「ルポ」の未来は悲惨だ

 いわゆるルポライターやノンフィクション作家といった人たちと行きあう。型通りの名刺交換をする。するとこっちの「学者」という肩書に向かって話をされることになりがちで、取材シフト丸出しの構えで耳傾けられたり、妙につっかかってこられたり、あるいはそれが酒の席だといらぬ喧嘩にもなったりと、結構笑えぬ事態になる。まぁ、いずれ文字の屈託背負ってしまった人間同士の第一次遭遇なんてのはこんなものなのだろうが、それにしてもその反応の度合いが他の稼業の人たちよりはるかに過剰で鋭角で、またその分、かえって彼らの職業的自意識の輪郭が際立つような側面もあって、それはそれでなかなかに興味深かったりもする。

 たとえば、彼らは自分の仕事を語る時、「事実」とか「一次資料」というもの言いを頻発する。そして、事実を積み上げてゆくことこそが方法で、その向こうにどんな着地点があるかはあらかじめ予測できない、と言う。なるほど、作業としてそういう性格を持たざるを得ない部分はあるだろう。それは「あるく・みる・きく」の仕事の本質でもある。しかし、その予測できないことをどこか胸張って言う表情に、そのようなもの言いがそれ自体ひとり歩きしている気配も濃厚に察知して、本当かな、と僕は首をかしげる

 「学者」の悠長な仕事でも、あらかじめ方法を吟味し、何のためにどのような素材を手もとに持ってこれるのかという目算が立たねば話にならない。まして、締切や費用やその他さまざまな制約を伴う「仕事」の速度の中、確実に原稿生産をしてゆかねばならない彼らの仕事がそんな目算なしのままでやってゆけるはずがない。何よりやってる当人が辛いだろう。「事実」というもの言いに過剰に何かを仮託する自意識が、おのれの仕事にすでに内在している方法への自覚すら眠らせているのなら、なるほどルポの未来は悲惨だ。