ」て迫るものや、「群衆大声嘲罵し、甚だしきは欄干に上りて胸を露わし、銃士に向て、此処を討て見よ」というものが出現した。……(中略)……「百姓共の内より、年の頃十八九歳、諸肌を脱て只壱人真先に進出、大に過言を罵り惣勢を引立進来る。彼真崎に進みし若者を討ちしに、弱薬故か一発にて不倒、却て此者いかなる胆の太き若者なるや、進出て胸板を押し向け*を打ちやとたゝき立這る。此時又一発彼若者に中ると雖尚不倒。又是を打つやと額を抑きけるに、又一発にて漸く彼若者倒れ伏ける」というようなすさまじいばあいもあった。」30

 彼らにとって、そして彼らが生きていた同時代の“当たり前”にとって、露出した胸こそが確かな「個」を象徴する重要な部位だったらしいことがうかがわれる。最も切実な切羽においてなにかとほうもないものに対抗しようとする時、胸ないしは額にその対抗の重心がかかる。そのように感じる身体の“当たり前”というのが、彼らの時代にはあったらしい。そのような「個」を押し出してゆく時の約束ごとは、「まかせとけ」と胸を叩く身振りや、異人が胸に穴のあいた人間として表現された図像、あるいはまた、排刀とよばれる東アジアの下層民の芸能にも連なってゆく。

「五十余歳。正業なく賭場荒らしの無頼漢。民衆の蝟集場・賭博場・娯楽場・祭等の際、諸肌ぬぎとなり手に短刀(錆びついていて光った所が少しもない)を持ち、双腕に力をこめ呼吸を計って胸間を撲つのである。撲って撲って撲ちまくり、彼の眼光は怪しく光り、額は汗に汚れ、撲たれた胸間の肉は見る間に腫れ上がり、紫黒に変じてゆく。彼の腕にはもののけにつかれたかの如く猶も力がこめられる。圧し潰されたような悲惨な音。それは肉の腫れ上がる音である。」31

 このような炭坑夫たちのひとりが、思わず知らず自らを「朝比奈三郎」と名乗ったその心情とその名乗りを可能にした仕掛けについて、僕は考える。あるいはまた、電信柱に昇りダイナマイトを投げるまでに至った男の心情を考える。そのようないずれ過剰な「個」の表現を引き出すに至った場の共同性について、可能性も含めてときほぐすことを考える。

 たとえば、山本翁の画集の別の個所には次のような記述がある。民俗学者の心ははずむ。

「明治末期の青年は盆会休の三日間カケ小屋を造って芝居(演劇)をしていた。中ヤマ以上の処、盆前には一ヵ月以上の猛稽古をやる。毎日晴天には昇坑すると労れも忘れて遠くの山林に集合しての訓練である。勿論師匠を別に雇うのでもなく、ヤマ在住の俳優ナグレの人が指導する」32

 盆に上演される素人芝居の稽古である。この稽古に一ヵ月以上かけるというのだ。それまでの稽古期間に醸成された共同性がある種の意識変容をもたらしたことは充分考えられる。とりわけ、一八世紀後半あたりからムラの中で突出してきた「若者組」のあり方を意識においても引きずりながら、しかし軍隊や学校や工場や炭坑や、その他さまざまに立ち上がり始めた“近代”の場にムラから引きはがされた形でさまざまに吹き寄せられ組み込まれていったはずの若い衆にとって、このような過程はまさに新たな装置の中で許容された解放の黙契だったはずだ。33

 そしてまた、それら芝居とは別なのだろうか、盆には盆踊りも行なわれていた。山本翁の絵を見ると、こちらは男女入り乱れての踊りの輪ができている。

「恰も旧暦の孟蘭盆で豊前特有のウチワ踊がハズム。大勢円輪であるから警官の姿を見ると四散八走する浮腰踊りであった。」34

 いずれにせよ、このような身体を使った芸ごとの経験が蜂起なり暴動なりの際の強固な共同性の基盤になってゆくことは、別に時代をさかのぼった事例だけではない。たとえば、敗戦直後に全国の農山漁村で自然発生的に流行した「やくざ踊り」においても、それらの“伝統”とどこかでつながる仕掛けは見られる。

