確かな足もと≒〈リアル〉は一日にしてならず――NHK「やらせ」問題の周辺

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 「事実」と言うと顔しかめる。「現実」と言うと笑われる。まして、それを何らかの「正義」の匂いを背景にもの言いすると、人はそのまま耳ふさぐ。

 気がつくと、「事実」や「現実」というもの言いがそこまで薄っぺらで奥行きのない、信じるに足らない響きを伴ってしまっている。そうなってしまってすでに久しい。具体的な不都合というのも今のところないようだ。でも一方で、いくらなんでもこのままじゃなぁ、という程度の軽い不安も、まぁ近ごろ薄く広がり始めてはいる。

 それがどのようなものであれ、「事実」や「現実」というもの言いに見合うようなある確かな感覚、世界の手ざわりを保証できないままでは、未だ世間に足つけぬ若いうちはともかく、それなりの居場所に身を落ち着けねばならない時期に立ち至った人間にとっては、なるほど辛い。「事実」や「現実」がそのように希薄になった、というのもまたひとつの現実感覚だとしても、その感覚をきちんとことばに乗せて世界の側に差し出し説得してゆく作法も見出だせないままでは、それはこの先共有すべき新たな現実になどなってゆきはしない。確かな足もとは一日にしてならず。しかし、その確かな足もとを構築してゆくための手立てそのものからして、これまでとはもう違ってきているのかも知れない、という難儀な問いも今やある。

 たとえば、例のNHKの「やらせ」事件。ことの当否はひとまずおいておく。騒ぎをドライヴしていたのがムスタンの取材権をめぐるテレビ朝日とNHKとの確執だったこと、さらには数年前の沖縄での「サンゴ事件」にまでその因縁は及んでいたかも知れなかったこと、などの“業界事情”についてもとりあえずどうでもいい。

 僕が感慨深かったのは、あの騒ぎについての一連のもの言いの方だ。それは、ああそうか、ちょっと前まで当たり前だったはずの活字の立場に重心かけた「事実」や「現実」を背負ったもの言いは、もう本当に役に立たなくなっちまったんだなあ、という感慨だ。

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 少なくともメディアの舞台での論調は、ことが立ち上がった当初のスキャンダラスな高揚は別にして、その後の流れはどうも朝日新聞に分が悪い。といって、NHKが勝ったというようなものでももちろんない。一様に「どうせメディアの現場ってそんなもんなんだろうなあ」という倦怠感だけが残り、その倦怠感の中で朝日新聞の硬直のさまが「そんなこと言ったって現場の論理、仕事の機微ってのもそれが商売である以上やっぱりあるんだろうしさぁ」といった具合のよりやり切れないものとして印象づけられた、そんな感じだ。

  考えてみりゃ当たり前で、地球上のどこにあるかもわからないムスタンなる場所でどんな「やらせ」が行なわれようが、そのことで具体的に実害を蒙った人間はこの国にはまずいない。金丸の脱税には「国民」であり税金を収めていることを錦の御旗に怒りのポーズをとり、エイズ予防のあれこれには「こわいんですよ」感覚をタテにもの言いすることはできても、それらと同じノリで、メディアの「やらせ」は許せない、と眼の吊り上がれる人など普通世間にそうはいない。問題に対する具体的な足場が設定しにくいのだ。いずれメディアの舞台に流通する「問題」ではあっても、おのれの足場に思い至ればそれらの「問題」は等価などではない。足場との遠近法は必ずある。その意味であれは、自分も被害の当事者だ、という意識を世間に広く立ち上げるには今やあまりに“業界内事情”に依拠した遠い事件だった。

 しかし、その“業界内事情”に過ぎないかも知れない遠い事件を堂々一面報道をした朝日新聞の目算というのもある。それが何らかの「正義」に依拠した立場を喚起し得る、と彼らは確信していたのだろう。その確信とは、「報道」や「ジャーナリズム」といった単語とそこに発する「事実」や「現実」に対して、その何か文句抜きに輝かしいらしい無条件の「正義」を未だどこかで勝手に当て込んでいるからこそあり得るものだ。

 だが、敢えて冷たい言い方をすれば、それは情報環境の中での活字の優越性といったものが、たとえ勘違いにせよ保証できていた状況での「正義」に過ぎない。そして、どうやら今やこの国の世間はそういう勘違いをそのままに許容しておくような牧歌的な状況にはないらしい。

 相対化され世俗化されてしまったその「正義」のさまを、朝日新聞は観測できなかった。「報道の倫理」だの「ジャーナリズムの良心」だのと大文字のもの言いを振り回しても、言葉の響きの虚ろさは「政治倫理」だの「政治家の責任感」を振り回す自民党政治改革委員会のオヤジたちと変わりゃしない、と斜に構える世間だって今や平然とある。

