素人の誠実、玄人の技術――吉井敏昭『“モノ”の履歴書』解説

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 「小さなもの」の救出、それが始まりにあった。そしてそれは、真なるものに対する危機的な関心とともにあった。したがって、その関心が衰弱しさらには放棄されるならば、小さなものはいわば誤まった注意深さを惹き起こすだけのものとなる。小さなものや細部の収奪と大量消費は、さまざまな意匠のもとに私たちの周囲に氾濫しているだろう。


――市村弘正「小さなものの諸形態」      


 どう見ても玄人の仕事だ。

 年期が入ってるというだけが取り柄の老練などではない。現場の追い回しから始まり、道具の吟味、素材の見極めまでひと通り身につけて一本立ち、今では若い衆の二、三人も地味に面倒を見る立場になっている、そんな中堅どころの手練れの堅実。なにげない裾さばきひとつ、仕入れた素材の始末ひとつに、そんな気配がちらりと見える。日々怒涛となって襲いかかるこの国のジャンクフードのような活字たちに荒んだ身には、それはまるで灯ともし頃、凪いだ運河をかすかに渡り始めた川風のように心地良い。

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 初出は『サンデー毎日』だった。

 もともとは「そこにあるもの」というタイトルの連載。署名原稿だったが、その「吉井敏晃」という名前の主も、本誌記者ということ以上は何もわからなかった。

 新聞社系週刊誌というのは、どこも軒並み元気がない。『週刊朝日』は世間からズレていながらそのことを自覚できない築地の文化オヤジ感覚が致命傷で、連載は「恨ミシュラン」以外に読むべきもののまるでない壊滅状態。『週刊読売』は電車の中吊りでは眼にしても実際に読んでる人など見たことないし、『週刊サンケイ』はというと、これは今や『SPA!』にまで零落しちまってる。

 そんな中、少し前、牧太郎編集長時代の『サンデー毎日』というのは、元気のなさは同じでも、どこか江戸前香具師のようなところがあった。たまに仕事をしていたからほめるわけではない。いや、それも少しはあるけれども、週刊誌ってなぁ路上のノリが命でぃッ、とばかりに、たまにはけったいな遊撃的企画もやっていたのだ。

 そんなけたたましい賑わいの中、『そこにあるもの』は、同じ路上のなりわいとは言いながら、むしろひっそりと古本や古道具を並べている夜店といった風情だった。文体もおよそ無愛想、店構えも地味だし、カメラマンとの共同作業とは言いながらその写真で煽るようなところもない。そのような世間並みの商売っ気などどこにもないぶっきらぼうなものだった。

 けれども、しかし、連載開始当初から僕は、会う人ごとに「あれは面白い、悪いこと言わないから絶対読め」と熱烈に説いて回っていた。正直言えば、新聞社系週刊誌でこんな妙な企画がそうそう続くわけない、という予感もあった。案の定それは的中し、半年ほどで連載はあえなく中断。とは言え、それを惜しむ声も特に聞こえてはこなかったから、やはり最初から週刊誌離れしたけったいな企画ということだったのだろう。

 確か、その連載が終わるか終わらないかという時期だったと思う。一度だけ、筆者の吉井氏と、竹橋の本社ビル地下の閑散とした中華料理店で行き合ったことがある。会おうと思って会ったのではない。仕事の打ち合わせでそこにいた僕の席の横を彼がほんの偶然に通りかかり、同席していた人が何か用事でもあって声をかけた、ただそれだけだった。

 ほとんど言葉は交わさなかった。顔つきその他もよく覚えていない。ぬっとした、ありていに言って茫洋とした印象の人が頭をかきながらそこに立っていた、という記憶がある。ただ、確かに年上のはずなのに、世間で言うような意味での年齢差はほとんど感じなかった。とは言え、マスコミ方面によくたむろする年齢不詳、ありがちな若づくりオヤジではない。なんというか、そんな生身の年齢を超えた、ただそのような知性がそこにいる、という信頼感とでもいうようなものが、低い天井に仕込まれた薄暗い蛍光灯の光にまぶされてそこにあった。それは、たとえば週末の大学の片隅で開かれるなんでもない研究会や、行きつけの小さな古本屋の店先などで、ふと出食わしたりするような種類の人の“そこにあり方”だったように思う。

