テレビ屋の書いたノンフィクション、である。テレビと言っても、広告資本の縛りが前提の華やかな現場でなく、いわゆる硬派ドキュメンタリー方面に志を抱いていた者の手による仕事。あきらかに辺境からの仕事だ。
素材は、かつての祖国の独立を夢みて日本にやってきて客死したベトナムの王子、クォン・デという人物。ひょんなことからこの人物のことを知って興味を持った著者は、最初はテレビの企画として持ち回るが全てボツに。しかたなく活字の舞台で自前で調べものを始めてゆく。
シーンとエピソードに焦点を合わせ、時に小説のように描写をしてゆく手癖は明らかに映像畑のもの。手慣れてもいるし、取材もきちんとされているのがわかる。劇画系コミックの原作でも手がけたら結構いいものを書きそうな才能だ。けれども、その流れの中にテレビ屋出自のキャリアからくる活字メディアについての方法意識とでもいうものが随所に顔を出し、そこに語り手としての著者の自意識が不用意ににじんでゆく。どうやらそれがあの息苦しさの源らしいのだ。
たとえば、「ドキュメンタリーを撮っているからこそ、事実という概念が如何に不確かなものかを僕は熟知しているつもりだ」と正しく宣言しながら、物語の中では自身の歴史観、社会観がナマな形でさしはさまれる。映像における語り手の表出文法の洗練と活字の自意識のそれとのズレは言うまでもないが、にしても、読みものとしての洗練をさまたげるこの息苦しさが正直、うざったい。活字の内側からルポ/ノンフィクションに向かう才能など出ようのなくなった現状で、逆にそういう息苦しさ、うざったさが新鮮に見えてしまうのだとしたら、それは活字の現在にとってはあまり幸せなことではないだろう。