「わたしにもできる」ということ


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 「わたしにも写せます」というフレーズを、おぼろげながらも自分ごとの見聞として覚えている向きは、ゆるく見積ったとしてもいまやもう50代も後半以上、まずは還暦超えた年寄り世代ということになるのでしょう。いまどきの若い衆世代の語彙で言うなら、まさに「昭和」の人がた、すでに「老害」呼ばわりされて陰口叩かれる存在になっている世代の記憶ということに。

 1965年、昭和40年のテレビCMのキャッチフレーズ。ブツは「フジカシングル8」。これもまたもはや説明が必要な過去の遺物、忘れられた「動画」記録デバイスになってしまった「8ミリカメラ」の宣伝広告で、のちに堂々参議院議員にまでなった元ヅカガール(これも死語に近いかも)で、当時NHKは朝の連ドラなどでお茶の間(ああ、これもまた「昭和」の死語っぽい)人気沸騰中の扇千景が自ら手にしてにっこり微笑みカメラ目線で訴えるひとこと。記録によればわずか15秒の「尺」で、「見るからにキカイに弱そうな扇千景にそれを言わせ、操作しやすい8ミリカメラというセリングポイントを端的に表現して水際立っていた」などと評される、まずは戦後本邦広告史でもひとこと言及される程度には有名な代物。当時、テレビのスポットCMの単位が30秒から15秒に短縮され、さらに5秒のCMカード――今でも地方のテレビ広告でたまにある「絵の動かない」フリップのことだが、これ一発の広告も解禁されて、「5秒スポット」と呼ばれる一瞬のCM形式が一気に主流になった時期だそうで、「比較的小予算で手軽に周知効果が狙えるとあって新製品や季節商品の発売キャンペーンなどに繁く利用され、1965年に中止されるまでの前後3年間、お茶の間を掃射した」由。この流れを受けて、とにかく視聴者の耳目を集める「見出しことば」、つまりキャッチフレーズの良し悪しがテレビCMの眼目になっていた中、生み出されていた秀作のひとつということになります。


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 まあ、今ならポリコレ基準、フェミニズムだのジェンダーなんちゃらの方面から、女性差別だ蔑視だと速攻で非難中傷雨あられ、たちまち放送中止になるような内容のCMではあるでしょう。実際、これより10年ばかり後、1975年には「わたし作る人、ぼく食べる人」というキヤッチフレーズを擁したハウス食品のインスタントラーメンのテレビCMが「男女の役割分担を固定化するもの」として物議を醸し、すったもんだの末に結局、放送中止に追い込まれていますから、そのデンでゆけば、この「わたしにも写せます」も、少し時期がずれていたら同じような俎板に乗せられ、糾弾されていて不思議はなかったかも知れません。

 ここでのこの「わたし」という主語、直接的には先に触れたような「キカイに弱そうな」「女性・ご婦人方」を表わしているのは明らかです。つまり、そんな「わたし」にでもラクに簡単に操作して、8ミリ映画(当時は「動画」というもの言いはまだ一般的には使われておらず、家庭向け民生用フォーマットの8ミリもまた正しく「映画」の範疇でした)を撮影することができる、というのがそのココロだった。何より、その「わたしにも写せます」の直前には「マガジン、ポン!」という、これも黄色い声(これも要解説な慣用表現になっているかも)によるかけ声が入り、後のカセットテープのようにパッケージ化されたフィルムの「マガジン」を本体に装着するだけで準備完了と、当時すでに爆発的に普及していた家庭向け銀塩カメラの操作でひとつの敷居の高さになっていたフィルムの装填という作業を簡略化するポイントもしっかり強調されていたわけで、何にせよそういう「わたし」という主体であってもなお、それら面倒で厄介な手続きを経ないとちゃんと動いてくれない「機械」を「簡単に」動かせるんだ、という強いメッセージを実にわかりやすく、単純明快に表現していた一編ではありました。