 その時、その場でかわされたわずかなやりとりで、ひとつだけ覚えていることがある。

 連載中、吉井氏はこの仕事にだけ貼りついていたのだという。他の仕事は一切免除。ネタのイキのよさが売りの週刊誌の現場にいながらこの優遇措置は尋常ではない。やりとりの呼吸を盗んで控え目に理由を尋ねたら、本人ではなく同席していた人の方から破顔一笑、答えが返ってきた。

「いや、こいつは他の仕事させたらポカばっかりやるんだよ」

 もろちんそれは、いずれ力業と思い切りを要求される週刊誌という仕事の場に立ち上がった、“仲間”をめぐるある濃密な親しみやすさの表現だったはずだ。にしても、彼がそれに抗議するような素振りをたとえ冗談としても見せず、ほんの少し困ったような顔をしただけで同じようにそこに立っているだけだったことは、粒子の荒れた白黒写真のような手ざわりで記憶の乾板に焼きつけられている。

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 民俗学的知性というのがあるとして、それはまず具体的なもの、小さなもの、微細なものに半ば手癖のように焦点を合わせてしまう五感を持ってしまったものであり、そのような五感のもたらす官能によってまず現実をかたちづくってゆくようなものである。

 それは、アカデミズムとジャーナリズム、学問と世間といった、それ自体は当たり前のような二分法をハナっから蹴飛ばしたところにいきなり現われるようなものでもある。雑然とし騒然ともした日々の流れに水泡のように湧き上がり、群れ集まってはいつか何かかたちあるものになってゆくような「教養」のかたち。説明のつかないもの、来歴のわからない“もの”が静かに増えてゆく近代の過程の内側から、その“もの”の遍在と文字の遍在との間を繋いでゆこうとすれば、このような手癖の知性を志すことは確かにひとつの方法たり得る。それは、半ば仲間うちの合言葉になったもの言いに従えば、「勝てないが、しかし負けない言葉」を、まず自分のものにしてゆくことでもある。

 民俗学的知性は、実にこのようなかたちで巷に宿る。ほんとに突然舞い下りる。それは昔からそんなものだ。問題は、その可能性を天啓や個人の才能や性癖任せにだけしておかないで、ひとつの「力」につなげてゆけるような仕掛けはできないものだろうか、と僕は思う。

 ただそのようにそこにあるもの。そのようにそこにあるということについて、それ以上の展開を自覚しないであるもの。それらのタブローの前に対峙し、“沈黙の声”を聴いてゆく作業には、文字の領域に重層された意味の層を一枚一枚静かにはがしてゆき、指先でこまめに広げては別の場所に並べ直してゆくようなほぐし方の作法が要求される。文字の側にあるものと、そこからその向こう側に広がる領域とを身ひとつで繋ぎ、関係づけてゆく意志。そのように足で稼いだ、しかし資料としての水準も異なった素材たちを相互に脈絡づけてゆくのは他でもない自分であり、その自分を輪郭確かにかたちづくってゆくのは微細なものや小さなものへと向かう性癖のもたらす官能があり、しかしその官能の在り処を注意深く凝視してみればその根源は未だ確かに文字である。少なくとも、その営みを再び世界に投げ返そうとする時やはり文字に還元しようとする限りにおいて、それは文字による主体化の過程を間違いなくくぐった人間でないことには話にならない。言い換えれば、文字の側の玄人であることと素人の誠実な疑問とが、ひとまず媒介項抜きにあるひとりの身体の内に渾然と融合していること、それがそのような民俗学的知性には求められる。

