民俗文化としての左翼

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 非常勤で行っている都内某大学でのこと。

 ある朝、正門を入ったところでひとりの若い男が演説をぶっていた。いまどき鉦太鼓で探しても見つからないような年代もののヤッケを着込み、色褪せたヘルメットをかぶった彼は、それでも頬引きつらせながら立て看の前で拡声器を使い、声張り上げている。コッカケンリョクにとってはPKOでの中田や高田(この呼び捨てがミソなのだろう、きっと)の死は予定通りであり、邦人保護の名目で公然と出兵するために危険な場所に赴任させてこの機会を待っていたのだ、てな内容。そりゃ世の中いろんな考え方があっていいけどさ、そのたたずまいはどこから見てももはや絶滅寸前、天然記念物モンの「左翼」だ。

 それでも、講義を終えて帰る時には仲間が来たらしく一〇人ばかりが二列縦隊でデモ行進らしきものをやっていた。とは言え、正門前のちょっとした広場をせいぜい二〇メートル四方くらいの範囲でぐるぐる回るだけのこと。ミツバチの八の字ダンスみたいなものだ。うわずったシュプレヒコールはか細く、昼休みで行き交う他の学生もそんな彼らに対してまるで緊張もせず、そこに誰もいないかのようにすぐ横を平然と通り過ぎてゆく始末。

 どうしてああいう“かたち”だけが今もあのように存在してしまっているのだろう。作業着ならあんなヤッケよりはるかにいい新素材のものが安く手に入るようになっているし、ヘルメットも本気で身を守るつもりならバイクのヘルメットでもかぶった方がよっぽど実用的。拡声器の使い方にしたってもっと工夫のしようがあるはずだ。教室に勝手に置かれて誰にも読まれずじきゴミと化すビラは一応ワープロ仕立てになり、スキャナーで読み込んだとおぼしき写真などがレイアウトされたものにはなっているけれど、しかしその文体は古色蒼然。「左翼」の“かたち”のこの伝承の情けなさは、もはや民俗学の対象だぞ。

*1:図書新聞』原稿