テレビがどうもおかしい

 この問題についてはあまりきちんとした説明が聞こえてこないので、もしもどなたか確かな事情をご存じの方があれば教えていただきたい。

 このごろ、この国のテレビは少しおかしくなり始めているのではないだろうか。

 いきなりこういうもの言いを、それも「おかしい」といった言い方を伴ってすると、また下手な誤解を招きかねない。ならば、こういうもの言いはどうだろう。最近のテレビは現場の人間もそれとはっきり気づかないうちにゆっくりと、しかし確実にこれまでのテレビのあり方と異質な論理をはらみ始めているのではないだろうか。

 こんなことを言っても、僕は基本的に一視聴者でしかないし、何よりここのところずっと生活している場所にはテレビが置いていないときているから、問いとして頼りないことこの上ないのだが、けれども、立ち寄り先で何かのはずみで眼にする番組の気配からだけ察しても、あれ、こりゃまずいんじゃないのかな、と思うことは、最近これまでになく多くなっている。

 よく槍玉にあげられているのは、『進め、電波少年』だ。松村邦洋以下の「アポなし取材」で勇名をはせ、村山首相の眉毛を切りに行ったあたりまではまだシャレで済まされていたのが、この夏にはペルーまでノコノコ出かけてフジモリ大統領をネタにして現地の顰蹙を買い、ついにはAPECで厳戒体制の大阪で運河にゴムボートを浮かべて突撃取材を試みるに至って警備当局から大目玉を食らったと報道されている。

 このような脱線行為に対して、「ジャーナリズムとしての倫理を失った行為」「メディアの社会的責任感の喪失」云々という言い方はこれまでも必ずあった。しかし、それは昔も今も、テレビにとってはほとんど何の痛痒も感じないもの言いなのだと思う。「だって、俺たちそんな真面目なジャーナリズムだの報道だのをやってんじゃないもんな」という本音の部分は、テレビの現場の人間たちには必ずあるはずだ。

 それは、たとえばテレビ朝日の椿喚問の頃から基底音としてはあったものだと思う。これまでの杓子定規な「報道」の文法の不自由を超えようとしたニュース・ショウの文法が自民党の一党支配を終わらせた、という意識が支配的になり、結果としてあのような喚問にまでつながったわけだが、あの時も「活字メディアの約束ごとを前提に映像メディアを裁断しようとしたって、そんな都合の良い“正義”や“客観性”があってたまるもんかよ」というのが最も現場の本音だったはずだ。

 だが、その本音の部分を喚問で主張することなく、テレビはあっさりと「反省」をしてしまった。あの結果、テレビの現場はますます今の情報環境における自分たちのメディアとしての性格も威力も正しく自覚しないままに、「そんなしちめんどくさい活字出自の報道のものさしとは違うところでやってるなら、俺たち文句言われやしないもんね」になったのではないだろうか。今も現場には「だって、これは“お笑い”ですから」という言い訳が準備されているはずだ。「ジャーナリズムだの報道だのじゃないんだから、そんなに眼くじら立てなくても」というわけである。

 だが、もはやテレビはメディアそのものとして〈その他〉ではあり得なくなっている。報道機関としての倫理云々を持ち出して糾弾する立場では何も本質的な批判にならないのと全く同等に、「お笑い」にもすでに立場があれば責任もあってしまう。何より、そのような状況を他でもないテレビが率先してもたらしていった果てに明らかになったのが、五五年体制を終焉に導いた現実だったのではなかったか。

 今、テレビの現場では、どのような言葉がどのような関係性の上に飛び交っているのか。そして、どのような論理によって情報の生産が行われているのか。とりわけ、「お笑い」系の番組のそれをつぶさに伝えてくれるドキュメントに、しかしほとんどお眼にかかったことはない。活字が自明の中心であり得なくなり始めた今の情報環境で、なお「ジャーナリズム」や「報道」といったもの言いにまだ何か可能性があり得るのだとしたら、たとえばそういう視点にしなやかに立脚することしかないと僕は思っているのだが、さて、活字の現場はこのようないらだちにどのように応えてくれるのだろうか。

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*1:『正論』(産経新聞社)「批評スクランブル」