「この年のお盆には、青年会が主催した芸能大会が大々的におこなわれた。わたしの村では戦前も、お盆休みの二日間の夜を、青年たちが芸能大会をやっていたが、戦争が激しくなってから中止になっていた。その芸能大会が復活したのだが、何年も止めていただけにその準備がたいへんなものであった。二ヵ月ほど前から青年男女は放課後に、わたしの通っている学校に集まり、空いている教室を使って練習を始めた。はじめは素踊りだったが、期日が迫ってくると、衣装をつけて踊るようになった。」35

 別に肩書きつきの先生がいたわけでもない。蓄音機を持ち出し、踊りの稽古に自然と振りをつけ始めた。その振りが後に“当て振り”と呼ばれるような踊りともマイムともつかないものだったことの理由と意味とは、もちろんまだ充分に解明されていない。35

「幕が上がると、ひと幕ごとに拍手の渦だった。踊りも歌もほとんどがやくざとマドロスものだったが、「旅笠道中」などはとくに人気があって、アンコールの声がとんだ。あれほど盛んだった軍歌は舞台に出ることがなかったが、誰もそれを不思議とも思わなかった。わたしは数人の仲間と一緒に、舞台の先端に並んで坐りながら、一瞬も見のがすまいと見つづけた。露がおりて木々の葉や草が、また人びとの髪が濡れるころになると、舞台はいちだんと盛り上がった。〈わたしも早く舞台に立って、歌ったり踊ったりしたい〉と、この時ほど大人になりたいと思ったことはなかった。」36

 これらの踊りは盆のみならず、田植えや婚礼の時など、伝統的な民俗社会の儀礼の場も侵食していったという。「やくざ踊り用の傘とペンキをぬった木刀と羽織、それにマドロス用の帽子は必需品のようなものとなり、どこの聚落に言ってもひと揃いはあった。」37「補充兵当時に覚えた伊勢音頭とか、徴用先で覚えた花笠音頭だとか、娘の頃奉公先で見様見真似で覚えた日本舞踊だとかを、あちこちに出来た踊り宿で村の者が青年たちに教え始めた。「赤城の子守歌」などは、二キロほど離れた部落の娘が師匠となって週に三晩ほどわざわざ教えに通って来た。」38

 また、同じ時期、予科練から長野県の旧制須坂中学の寮に舞い戻った斎藤龍鳳もこのような光景を目撃している。

「東京の屋敷が焼け、軽井沢の別荘が一軒残っただけという男で、育ちは寮きってのよさだったが、趣味はきわめて悪く、学芸会で、忠治オンパレード・赤城三部作」と銘打ってうたい、かつ踊って、教師らを落胆させた。私らも貴族の末えいが、そして寮の四年生の代表が、座ぶとんを背中にくくりつけ、「名月赤城山」「忠治子守唄」「赤城の子守唄」の三曲を踊り抜いた時は、頭から火が出るほど恥じ、かつ「戦後だ」「自由だ」という、変化の実感をしみじみと噛みしめたものである。下級生がヤンヤとかっさいすると、彼は臆面もなく女装で登場。アンコールに応え「麗人の歌」を踊った。この時はさすがに明治教育を受けた教師らのうちの何人かは憤然と席を蹴った。」39

 その場においては自然発生としか言いようのない洗練されぬ踊りにも、確かに歴史は編み込まれてある。この優等生が踊った踊りがどのような身体的記憶に基づいたものであったのか、これ以上の追及はこれら文献資料からはできないのだが、しかし、旅まわりの芝居や映画や講談本や大衆小説、などなどさまざまな位相のさまざまなメディアを介してすでに広汎に民衆的常識として培われていたはずの「股旅もの」の道具だてが、そこである解放的なモードに設定された自意識を宿らせる依代として選択されていったのだろうことは推測できる。

 では、と僕はまた自問自答する。どうしてそれはそのような“解放”のモードに対応し得たのだろうか。もっと言えば、“解放”以外のモードに対応して組織されることもあり得たはずの記憶が、どうしてその同時代の舞台で“解放”のモードに最もなめらかに呼応して立ち上がったのだろうか。