 眼の前に積み上げられたさまざまな“もの”それぞれの来歴と歴史についての、本当にごく素朴な問い。

 これを、「素朴な疑問と観察」というもの言いに還元してしまうことは、ひとまず正しい。正しいのだけれども、しかしそれは同時に、今となってはかなりの程度不自由なことでもある。「素朴」であり「誰にでもできる」ことであり、そしてそのように「面白い」ものである、ということはのべたらに可能性としてあるだけでなく、同時に正しくある呪縛でもある。そして、それらはそれ自体としてひとり歩きし始めてしまえば、また別の呪縛を簡単に生産し、拡散させてもゆく。そのような状況の下では、初発の「素朴な疑問」もその本来の可能性の呂律に従う前に、ともすればまた別の知的営みの隘路に自らを埋没させてゆくことになる。

 市村弘正ならば、それを「誤った注意深さ」と呼ぶのだろう。

 「誤った注意深さ」による小さなものへの集中とは、たとえば、営みそのものに足とられてしまった過剰な収集癖や、わずかな違いだけを違いのままに凝固させてゆくようないびつな視線による情報中毒、あるいはまた、より素朴に言えばある種の“路上観察”に見られるような自閉の傾きでもある。それらは、眼の前の現われを現われとしてのみ自らの意味の磁場の内側に取り込み、そこでの作業にのみ没頭するような性格のものだ。それは、少し違った文脈で語れば、人と社会にまつわる「学問」に対するいわゆる「素人主義」や「面白主義」の功罪といったものを考える時に、一点集中で重心をかけてゆかねばならない深刻な問題点だと僕は思う。

 さらにそれは一方で、「子供のような」「誰でも持っている」疑問である、というもの言いの効果を冷静に測定することにつながる。人は確かに「興味」や「面白そう」や「関心」や「好奇心」から、何かを立ち上げてゆくことができる。できるが、しかしそれはその「興味」や「好奇心」をずっと手もとに引き寄せておけるだけの技術がその身に備わってゆかないことには、ただの場当たり、タガのゆるんだ恣意でしかないという現実もある。「面白い」一点突破で実利を離れてどんどん尖鋭になってゆけるからこそ、「趣味」ほどおっかないものはないのだ。けれども、その実利の離れ具合というのが短絡的にある種の誠実さや純粋さ、親しみやすさのアリバイに横転してしまったところから始まっていては、それは永遠に悪い意味での“素人”のままだ。

 そういうよどんだ志の低さというのは、たとえばこの国の「市民」主義の横着にも確実に連なっている。「素朴な疑問」や「面白い」がきちんと「趣味」になり、そして身についた「学問」になってゆくためにも、言い換えればある目算を持って実利から離れてゆけるためにも、確かな経験の蓄積とそこから引き出される技術は必要なのだし、それらが同伴してこそ初めて、「面白い」は正しく「面白い」と言い得るだけの内実を備えるものだと思う。そして、それだけの条件を備えた時にはそれはもうすでに「趣味」と呼ばなくてもいい、また別の玄人の範疇に足を踏み込んでもいるものだ。

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 その意味で、この吉井敏晃の仕事も、確かにそのような「素朴な」疑問から始まったものとは言える。だが、その疑問をほどいてゆく実際の過程は、玄人の手仕事を感じさせるものだ。

 週刊誌というからには毎週締切がある。当たり前だ。だが、その締切仕事の「速度」がこの書物に収められた「小さなものたち」にまつわる文章の奥行きを引き出している。

 今、手もとにファイルしてある初出時の版組みに従えば、この「そこにあるもの」一回分の原稿量は概ねペラ二十四、五枚。書くのに一日、素材のありかや話を聞くべき人間にあたりをつけるのに一日として、実際に足を運び調べものをすることにはせいぜい三日、どう考えても四日以上は割けなかったはずだ。それが毎週。しかも、週刊誌の連載ものは自転車操業では続かないし、途中で行き詰まる場合だってないではないから、あらかじめ扱う“ものについてストックもしておかねばならない。そんな「速度」に同調しながらの作業ということを考えれば、単なる「素朴な」「素人の」疑問というだけでは成就しようのない仕事であることがわかる。

