質を支えられない量、量に対応しない質

 人が集まる、ということのありようが、どこかでゆっくりと変わり始めている。

 数万という単位での人の集まりようは、かつてのデモや焼き打ち騒ぎを別にすれば、この国ではまず野球場だった。あるいはせいぜい競馬場の十数万人、とか。それに比べれば、今人気のJリーグにしても「量」としてはたかだか一万といった単位の集まりに過ぎない。

 しかし、今やJリーグの観客席の熱狂は、大都市よりも地方の試合において余計にすさまじいものになっている。あるいは、地方のディスコは「ジュリアナ東京」以上の狂乱ぶりを示していることが伝えられ始めている。それが本当に首都圏の競技場で、東京のジュリアナで起こっていることのコピーかどうかは別だ。起こっていると思えるようなものであれば、それはまたたく間に真実となり、その真実に従って現実はいくらでも立ち上がる。大都市より大都市らしく、東京より東京らしく、それ以上の“純粋東京”の蔓延。光かがやく像としての東京は、その実体がどうであれ、メディアの舞台を介して“とにかく東京的なあらわれ”というかたちに微妙に変形され、より口当たりよく味つけすらされて、この「地方の時代」というもの言いの虚実被膜の一枚下をさらさらと、しかし広大な流域を獲得しながら流れてゆく。地方のサッカーファンたちが東京の競技場にやって来れば、その現場の“熱狂”があまりに地味でつつましやかなのに驚くだろうし、地元で鳴らした夜遊びフリークたちも、本家「ジュリアナ東京」の田舎臭さには幻滅するだろう。


 この国に百万という単位で複製され、流通される文字通りのマス・メディアが登場するのは、たとえば大正末年の新聞からだという。同じものを自分以外の百万人が読む、聞く、見るという経験。読者それぞれの位置からその「量」は確認できないにせよ、その「百万」という量を意識することが、読む、聞く、見るの内実を少しずつ変えてゆく。オリジナルとコピーの対応が怪しくなる、というのはベンヤミン以来言われていることだが、コピーがまた別のオリジナルを作り、価値をつむぎ出す状況も今や平然とある。質を支えられない量。量に対応しない質。質をきちんと語る言葉はその量の内側からつむぎ出されてこず、しかしある感情だけはどんよりと濃厚に漂う。量によってかき立てられた感情は感情としてあるがまま、しかし言葉にされることはない。まるでブラックホールのようだ。

 音楽評論家は日々発売されるCDやテープを全て聴き尽くすことはできないし、マンガ評論家は週刊誌から単行本に至るマンガの全てを読み尽くすこともできない。何年も前からそうだ。いや、今世紀初頭、活字メディアはすでにその状態ではあった。この世に存在する活字を読み尽くすことができないと知った時の放心。しかしそれでも、書物と活字という世界をつむぎ出す仕掛けは、その上に成り立つ表現の水準について自己言及する仕掛けを自ら作り出そうとし続けてはいた。そしてそれが、文字の責任でもあった。

 だが、今日では百万という単位はCDであれマンガであれ、活字以外のメディアにおいても獲得される「量」になっている。誰もが安価に、そして簡単にそれらのメディアに接することができる、それは基本的にいいことだ。

 しかし、それだけ新たなメディアの大衆化がなされていたとして、ではこの八〇年代以降の百花繚乱の、「文化」としての水準の低下は何だろう、という問いもある。もちろん、それらを評価する言葉が根本的に異なっているから低下としか思えないのだ、という反論もあり得る。八〇年代サブカルチュアを支えた気分は、ある意味でそのような立場に依拠していた。たとえそれが外から押しつけられたレッテルであったにせよ、少し前の「新人類」に特徴的な心性というのはひとつそれだった。自分たちは新しい、その新しさは、それまでのものとどこかで切断された、それこそ生物進化的な意味でひとつステップを超えたところにいるものだ、という自意識。だが、ならば自分たちが正当だと思える自分たちの文化についての批評言語を自分たちの外側に向かって提示できなければ、その新しさも単なる子供の思い込み以上にはならない、という現実もある。「好きだ」ということだけで音楽を語り、マンガを論じることはできる。できるが、しかしそれだけではその「好き」という感情を社会化させ、新たな価値に編み直してゆく営みにはならない。

 新たな価値を作り出すための言葉。それが確かに価値であることを保証し得るだけの論理。そこから遊離した価値は、たとえ存在したとしても、歴史の中に足場を作ることなどできない。文字の速度をはるかに超えるけたたましさで実現してしまったこの「量」の現実を、言葉が放心したまま、野放しにしたままでいいわけはない。