 国定忠治やその他さまざまな“股旅もの”のモティーフを、いつかおのれの裡に仕込まれていたある型通りに演じることが、この優等生にとって、あるいは彼だけではない、そのような身ぶりに吸い寄せられていった同時代の人々にとって、とんでもない解放に他ならなかったらしいこと。その解放を可能にした磁場には、そのようなある約束ごとの上で共に身体を動かすことで共有される共同性があったらしいこと。そして、それは盆なり何なりの節目に向かって設定されたある期間、集約的に立ち上がるような限定を持ち、そのためにまたある特殊な起爆力を持っていたらしいこと。その限りにおいて、敗戦直後の「やくざ踊り」の場も、電信柱の上のダイナマイト男や「朝比奈三郎」を出現させた暴動の場とそこにつながる素人芝居や盆踊りの場にまでたどってゆけるものかも知れないこと。なるほど、これらはひとまず言えることかも知れない。

 しかし、だとしてもなお、かつては役人に向かって胸押し広げて対抗し、鉄砲の前に馬鹿げた身振りをさらして怪我をし、一九一〇年代にも我を忘れて「朝比奈三郎」と名乗り、ダイナマイトなどというおよそとんでもないものを浮かれたように投げるまで弾むこともあったものが、一九四〇年代後半には蓄音機のレコードに合わせてある設定された身振りをなぞることによる愉快に横転していったらしいことを見失うわけにはいかない。それは単に身体を律動させる力のヴォルテージの問題というだけでなく、ヴォルテージを保証する感覚の質といった次元も同時に問題にしなければならないだろうということだ。言い換えれば、自らを国定忠治に擬し、その眼で確かに見たこともないはずのどこにもいないマドロスになりきる感覚と、そのような映像的な身振りに頼るのではなくむしろ声や語りといった次元での素材を軸に構築されたイメージをもとに朝比奈三郎を名乗ることとの間に確かにある、情報環境に規定される身体感覚の問題をいくらかでも考慮に入れることに他ならない。

 これらの視点を補助線にしながら、「朝比奈三郎」の、そしてダイナマイト男の背景をもう少しほどいてみよう。


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 引き続き山本翁の画集に依拠する。明治末年頃になると、“ヤマ”と呼ばれた炭坑地帯にも娯楽としての読みものが流通するようになっていた。

「明治三十八年頃より貸本屋がヤマに現われた。講談本が主であり、太閤記赤穂義士伝、豪傑伝、里見八犬伝などが多く、一週間四銭だったが、四十年頃には五銭になった。」40

 一週間四銭から五銭というこの貸し出し額は、「沢庵が一本一銭、大盛りうどんが一杯二銭、豆腐が一丁二銭、白米一升十銭、ラムネ一本二銭、貸布団ひと月三十銭」といった当時のヤマの生活水準からすれば、少なくとも娯楽のために費やす金額としては安いものではなかっただろう。

 講談本の出現というのは一般的には講談の速記本として現われる。語りもの芸である講談を速記した活字でつづられた読みものである。これをそのまま受け取るとすれば、それだけの出費をしながらなおそのような活字を楽しみとして読むだけのリテラシーを持った坑夫たちが一定量出現し始めていたということになる。

 この山本翁の記述から推測するに、この貸本屋は固定店舗のものとは考えにくい。おそらく、都市部においては活版技術の進展と共に明治十年代にほぼ淘汰されるに至ったとされる得意先回りの貸本屋だと思われる。だとすれば、ここで貸し出されていた「講談本」と山本翁が称するものの中には、文字通りの講談の速記本だけでなく、「軍記実録類をタネ本にした」活版による翻刻なども含まれていた可能性はあるし、ということは、その物語世界の素材も「近世戯作ののこりものを貪婪にかきあつめた塵芥処理業者」の手を介したものによって固められていたことにもなる。41ただ、このあと引用する光吉悦心の記述に出てくる貸本屋は固定店舗らしいから、この時期、筑豊貸本屋の営業形態としては新旧ふた通りが並存していたのかも知れないが、いずれにしても、朝比奈三郎に限らずそのような大力の豪傑譚は炭坑では好まれたはずだ。「一冊々々の書名を注文するのでなく、仇討物何種何冊とか、侠客もの何種何冊とかいう注文」をしていた当時の地方の貸本屋としては、そのような内容の本ばかりを集中的に仕入れることもあっただろう。42

