ここ二年ばかり、ある調べもののため、定期的に小倉に出かけている。
なにせ大学の教員稼業のこと、世間の他の仕事にくらべればまとまった休みがとりやすいのは確かだが、それでも、ゆっくり調べものができるだけの時間と体調を確保できるのはやはり夏休みということになってしまう。それ以外は、そういう自分の仕事のための時間は日々の合間にちょっと三日、ここで一週間、と鳥がエサをついばむように作るしかない。「いろんなところに行けていいですね」と人からよく言われるのだが、しかしその「いろんなところ」に正面から向い合いことばにするのが商売ということになると、また別の難儀もある。
出かけるたびに小倉の街のたたずまいが変わってゆく。駅のまわりに高いビルが建つ。路地が消える。歩道に色とりどりのブロックがしきつめられる。渋滞をなくすという名目で路面電車も廃止され、あっという間に埋められたレールのあとをクルマたちがデコボコしながら通りすぎてゆくようになる。とは言え、さして渋滞がなくなったようにも見えない。歩く人々はなんとなくいそがしげになり、その分お年寄りたちが伏し目がちになる。
べつに小倉に限ったことではない。ここ十年ばかりの間、東京とそのまわりであたりまえに起こってきたことだし、もっと言えば、この国の暮らしの場全てが遅かれ早かれ経験してきたことの最大公約数でもある。腰すえた定点観測などではない、柳田国男流に言えば「旅人の観察」にすぎない視線からでさえも、その経験を編み上げてきた“ささやかなかたち”“微細なあらわれ”はいくらも像をむすぶ。
たとえば、街に新幹線がとまるようになる。何か大きな波が静かに押し寄せる。駅の表情がまずあからさまに変わってゆく。駅ビルが改装される。こぎれいなブティックの入ったショッピングモールやレストラン街がその中にはらまれる。喫茶店のメニューが変わる。冷凍食品のピラフやドライカレーをメインにした「セット」と称する定食が幅を利かし、テーブルにナイフとフォークがぎこちなく並ぶようになる。冷たい飲みものには氷が大盤振る舞いにぶちこまれ始める。近代化につれて甘いものの消費量が増えてゆくことを書いたのはシドニー・ミンツというアメリカの文化人類学者だったが、この国では冷たいものの普及が高度経済成長以降の「いい暮らし」のものさしらしい。ひどい時にはトイレの小便器にまで氷の山ができている。個室の便器も洋式に変わり、どういうおまじないだかトイレットペーパーの端がきどった様子で三角に折られる。電子音楽のひっかくような音が駅構内の放送に立ちまじるようになり、改札口の職員は異様ににこやかに変身していちいち「お気をつけてぇ」などと声をかけたりしてくれるようになる。
ただ、バブルとひとくくりに言われ、事実そんな波がおしよせたあとの地方都市の現在にも「それぞれの事情」というのはある。中途半端な地上げのまま終わってしまった虫食いの街なみは東京で見るよりなお無残なものに見えるし、またその無残の中にもそう簡単に消しさることのできないその「それぞれ」の痕跡もしぶとくあったりする。こぎれいに改装された店内に流れる有線放送が堂々の演歌だったり、不機嫌そうな顔のブティックのおねえちゃんが店に遊びにきた友だちと話している言葉がどうにも「地元」のひびきだったり、かたちだけはひとしなみにねじまげられていったかに見えても、そのむこうがわにたたずむ「それぞれ」の内実まではそれほどきれいに変わってしまうものでもないらしい。その一見「ダサい」とひとくくりにかたづけられてしまいがちなズレのさまが僕は好きだし、あえて言えばそんなズレの部分にこそこの先希望を持ちたいとさえ思う。
映画『ゴジラ』シリーズを民俗学者の手つきでていねいにほぐし、ゴジラが出現するためには「もはや戦後ではない」と言えるだけの経済復興が必要だった、と鋭く見ぬいたのは小林豊昌だった。ゴジラがシリーズを追うごとに東京から首都圏、大阪、名古屋と工業地帯を「侵攻」し、ついに日本を縦断するにいたるまでの三十年あまりは、そのような“ゴジラに姿を借りたなにものか”が破壊しなければならないようなあらわれがこの国のすみずみにまで浸透してゆく時代に他ならなかった。その意味で、ゴジラは新幹線や高速道路に置き換えられるのかも知れない。だが、そんな「侵攻」の後にも「それぞれ」は棲息する。「それぞれ」があるからこそ「いろんなところ」も豊かになれる。「いろんなところ」の「それぞれ」をついばんで歩くことに何か意義があるとしたら、おそらくそんな豊かさをつぶさにことばにしてゆく、まずはそのことだ。