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 「わたし」にも「簡単に」、特別な知識や訓練、稽古を必要とせずに、今すぐこの場で「できる」――思えばこのメッセージは、「戦後」のわれら同胞、いずれ世間一般その他おおぜいの最大公約数的な気分、怠惰で横着で受け身でできる限り上げ膳据え膳、自分自身が汗をかき、手を動かし、手間も暇もかけて何かをするということからできれば身を遠ざけておきたい、というある意味人間本来の隠された欲望にダイレクトに突き刺さるものでした。

 それはさらに「便利」というひとことにも凝縮され、単に仕事や家事の断片的な場面だけでなく、およそ日常のあらゆる局面で時間も労力もできる限り省略する/できるようになってゆくことがとにかく無条件で素晴らしいことであり、それこそが「進歩」であり「新しい生活」のかたちなのだ、といった方向でのコンセンサスを、それこそ家電製品から何から、いずれ市場に大量に出回り売られてゆくようになる商品群のもたらす具体的で否応ない説得力とあいまって、誰もが特にそうと疑うことのなくなる「そういうもの」になるまで作り上げ、あまねく浸透させてゆくことになりました。

 そのような「わたし」とは、単に女性であるだけではなかった。時に子どもでもあり若者でもあり、つまりそれまで〈おんな・こども〉と称されひとくくりにされてきたような、社会的には一人前の主体として正面からとらえられてこなかった存在を、折りから伸長してゆく経済市場がはっきり自覚的にその射程に主体として捕捉し始めたことの表現でありました。同時にそれはまた、ようやく「消費者」という新たなもの言いと共にわれわれの意識に合焦し始めた新たな「われわれ」像、大衆社会化の過程の裡に宿っていったそれまでとは違う「われわれ」の自意識の現われでもありました。

 そのような新たな「われわれ」という自意識は、ひとりの個人である自分という意識の拡張もそれまでとまた違う規模でもたらしたようです。

 有名になりたい、他人に注目されたい、その結果がどのようなものであり、自分自身をどのように変えてゆくことになるのかなど、先行き一般に思い馳せることもなく、ただそうなりたいという欲望だけが一方的に、野放図にふくらんでゆく。そんな「わたし」が「簡単に」できる/なれること、という方向での「夢」や「あこがれ」がひとりひとりの身の裡にうっかりと宿り始めるようになる。流行歌の「歌詞」を作りたい、ということも、それならばこの「わたし」にも「簡単に」できるかも知れない、とその他おおぜいのわれわれがかなりの割合でそう思えるようになったからこそ、戦後の作詞家ブームは支えられていたはずですし、それと同じ時期、 やはりブームになったと言われる社交ダンスや英会話といった新たな「習い事」の類も同じこと。それらは、それまでのような生活上の実利と直線的・単線的に結びついたものではない、まさに「わたし」の「楽しみ」のために選択された営みであり、仮にその結果何らかの実利があるとしても単なる賃金稼ぎ目的の労働ではないという新たな意味が付与されるものになっていました。

 「趣味」というもの言いが、新たに自在な意味をまとうようになっていったのも、おそらく同じ過程です。それは、履歴書の書式に「趣味」という欄が平然と並ぶようになってゆき、そこに書き込むべき事項として「読書」や「音楽鑑賞」「映画鑑賞」などといった語句を「そういうもの」として書き込むことに誰もが立ち止まらなくなっていった過程でもあるはずです。それまではある限られた条件で成り立った「個人」の、まさに「余暇」「余技」のたてつけとしてあり得る営みが「趣味」であり、それは誰もがおいそれと獲得できるようなものでもなかったはずなのですが、ただ、戦後に解き放たれていった新たな「われわれ」は、そのような「趣味」もまた、朗らかにその手の裡に入れていってしまったようです。