 ちなみに米騒動の翌年、一九一九年に足尾銅山の坑夫を対象に実施された調査によれば、彼らの購読雑誌は「講談、軍紀等ノ簡単ナルモノ多ク、中ニハ中央公論、改造、解放等ヲ購読スルモノアリ。殊ニ大正八年秋労働争議当時ニ在リテハ、此等雑誌空前ノ売行ヲ鉱夫間ニ於イテ為見シタリト云フ」。43足尾銅山が、尋常小学校卒以外採用しなかったことなどにより坑夫のリテラシーの高い鉱山だったことを考えると、この状況を筑豊の炭坑にそのまま適応しにくいのはもちろんだが、にしても、この時期、敢えて雑誌を購読しようという意欲を持った坑夫がある程度存在し始めていたことは確かだろう。ただ、この「購読」の内実に貸本がどれくらいの比率を占めているのかについては明らかではないのだが、おそらく中央公論などの新刊雑誌はともかく、「講談、軍紀等ノ簡単ナルモノ」は貸本中心だったと考えるのが自然ではないだろうか。そしてさらに言えば、その同じ「読む」ことについても、新刊雑誌を「読む」場と「講談、軍紀等ノ簡単ナルモノ」を「読む」場においてはそれぞれ別な行為だったという可能性も考えておかねばならない。それは、前田愛が指摘したような音読と黙読との間の亀裂にも関わってくる。

 同じ時期、田川郡の大任炭坑で働き始めていた光吉悦心は、次のように回顧している。

「ここは別世界で好きな本を入手することができない。後藤寺まで出なければ本屋がない。本屋へ行こうにも現金の入手が難しい。炭坑近くに貸本屋があるが、通俗小説、講談本のみでものたりない。それでも仕方がないから、弦斎、浪六など新小説と称せられるものは、たいがい一度は読破したものではあるが、やむをえずそれらのものを借りて来て暇を見てはむさぼり読んだ。類は友を呼ぶのか、桟橋の棹取夫は昼夜勤合わせて十四、五名であったが、そのうち大半は二十歳前後の若者たちであった。そのうちの五、六名は文学とまではいかないが、小説や雑誌が好きで、私とは趣味の点で一致し、昼夜をわかたず文芸上の雑談を交わすようになり、肝胆相照らす親交の間柄となった。」44

 この記述に従えば、彼のまわりで共に働いていた同世代の若者たちの三分の一ばかりがそのような読みものに関心を示し、それらを読むことを生活習慣として身につけてきているということになる。そして、そのような彼らの“ものを読む”という習慣は、それまでの坑夫の共同性の中で明らかに異質なものだったはずだ。

「私たちは静かにおちついて読書する一室が欲しくなったので、棟領に相談してすぐ近くの空納屋を一件借り受けた。へりなし畳敷の四畳半で、入り口にせまい土間があり、裏に押し上げ戸が一枚ついている、うす暗い土間である。それでも高い屋根の棟に近いとこ
ろに電燈が取りつけてあって、夜分は五燭光一燈がともされる設備になっている。……(中略)……こんなお粗末なものでも私たちには天国であり、楽園であった。四、五人の同僚がみんな集まるのは休みの日だけで、平日は二、三人で静かに読書し、誰に気がねもなく縦横の議論が闘わされるようになった。」45

 「静かにおちついて」というからにはこれは黙読かも知れないが、しかし集まることを前提にした場所での読書であり、なお「縦横の議論」と連続していることに触れられている以上、これは輪読、ないしはある種の朗読に近いような「読む」も併存していた可能性も考えねばならない。ただいずれにせよ、そのような本を媒介にしてこの納屋に立ち上がった共同性は当然、坑夫社会の中に不可視の領域を作った。同盟罷業を組織した、という説明が発動され、彼はその炭坑を追われるのだが、しかし、とりたてて政治的な内容の書物だけでなく、読みものを読む――それも黙読を前提にした「読む」をも含めた――という習慣そのものがヤマにゆるやかに浸透し始めているのがわかる。

