「そういうもの」という領分

 実は昨年来、職場でちょっと大きなトラブルが生じていて、その対応にあれこれ奔走していたのですが、今年に入ってから3月の年度末にかけてその案件がいよいよ煮詰まってきて、内部ではどうにも始末がつけられなくなり、外部の関係諸方面に訴えて事態の打開を模索しなければならないことに。同時に、報道関係にも事情を説明して、世間の眼から見てどう判断していただけるかも含めて動かざるを得ないことにもなりました。

 まあ、内部的には醜聞、いや、外から見てもまずは格好のスキャンダル、ないしはゴシップ系のネタとしてまずは取り扱われるような案件ではあったのですが、ことの詳細や顛末などはこの場ではひとまず措いておくとして、この間改めて思い知らされたのは、いまどきの本邦の組織や集団というものの自浄のできなさ、現場で起っている問題を穏当に把握して、それを自らの手で解決してゆく自前の動きが、見事なまでにできなくなっていることでした。

 実際に世間でそれぞれ仕事に就いておられる方なら、いまさら何を、と言われることでしょうし、そんなことはすでにこの「失われた30年」(すでに当初言われていたような10年や20年ではなくなり始めているようです)の問題の一環として指摘されてきているし、さらに広げて、これはわれら日本人に根深くまつわっている民族性や文化の問題なのだ、といった評論家的な論調ならばさらに古くから言われてもいます。とは言え、現実に自分事として起ったことに当事者として身を置いたことで初めて気づかされることというのも、また確かにあるようです、恥ずかしながら。

 たとえば、何か実際に問題が起こりつつある。まだ顕在化はしていないものの、このままだと早晩、間違いなく対処の必要な問題として明らかになってくるだろう。そのことを察知したとして、ならばそれをどのような言葉で、どのような手続きで共通の問題として認識させてゆくのか。ひらたく言えば自分事として「みんなの問題」にしてゆくか。まず、そこの段階で事態はすでに頓挫するもののようです。そして、この最初の頓挫、起っている事態を自分事としてその場の成員に共有できないことが、その後もずっと尾を引いてゆくらしい。

 もちろん、書類の字ヅラや通りいっぺんの会議や話し合いの場で抵抗なく流れてゆくような言葉やもの言いの水準でなら、事態はどこかの段階で認識されてゆくし、その限りで「みんなの問題」になってもゆきます。けれども、そこで表現されている問題は、決してそれぞれにとっての自分事にはなっていない。ある意味他人事のまま、それが本来起っていた現場とは関係ないところで、書類の字ヅラや会議などの杓子定規な言葉やもの言いの水準「だけ」で、それらの問題は淡々と「処理」されてゆきますし、そのことに対してほとんどの「みんな」は異議を唱えなければ、身体を張った抵抗もしない。何かこう、閉じられたチューブの中の長いエスカレーターに乗ったまま、ただ運ばれてゆく、そんな感じなのです。その限りでは「なにも問題は起きていない」し、あらゆる案件は「前例に従い」あるいは「規則通りに」「処理」されているのです。

 一方で、そのようなチューブの外で現実はどんどん動いてゆくし、それに伴い問題もまた姿を変え、新たな異なる事態を引き寄せてゆく。現実には「みんな」もまたそれらの事態の中に日々生きているはずなのですが、しかし、それを言葉にしてチューブの内側に届けることはしないし、できない。なぜなら、そのような言葉はどうやらそのエスカレーターの動き自体を止めてしまうものらしいのです。ですから、書類上であれ会議であれ、そのような言葉が出現した瞬間、それは「あってはならないこと」と判断され、粛々と「なかったこと」にされてゆきます。誰が、どのような理由で判断するのか、少し前までは手続きとしてであれそれらは保障されていたものですが、もはやそれすら明らかにはなりませんし、また「みんな」もそんなこと考えもしなくなっている。ただ「そういうもの」としてだけ「処理」されてゆき、かたや現実の事態はとりかえしのつかない状態にまで症状をこじらせてゆくしかない。

 この「あってはならないこと」を粛々と「なかったこと」にしてゆく「そういうもの」という領分こそが、本邦の組織や集団の自浄作用を働かなくさせているからくりのようです。それに対する有効な処方箋の可能性は、別の機会にでも、また。