 そのような態度こそが正当だと言うのではないし、また、朝日新聞的「正義」だから信じられない、と言うのでもない。第一、その「正義」の思い込みは何も朝日新聞に限ったことではない。文字が当たり前に第一義のメディアであるような約束ごとの中で主体化してきた意識にとって、それは未だかなり構造的に共有されている思い込みだと僕は思う。その「正義」が何であれ、本当に切実なものだという立場に立つならば、「ジャーナリスト」も「政治家」もメディアの舞台経由の「現実」であるがゆえに信用できないという態度が決して少数派でなく、むしろある気分の中核としてあり得るらしい、ということをも含めて立場を構築しようとしなければならないだろう。その方法意識のなさがNHKよりも朝日新聞の方に、言い換えれば映像よりも活字の方に、より濃厚にしがらんでいたということだ。そう、もはや活字は無条件の「正義」の根拠になどなってはくれない。

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 あの事件にまつわるもの言いをざっと眺めてみると、いくつか特徴的なことがある。

 まず、いわゆるマスコミ論やジャーナリズム論、メディア論と呼ばれるような領域でものを言ってきた連中が、やれシミュレーションがどうの擬似体験がどうのといった向きの八〇年代出自の若い世代も含めて、今回ほとんど何も言っていないこと。まあ、最近の不景気で彼らが立ち回る仕事の場が干し上げられてきているという事情もあるのだろうが、それでもこれまではしゃいできただけにこの沈黙は目に立つ。

 逆に、いきなり現場のもの言いの大御所たち、ありていに言って“オヤジたち”が表舞台で反応している。とりわけ、報道のサイクルがひとめぐりした後は、ほぼ彼らの独壇場だった。例によっての『朝まで生テレビ』での特集に端を発し、立花隆田原総一郎の『文芸春秋』での対談や、その流れとおぼしき放送記念日に放映されたNHKの特番。その他細かいところでは筑紫哲也猪瀬直樹なども一回はこの件について発言し、立場を表明している。

 彼らの多くは活字出身の人であり、今なお活字が本領の人も多い。だが、同時にその他のメディア(主としてテレビ)の現場についても熟知していて、その熟知している分、活字という本領の信頼性だけではないよりソフトで厖大な「確かさ」を身にまとっている点で共通している。その「確かさ」を背負ってものを言うから、世俗化した活字の場に限定された顔の見えない「正義」を当て込む朝日新聞に勝ち目はない。活字プロパーの知性のはずの加藤周一にも、当の朝日紙上でたしなめられるに至っては、何をかいわんや、だ。

 最終的な立場に違いはあれ、「活字のリアリティーと映像のリアリティーは違う」という前提は彼らにほぼ共通している。その認識は基本的に正しい。だが、そのような前提は、仕事としてメディアの舞台と関わっている人間たちやいわゆる知識人たちなどをはるかを越えて、ごく一般的な世間の人たちの間にも以前とは比べものにならないほど当たり前になっているらしい。そのことに僕は瞠目する。誰もが、情報とは作りものである、ということを薄々承知している。テレビの映像がどのようなプロセスで作られてゆくのか、新聞記事がどのような手続きで書かれてゆくのか、ということについてもあらかじめ推測できているし、説明すればきっちり理解する。

 だが、その理解しているという意識と、実際にテレビを見、活字に接しているその時の意識とは、どこかで切断があるように僕は思う。舞台裏をある程度承知していながら、いやだからこそ、一方では活字も含めたメディアの舞台に過剰な「正義」を世間は要求したりもする。成熟しているのは確かだが、そういうちょっと奇妙な、ひと筋縄ではいかない成熟の仕方をこの国の大衆社会は獲得しているらしい。

 あの一件で「やらせ」というもの言いに込められていた「許せない」気分が世間にあるとしたら、それはそんなメディアとのつきあい方における成熟を前提にした「だまされた」という感情だと思う。テレビに、ではない。メディアに、でもない。それは、無条件の「正義」という思い込みに勝手に依拠していた「ジャーナリズム」や「ドキュメンタリー」といった立場に「だまされた」、ということだ。

 だとすれば、問われているのは「やらせ」の是非などではない。すでに勝手な思い込みになってしまっている、しかしそのことを自覚しない「事実」や「現実」、あるいは「報道」や「ジャーナリズム」や「ドキュメンタリー」といったもの言いにまつわる身ぶりや自意識の尊大さ、信用できなさの方だ。

 たとえそこまで屈託したあらわれではあっても、確かな「事実」や「現実」に世間はそれほどまでに渇いている、とここは敢えて解釈しておくべきだ。その渇きが、一日にしてならないはずの確かな足もとを一気に回復してくれる「正義」へと暴発しないという保証など、見渡せばどこにもないのだから。

*1:『宝島30』の連載原稿。「書生の本領」はその前、『朝日ジャーナル』最末期の連載タイトルをそのまま援用。その後もお座敷を変えて使い回した経緯がある。