 また、新聞も入り始める。費用として一ヵ月五十銭かかったというからこれは貸本以上に大変な出費のはずで、こちらはそれほど普及していたとは考えにくいが、しかし、自ら購読してまで読まないまでも、おそらくは音読の場を介して文字を読む習慣のない坑夫たちまで新聞というメディアに触れていた可能性は高い。そして、そこには読みものとして続きものの小説が各紙掲載されていた。当時、このような物語の素材が彼等の生活世界に新たな回路を穿ちながら流れ込み始めていたことは、その中から「朝比奈三郎」を出現させ、ダイナマイトを投げさせるまでに至った坑夫たちの共同性をほどこうとする場合、ある示唆を与えてくれる。

 それらの素材を含んだ読みものは、「作者と読者の内密な交流がもたらす快い戦慄とかすかな反撥」をもたらすような質のテキストではひとまずなかっただろう。しかし、だからと言ってそれらが「学校・寄宿舎・私塾・政治結社等の精神的共同体の内部で集団的・共同的に享受された」「「吟ずる」読み方」で読まれたともなおさら思えない。それらのテキストは、その時期それらを読むような習慣を身につけ始めていったであろう新たな読者との関係において、いわゆる「近代読者」が成立してゆく経緯からはどこかずれた読まれ方をされていったと考えることはできないか。46少なくとも、そのような作業仮説を立ててみることで新たに見えてくるものはないだろうか。筑豊の坑夫という仕事が主として中国地方以西の西日本の農村から引きはがされた労働力によって支えられていたことを考えれば、彼らのリテラシーが当時の平均水準以上に高かったとは思えない。とすれば、この時期の炭坑における講談本や新聞小説の読まれ方というのは、「読む」という行為を軸に据え、なお共同性のなりたちをほどく試みに即した場合、もう少しふくらみを持たせた位置づけが必要なように思われる。

 なにしろ、軍談語りの伝統のある地域である。大正初年と言えば、宮崎滔天と共に九州に落ちてきた桃中軒雲右衛門は、福本日南らの手によるテキスト『義士伝』をひっさげ、上演の身振りや節については九州で絶大な人気を誇った軍談語りの美当一調を参考にリファインして再び東上、不動の人気を獲得してしまってからさらに十数年後にあたる。47

 山本翁も「直方の安平さん」と呼ばれる祭文語りらがヤマに回ってきていたことを記述し、その舞台を描写している。それによれば、手に錫杖を持つのは未だちょんがれ風だが、すでに演者の名入りのテーブル掛けがあり、演者自身紋付きで舞台に上がっているところからして、やはり雲右衛門による“革命”以降のスタイルである。語るのは「当時流行の太閤記赤穂義士伝であった」とある。48ラジオが出現する以前のメディア環境において、浪曲が新たに都市に吹き寄せられてきた単身労働者層にほぼきれいに対応する芸能であったことは、たとえば正岡容の記述などによって、統計としても浅草の寄席の観客層に対する権田保之助の調査によって、それぞれ裏付けられている。49当時の筑豊の坑夫たちの意識にとって、このような語りものの声に乗せて語られるようになった英雄譚がその最も核になる鮮烈な物語体験だったことは考えられるし、だとすれば、講談本に対しても同じ「読む」であってにせよそのような声に即して読むことが前提になっていたこともあり得るだろう。言い換えれば、現実に朗々たる声に出さないまでも、文字を追い、自らの内側に仕込まれた声の響きに同調させてゆく時のその声が、「近代読者」にとっての黙読に寄り添う内なる声――たとえば「素読」の声など――とまた異なったものだったことはあり得るだろう。

 浪曲がこのような徹底的に下層の民衆、宮崎滔天の素敵なもの言いを借りれば「昨晩寄席で聞いた所を翌日、通りでたんかを切ってみやうという連中」50を最も主要な支持層として成立してきたことは間違いない。それは、ことばと身体との距離がどこかで容易に短絡してしまうような、そしてそうでもなければとてもこんなあたりまえの大きさの自分を支えてゆけないような苛酷で過剰な生の場にいることを良くも悪くも強いられた、そんな人間たちだった。では、どうして他でもない浪曲がそんな彼らにとってそんなに切実だったのか。