 それまでなら「道楽」であり、生きてゆく上での実利に関わらず、何の得にもならないやくたいもない営みとして忌避されるようなものが、それら新たな「われわれ」にとっては当然、開放されるべき「余暇」の充足の仕方として認識されるようになりました。時に応じて好きに唄われるものであった「うた」も、「趣味」のたてつけの中に溶け込まされるようになり、日常のそこここに平然と姿を現わすようになってゆきます。「うた」に必ず伴っていたはずの「芸能」本来の時間と空間の縛りの中に初めて宿り得たような何ものかもまた、そのような道行きの裡に希釈され、その味わいを変えてゆくことになりますが、それもまた少し別の話。話題は具体的なのが一番、なのでまた手にあったところへ戻してゆきましょう。

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 「わたし」にもできるかもしれない――そう思ってうっかりとどこかへ一歩踏み出してしまう契機は、何も流行歌の作詞に限らず、戦後のこの時期、それまでよりずっと身近に手もと足もとに準備されるようになっていたようです。そしてそれは、「広告」という表現がわれわれの日常に、それまでと違う規模と量とで、しかも音や声を介してずかずかと入り込むようになっていった経緯が、どうやら関わっていたらしい。放送媒体としてのラジオ、それも民間放送の開始が大きなきっかけになって、そのような「広告」が日々の日常空間、いわゆる「家庭」の中に流れ込むようになった衝撃は、それまで本邦同胞が育んできた「うた」と「ことば」の作法にも想像する以上に少なからぬ影響を与えた痕跡は、前回触れたラジオCMとある意味隣り合わせ、共に同時代の新たな情報環境を謳歌する立場にあったラジオドラマという表現においても確認できるものです。

 ラジオ放送自体は戦前、大正14年7月から行われていて、後のラジオドラマにあたるような劇形式の表現は放送初期から試みられていました。とは言え、それは歌舞伎の舞台にマイクロフォンを持ち込んだ「劇場中継」のようなもので、後のラジオドラマのようにあらかじめそのために書き下ろされた台本・脚本によって、ラジオ独自の特性を生かした新しい形式の劇(ドラマ)というわけではなかったのですが、ただ、当時からラジオはそれに合った「新しき国民音楽」と「新しき劇」の必要を意識していたようです。音と劇、生身を介した上演の「場」を音声を中心に再編制してゆくという初志。この「新しき劇」が放送劇であり、後のラジオドラマにつながってゆくというのが一応の概史とされています。

「聴覚の世界を以て一つの劇を創造するということは、大きく言えば、全く今までになかった一つの新しい芸術を創造することに他ならない。映画がようやく新しい芸術としての地歩を占めてきたのに同じ区、何等かの形を以て「ラヂオ劇」なるものは、必ず生まれなくてはならない。それには、真にラヂオを理解し、ラヂオを愛し、同時に芸術に愛着と憧憬を持つ人の手によって研究されるべきである。」(大正14年8月11日『日刊ラヂオ新聞』)

 ただ、当時「放送劇」という理解は概ねあっても、呼び方は未統一だったようで、ここに使われている「ラヂオ劇」という表記以外にも、「放送舞台劇」「映画せりふ劇」「ラヂオ風景」「ラヂオ叙情曲」「舞台劇」「ラヂオプレイ」「ラヂオコメディー」「ラヂオドラマ」など実に多様というかバラバラで、このあたり新しい媒体に何をどう盛りつけるべきか、草創期ならではの手探りな感じがなかなか微笑ましくもあります。

 もちろん、この時代はNHK一択、民間放送はまだありませんし、だからラジオの「広告」も存在していない。戦後、昭和20年代に全盛を迎えたと言われるラジオドラマという表現形式が、敗戦をはさんだ環境の推移の中、徐々に整えられてゆく過程で、「うた」がどのような立ち位置を占めるようになっていったのか、そして生身の音と声がラジオという放送媒体を介してどのように新たな表現の形式を獲得していったのか、というあたりの問いなども、この先また少しずつほぐしてゆければと思います。