 たとえば、「千里眼」の章に収められた「メガフォン」について見てみよう。

 まず、一九八五年の日本でのメガフォンの製造本数があげられる。そして、寺田寅彦『蓄音器』、徳永直『太陽のない街』、チャップリンの「ゴールドラッシュ」からの引用が並べられる。これは筆者の記憶の中に埋もれていたものだろう。それに続く、「ある年齢の人々」に記憶されている罐用板紙を使った燕脂色のメガフォンのこと、戦後の教室で飲まされたアメリカ製脱脂粉乳の罐の記憶についても、おそらくは同様か、さもなければ身のまわりの人々のささやかな記憶の断片だろう。

 明らかに、この項のための調べものの過程で現われたろう「書かれたもの」としては、桂林森島中良『紅毛雑話』(初出一七八七年)、磐水大槻玄沢『蘭説弁惑』(初出一七九九年)、玉虫左太夫『航米日録』(初出一八六〇年代?)、Johann Beckmann『西洋事物起源』(初出一八〇五年)、黒沢隆朝『図解世界楽器大事典』、山口常光『陸軍軍楽隊史』、中島幸
三郎『支那行商人とその楽器』(一九四一年)が順次、文中であげられている。江戸末期から明治期にかけての資料が多いのは、ひとつには復刻されたシリーズに行きあたったからか。これらの復刻資料はその他の項でも流用されているから、筆者自身の読書傾向なのかも知れない。その他、楽器関係から攻めた資料が目立つのは、一般の図書館だけでなく、もしかし
たら芸大の図書館にでも足を向けたのだろうか。

 彼は、それらささやかな記憶からメガホンのかたちを引きずり出し、そこにあるまさにその“もの”のたたずまいに寄り添わせ、「現在」の切羽でのその“もの”のあり方に連接させて、ようやく「書かれたもの」の水準と同じ風景の中に同伴させてゆく。その遠近法の確かな、しかし自らの官能の所在に忠実な記述のあり方。PAシステムの歴史とかそれによって立ち上がるはずの「劇場」や「集会場」の造りの問題、あるいはムラの有線放送に使われるラッパ型の拡声器のことなどが、読み手である僕の脳裏に連鎖的に現われ、そしてそれぞれに結びあってはある「歴史」の舞台の方に鮮かな航跡を引いて消えてゆく。 実際に会って話を聞いただろう人間として名前が出ているのは、東京ドーム近くのマッス社の相本秀次郎氏。冒頭の製造本数やその他メガフォンの現状についてのデータの多くは、この人物とその周辺から引き上げてきたものだろう。おそらく、手始めにイエローページでもめくりながら、メガホン製造業者の所在とその「業界」の輪郭を電話の前でノートに引きずり出していった過程があり、それからあたりをつけて会えそうな人、会ってくれそうな人にできるだけ会いに行くという手続きをとっているはずだ。商売としてのメガフォンを発見してゆく過程や、そこに介在したに違いないある想像力のかたちなどが、また僕の脳裏をよぎる。

 これらの記述は確かに面白い。だが、どうしてそれが面白いのか、ということの説明としては、彼が「素朴」な疑問に忠実だから、というだけでは明らかに不充分なのだ。この書物に対する書評が出たとしても、そのような横着なもの言い一発で片づけられかねないから、このことはここで先回りしてブロックしておく。彼がそのような疑問を抱いたことは間違いないにしても、その疑問を確実にほどいてゆくことができるだけの技術を彼が身につけていたから、だ。言い換えれば、「面白い」のは素人の素朴な問いの誠実さそのものではない。素人の誠実さから発したまごうかたない玄人の技術の発動してゆく現実なのであり、その中で初発の問いが確かな輪郭を与えられてゆく過程だ。