 浪曲そのものを論じる場ではないからここは端的に言うが、これまで言われてきたような物語世界そのものの質と共に、いやもしかしたらそれ以上に、その「声」の魅力があると僕は睨んでいる。それは、知識人層の音読の声を規定してきた漢籍系統の素読の呪縛とはひとまず違うものだが、しかし、その素読の声がある権威を伴って流れていくようになった明治という時代の文脈を考えればあながち全く無関係というわけでもない。必要以上に漢文らしい堅苦しいもの言いを取り入れ、時に文法的にも間違ったもの言いをして眉ひそめられ、しかしそのことによって確かに何か別の意味づけをしようと苦心していた浪曲の芸人たちは、語りの中味よりもむしろそのような語りをそのような声でなす自分というものについて、何か幻視していたフシがある。それだけは他ならぬ自分自身のものである声に、たとえば立身出世に重なる想いをまつわらせるために、彼らはそれまでの語りもの芸からすれば異様とも言えるような過剰な発声を自らに強いていった。

「声を有り丈け出してやるから真鍮板の上を走らせる様な張り切った声になって、義太夫の様な太い声や、円い声や転がって行く様な声などは出ない。最初から有り丈け張り出すから、声に余裕がない。従って変化がない。また、張りが生命で、一調子の平調だ。抑揚などは余り出ない。だから幸にして美音の人だと良いが、声の悪い人がやると無い声を無理に出そうとするから、顔は火の様に赤い見ッともないものになり、例の口を一杯に開いて腸までサラケ出す様な醜体になる。」51

 もちろん、これは彼らの内面のモティベーションだけでなく、野外も含めた上演場所の大きさの問題やそれに伴う観客数の問題などもからんでくるから必ずしも一義的に解釈はできないのだが、それにしても、ただ大きな声を出す、それもただ張ることだけに集中した大声を出すことの愉快が浪曲を規定していたことは否定できないだろう。それまでの演劇を規定していた呪縛を離れてただ走っていいのだ、という歌舞伎出身の役者たちの愉快が初期の無声映画を支えていたと明快に断じたのは橋本治だったが、似たような文脈で言えば、マイクを介したレコードの普及がようやく話の芸としての虎造を産み出したものの、それまでの浪曲とは肉声を“近代”と直接に拮抗させようというある欲望に支えられた異様で、過剰で、そしてその分だけミもフタもない露骨な芸能に他ならなかったということができる。

 そのような声は、ただ具体的な大声というだけでなく、ある種の“自分”を載せてゆく大声だったことによって、確かに別なものになっていた。他ならぬこの“自分”の声として大声を出す。そこには、文字に対する朗詠の愉快を成立させる仕掛けとも違う、また別の共同性が控えていた。講談本を手にした坑夫たちは、しかしだからといってそれらを家庭小説のように家長の朗読によって読んだわけではないし、といって、文章の内的リズムを自らの内面に響かせたわけでもない。もっと直接的な、しかしそれでも確かにある種の「個」であるような声。浪曲のあの声に象徴されるような声を介して響いていた「個」というのも、折り目正しい「近代読者」とは別に、同時代の舞台にはるかに膨大に、あたりまえに仕込まれていたかも知れないのだ。


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 突如二十世紀初頭の筑豊に出現した「朝比奈三郎」に率いられた一群は、このようなもうひとつの「個」の集合を基盤として“異なった自分”へとつながる破片を寄せ集め得たその最も濃密な交錯点に凝集し、ついにダイナマイトを投げる男までを自らの共同性の内に宿すようになる。そのとりあえず電圧だけは高い「場」のエートスを放出するノズルがどこにどんな水準で設定されようとも、いずれにせよそれは“熱い”季節であることは間違いなかった。そしてその季節を可能にした道具だては、とりもなおさず“近代”のもたらしたものだったのであり、その限りにおいて“都市”と言いならわしても構わないようなものでもあった。52

