札幌の都市伝説について

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●都市伝説という現象について

 「都市伝説」という概念はアメリカの民俗学で提示されてきたものですが、都市伝説自体は、工業化とそれに伴う大衆社会化の中で必然的に現われる現象で、いわゆる先進国だけじゃなく、世界中に見られるものです。

 ただ、それにもよく見ればお国ぶりというか、うわさの背後に歴史的文化的背景があるわけで、そういう意味で都市伝説を見てゆくことはその社会や文化のあり方を考える糸口になり得ますね。

 たとえば、有名な「ハンバーガーの肉は猫の肉だ」というやつ。あれも、もともとアメリカでは「ネズミの肉」として語られていたものです。どうして日本だと猫の肉になるのか。

 あるいは、同じ日本の中でも、最近映画などで知られるようになったあの「トイレの花子さん」にしても、よく似た話は戦前からあります。けれども、そこで喚起される「こわさ」の質は、戦前の薄暗いくみ取り便所と今の洋式でさえある水洗トイレとの間ではかなり違ってきているはずです。

 似たような話がある、というだけでなく、その中にはらまれる違いや、微妙なズレみたいなものにも焦点を当てることが必要だと思いますね。


●女子高生の心理は?

 女子高生とうわさ話はよくセットで語られますが、何も女子高生に限ったことではなく、今の日本の情報環境ではこういううわさ話の流通する余地は拡大してますね。

 ただ、厳密に言うとこれらが都市伝説と言えるかどうかは、結構微妙なところがあるかも知れません。細かい説明ははぶきますが、何より「おはなし」としてのまとまりが薄い。○○すれば××になる、といったフォーマットに違う素材が流し込まれているだけで、「おはなし」としての構造も、またそれをふくらませてゆくこともあまりない。単なる断片的なうわさであって、「伝説」=「おはなし」以前のものが大量にあふれているという印象ですね。

 日本のIT革命とはブロードバンドだのパソコンだのによるのではなく、他でもない携帯電話の異様なまでの普及によるものだ、というのがあたしの持論ですが、そういう中、電話でのちょっとしたやりとりや携帯メイルの数行の行間を読むリテラシーは、確かに急激にあがった。しかし、同時に生身の現実を「読む」リテラシーは相対的に衰えているような気がします。

 これらのうわさ話の多くは、古典的な「口コミ」によるものだと思いますが、でもそれは「口コミ」本来の豊かさ、「おはなし」をみんなでつくりあげてしまうあやしい力といったものからは遠くなってしまったものでもあります。断片を断片としてしか流通させられない、それをパン種のようにして「おはなし」へとふくらませてゆく想像力、オーラルの豊かさを、どこかでとりもどさないと、本来の意味での都市伝説がもう一度力を持つことは期待できないかも知れません。

*1:『北海道新聞』からのコメント取材だったと記憶する。例によってしゃべった形で草稿を渡したのがこれ。オンナの記者だったと思う。