 この書物の文体が、どこかハードボイルドなのはそのためだと思う。素人の誠実を抱えた玄人がひとりで歩く。調べる。聞く。独行する。それは別に自分ひとりで集めたのでなく、皆で持ち寄った素材であっても構わないのだけれども、しかしそれをひとつにつむぎ直してゆく時は、絶対に自分ひとりの作業と心に決める。そのために、素材もなるだけ自分の手のかかったものだけに絞る。そして、狙いをつけた“もの”をできるだけ素材の次元に分解して記述し、数字や単位、呼び名についての微細や彩をできる限り尊重する。方法さえ間違わなければ、その記述に織り込まれた官能は同時代の生の地平にまっすぐに関わってゆく。

 “もの”にも歴史がある。歴史という場に収斂してゆくような来歴が確実にある。それら一律に等価なタブローという形式によって「こちら側」に向かってたたずんでいる“もの”たちのありさまをことばにし、記述し、そして掘り起こす意志というのは、「素人の素朴な疑問」というだけで十全に立ち上がるようなおめでたいものではない。疑問を持つその瞬間は素人であったとしても、それをかたちにしてゆく過程で素人のままでは、それは簡単に「誤った注意深さ」の方へと連れ去られてしまう。この国の民俗学的知性の系譜を少し冷静に眺めれば、そのような不幸と挫折の遺跡は、延々と続く宅地造成の跡のように連なっている。

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 だから、週刊誌というジャーナリズムの現場で、なおこれだけのことがやってのけられる。そのことを、「学者」としての僕は敢えて言揚げしたい。

 一見、なんでもない調べものの過程のように見える。けれども、同じことを同じ「速度」で学生にやらせてみて果たしてできるかどうかというと、これはまず無理だろう。ゼムクリップのことを調べろ、と言ってこれだけのアウトプットをつむぎだせるだけの素材を短期間に確実に集められる学生など今どき滅多にいやしないし、第一、大学にはそんな課題に対する方策を方法的に教える場すらない。いや、仕事としてならば編集プロダクションでもいい。この「速度」でこれだけの仕事の下ごしらえができるならば、それはかなり優秀な編プロだと断言していい。

 時間をかければできる、という声もあがるかも知れない。一週間単位でなく、たとえば一年かけて同じ“もの”について調べものをしてみる。なるほど、それはできるかも知れない。だが、ならばどうして、ジャーナリズムの「速度」から相対的に自由なはずの、そして時間についても恵まれているはずのこの国の「学問」には、そのできるかも知れないことをやってきた形跡が乏しいのだろう、という問いもまた立ち上がる。

 改めて、毎日新聞社というのは素晴らしいところだ。こんな玄人を修羅場同然の週刊誌の現場に悠然と放し飼いにし、たとえ半年にせよ好き勝手やらせておいて、揚句の果て、縁もゆかりもないよその小さな出版社でこんな書物にまでしてしまうことを黙認するのだから。

 そう、輪郭すらあやしい茫漠としたこの国の「豊かさ」の只中ですら、民俗学的知性にとって、そして“あるべき歴史の学問”にとって、未だ貧乏は決して不幸ではないのだ。

*1:忘れられた好著、というのは古今通じてあまたあるはず、ではあれど、この本なども見事なまでに、いまどきのweb環境からは存在が「なかったこと」にされているらしい。もちろん、書き手のことなど誰ももう、覚えていないのだろう。だが、それがいいのだし、また、それでいいのだ、と深く思う。知己は後世に俟つ――すでにしてそういうフェイズに入っているらしいこの本も、書き手の名前も、共に「おりる」ことを実装した/できた知己のひとりになっている。……221125

*2:書影すら、ない。あのAmazonにおいてさえ、も。