 この米騒動と同じ頃、上方の寄席を駆け抜けた桂春団治も、その無限連鎖のような“都市”の描写の語りを立ち上げている。少し長いが、ここはいいところなので引用しよう。できれば弾むような大阪弁で読んでいただきたい。場面は、引っ越しの荷物と共にどこか
へ行方不明になっていた長屋のオヤジが舞い戻ってきて女房にその顛末を言い訳するところである。

「……「いいえエさア、膳のうち表へ出るなりむこに楽隊の音がするさかい、おらァなにごとでんねん、てたンねたら、はよう行きなはれ東西屋はんの広告やちゅうさかい、こら商売に勉強の世の中なら行かなどんならんと思て、わい、が、が、楽隊のうしろついて行たらおまえ、松島まで行てもてな、こらこんなとこ来てんのやないわい宿替えしてんねん、思て、ほいで、こっちこう戻ろと思たらむこの方であんた、提灯行列があんねん太鼓叩いて、でわい、なんでやすねん、てたンねたら、早ういきなはれ法華の提灯行列や、ちゅうさかい、こら信心参りなら行かなどんならんと思てわいも重たい荷背たろうたなりでその提灯のうしろからおんなしようにわいお題目唱えてな、ミョーホーレンゲーキョーナンミョーホーレンゲーキョー…………チャカツクチャンチャンチャンチャンスッチャンチャンチャンチャンチャンと、太鼓の音に一緒について行たら、おらぁ玉造まで行てしもたんや」「アホやなぁこの人は、西と東と行てんねや」「さぁさぁ、そんなりわいこらこんなことしたられん、宿替えやぁ思てね、ブラブラ戻ってきてわい、あの、日本橋筋出てきたらむこの方から自転車に乗ってきよるさかい、あぶのおまっせぇちゅうなりわいとこう自転車に乗ってくやつが行き合いになってェさ、ワァーッちゅう拍子におまえ自転車に乗ったなりで茶碗屋のうちに飛び込みよったもんやさかい、茶碗の上でこけよったもんやさかい、上の棚の鉢がバンバーンと落ちるわ、えらい音がするもんやさかい奥でヨメはん子ォ寝さしてはったん、びっくりして子ォ連れて震災と間違ごうて表飛んで出るなり牛が通ってる牛の尻に頭突きもってったもんやさかい、子ォとヨメはんの横面ババだらけになってね、そないしてるとこへ水道へ子ォをボテェンと落したら子ォがホギャーホギャーってそう、泣いてるとこへおばあはんが通りかかって、こら危ないわたしが拾たげるてうつむいて子ォひらおうと思てるとこへむこの方から、あの、なんじゃろなぁコエ取りがタゴをかたげてワァーと露ォ路から出んのんとおばあさんがいきあたったもんやさかいタゴの紐が切れてェさ、子供の上へさしてバァーとおまえぶっちゃかしてしもゥてな、そないしてるなりおばあはん助けてくれーち言いはるさかい、こらいかんと思てるとこうしろから自動車がブッブーッと来たん、こら危ない早う知らさなどんならんと思てのっけにおれは交番へ飛び込むなりおまえあわててガラス二枚割って巡査はんにえらいめ叱られてな、どうしたんやっち言いはるさかいおばあはんこうこうでやすねん、ったら、ほんなら交番へ来るよかちっとでもはよう医者の家走ってやれ、っち言いはるさかい、このへんの医者の家知りまへんねんったら東の辻の角の煉瓦造りやっち言うさかい、よろしおまってバーッと走って煉瓦造り入って先生しとくんなはれーってわい言うたらここ郵便局やーっちゅうさかい、さあしもたぁっと思うてもうそうなったら方角わからんようになって、こらもうしゃあない大阪病院走ったれと思てバーッと大阪病院飛び込むなりむこの下足に下駄脱ぎんかーっておら尻殴られて、してるとこへ院長はん出てきてどやねんーっておばあはんこうこうで怪我でやすねんな自動車にのって連れて行ってやれー言うて、一緒にわいバーッと行て現場行て、ちょうどそこで降ろして手ェ見るなりこいつは入院ささなどんならんちゅうてな、おまはん入院ささなどんならんち言いはるさかいほんならおばあはんどうして連れていきまひょちたら、おまはん重たい荷背たろうてるけどおばあはんちぢ組ませてやってくれー言うて、そいでおばあはんのわい股ぐら頭突っ込んでそいでバッとちぢ組ませてェな、そいでこっちこうと思たらお医者はんが危ない危ない、こっち寄らな危ない電車が来たーっち言わはるさかい、さよかーっちわいこっち寄るなり、上見ィ飛行機が通ってるーっち言うてワー言うて上見てる間に横手で犬がおまえめん犬とおん犬とがいちゃついてんのんわい知らんがな、その足踏んだもんやさかい犬がふたつにわかれよったほいでわいもう犬に気の毒でな、ほいで犬に言うてん、もうあんた今日らの日ィにいちゃつかんと明日改めていちゃつき直ししなはれーいうてそいで犬にあのー電車に乗んなはれー言うたら犬パス忘れた言うさかい、ほいでわい犬にパス二枚あげてそいでわい今戻ってきて、ああえらかった」53

 ここまでを春団治はひと息に語る。もちろんその間ブレスはしている。だが、聞いている限りはここまでがひと息、あれよあれよという間にことばがたたみかけられてゆくといった調子なのだ。

 ここで息もつかせず語られている混乱の要素をバラしてみよう。東西屋の楽隊、法華の提灯行列と読経、方向性の混乱、自転車の音、茶碗屋のドタバタ、震災の記憶、赤ん坊の泣き声、牛、汚物、コエタゴ、自動車のクラクション、交番、割れるガラス、煉瓦、郵便局、めまい、病院、暴力、自動車の速度、入院、路面電車、飛行機、そして犬の高さの眼、いつしかしゃべり出す犬たち。

 ありとあらゆる文脈を無視し、本来あるべき場所から引きはがされたものや音やできごとが交錯し、自分の位置感覚を狂わせてゆく過程の縦横無尽かつ詳細な、しかも最終的には身体の感覚軸に沿った構成。それは、明確なかたちをとって立ち上がり始めた“近代”の表現である「都市」の日常生活世界のディテールに他ならない。

 あるいはまた、笠置シズ子の「買物ブギ」の混乱を想おう。

「今日は朝からわたしのおうちはテンヤワンヤの大騒ぎ/盆と正月いっしょにきたようなテンテコ舞いのいそがしさ/なにがなんだかさっぱりわからず/どれがどれやらさっぱりわからず/なにも聞かんで飛んではきたけど/なにを買うやらどこで買うやら/それがごっちゃになりまして/わてほんまによう言わんわ」54

 「ただいそがしいという状態、アナーキーな状態そのもの、状態が定態である」55というこの状態は、別に笠置の活躍した一九四〇年代後半から五〇年代前半にかけての戦後闇市の時期だけではないし、春団治のはじけて生きた一九一〇年代の大阪に限ったものでもない。このような「都市」の現実を前提とした、しかしそこから常に放り出され、心ならずも「流れてゆくこと」に甘んじねばならないような種類の心性は、ごく素朴に言って“近代”の生に半ば必然のように宿ってきたものであると言える。

 だが、そのような構造的条件は同じであっても、そのような条件にある生の場のそれぞれはまたそれぞれの時代の規定を受けている。情報環境の問題は、このような意味で広義の歴史を民俗学の脈絡からほどいてゆこうとする場合、ひとつの重要な視角を提供する。それは言い換えれば、あるできごとがあったとして、そのできごとの「場」を組み立てていた微細な“もの”や、その“もの”のたたずまい、さらにはそれらの“もの”と人との関わり方やそれによって規定される意味づけの問題などをゆるやかに考慮しながら、可能性としての歴史、あり得たかも知れない解釈の水準をほぐし出す作業によって引き出される視角である。“近代”のもたらしてきたおよそとんでもない大きさとその大きさを可能にする“力”。それはただそこにあるに過ぎない“もの”を介してさえ僕たちの生の場に深刻な波動を与え続けるのだし、そのような仕掛けの中に“変身”もまた歴史的に織り込まれてきている。

*1:国立歴史民俗博物館・編『変身する』(平凡社)掲載原稿。註、の部分がアップされてませんが、例によってそのうちまた、ということでご容赦ご容赦