秋田 實

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 ラジオの出現が二人の人間による対話という現在の漫才の形式を定着させた、というのが、これまで民衆文化を語る時のひとつの定説になっている。そして、その対話という形式を、にわかや軽口の要素に音頭の形式が混入した雑芸の百貨店のようだった「万歳」から強調して、ラジオという新しいメディアに盛りつけ得るモダンな「漫才」へと発展させたのが秋田實という台本作家であった、ということになっている。

 それは間違いではない。ないが、しかし完全な正解というわけでもない。ひとりの個性の独創的な創意工夫だけで、そのような新たな芸能の形が生まれるものでもないからだ。

 秋田實。明治三十八年、大阪は東区玉造に生まれ育つ。父は大阪砲兵工廠に勤める鋳物専門の職工、林佐一郎。母は福井生まれの林いし。三人兄弟の末っ子で、本名林広次。

 まごうかたない“街の子”である。そして、ひとまず幸福で円満な家庭だった。彼の生の軌跡を丹念に追った冨岡多恵子の労作『漫才作者秋田實』によれば、世間並みの葛藤ははらまれていたにせよ、「地方の大家族にありがちな、血による陰湿な闘いではなく、都会の、安定した職業をもつ技術者の家庭の、発展のための明るいトラブルにすぎない」ものだった。秋田實の何か生真面目な向日性とでも言うべき性格は、このような“街の子”の幸福の中に胚胎していたもののように思える。

 彼が書き残した文章の中に、こんな一節がある。

「諸外国の笑話に、はじめて取り憑かれたのは、旧制の高校の時である。学校の帰り、よく藤澤恒夫などと一緒に、難波から心斎橋を通って、丸善まで歩いた。その途中、歩きながら、洒落や冗談を互いに連発していた。(…)そんなある日、丸善の洋書部で『カレッジユーモア』という雑誌を見附けた。いっぱい笑話が載っていて、びっくりした。買って帰って、その夜は半徹夜で、笑話を読んだ。そして、えらいことを決心した。『世界一の笑話の大家になる。明日から毎日、笑話を三十ずつ覚える』」

 大真面目なのだ。事実、彼は英語の単語カードを覚えるようにカードを作り、それらの笑話を暗記していっては友人に披露したという。それは、ある種の収集の喜びとその収集物を他人に見せてゆく愉快にも通じるものだったはずだし、その程度にそれはある種のリテラシーを前提にした知的な趣味だったはずだ。

 後に、吉本興行の社員として漫才の台本を書くようになってからも、彼はまず母親にそれを読んで聞かせて、その反応によって台本に手を加えてゆくという作業をしている。その母親いしについては、こんな記述がある。

「その頃、私の母親は若い娘達に和裁を教えていたが、いつも何処かへ行ったり何か観て来た翌日には、その話を詳しく物語りした。聞いている娘達が、自分で行って来たような来になる位、面白く具体的に話した。話も上手だったが、記憶力もよかった。小さい私は、いつも母親の傍に座って、聞いていた。そんな折々の話に、よく見てきた漫才の話が出た。可笑しい所は、会話を混えての実演で、聞いている娘達はゲラゲラ笑った。私も笑ったし、どんなに漫才って面白いんだろうと思った。」(『私は漫才作者』)

 この「その頃」というのは秋田がまだ少年だった大正初年。この時期の漫才というのはまだ専門の小屋ができる前、新世界あたりの掛け小屋で上演される雑芸で、「まず舞台の中央に櫓ようのものをしつらえ、これに一脚の机をすえる。で、東京でいえば祭文語りといったような扮装をしたのが二人、左右に並んで錫杖を振り立てて語るのである。そのいわゆる音頭なるものは白木屋お駒、小栗判官などの段物もあるが、文句はいかにも下劣で卑猥で、父子相対して聞くにたえぬものばかり」だったが、その未だおおっぴらには認知されていない雑芸を楽しみ、またまわりに語って聞かせる口承の場の中に育った経験が、秋田にとっての創作の位相に影響を与えなかったはずはない。

 母親を中心とした口承の力によってある種のリテラシーを涵養され、このような“おはなし”への開眼をさせられたというエピソードは、この世代の知識人、とりわけ街育ちの人間の自伝にはよく出てくる。彼ら明治三〇年代後半から大正初めにかけて生まれた世代というのは、震災以降の大衆社会化の中核となっていった世代である。それは、昭和初期の普通選挙によって新たに有権者となった数百万人の中核でもある。彼ら彼女らの中に、それまでとは違った広がりでうっかりと“おはなし”へ眼を開かれるような下地を準備したのは、大枠としての学校教育だけでなく、このような当時すでに微細に浸透していた日常の口承の力でもあった。無名の想像力と創造力とはこのような無数の微細な回路を介して、同時代の突出した表現の方へと収斂していった。

 笑ってくれる者、つまりは自分の“おはなし”をきちんと受け止めてくれる聞き手や読み手の存在を前提に表現へと向かう、その健康さが秋田にはあった。それが笑話でありユーモア小説だったことの意味は軽くない。「お笑い」とひとくくりにされるような表現のジャンルは、読者の意識化の過程においてそれまでと違う要素を、表現する者の内面に持ち込むことになったのではないだろうか。

 彼が対話という形式による表現を選んでいったのは、まず最初に活字の場だった。学生時代にすでに活動が制限されるようになった時期の東大新人会に入り、左翼活動に身を投じていた秋田が、大宅壮一の『人物評論』などに匿名変名で雑文を書いて食いつないでいた昭和初年の時期には、高校時代に蓄積した笑話のストックが役立っている。半ば伝説として語られる横山エンタツとの出会いと友情も、エンタツが医者の息子で、当時の漫才師として異例の旧制中学校卒という学歴の持ち主だったことが幸いしている。そして、エンタツ以外の漫才師たちにとっては“ネタをたくさん持っている役に立つ書生さん”となった。この時期、「秋田ははじめて『大衆』とジカに出会った」(冨岡多恵子)というのは、そのようなリテラシーの水準の違いについて言われたものと理解したい。そして「漫才」とは、そのような広義の情報環境の変貌に促されて出現した新たな形式だった。

 口承の力を背景にして育った、しかしそれ自身としてはゴリッとした活字の知性の出現。対話という形式が「万歳」に流れ込んで「漫才」になってゆくには、そのような文字と耳とのリテラシーの相互交流が幸せな形で、しかもランダムに行なわれる状況が必要だった。左翼活動の経歴や、彼自身後に繰り返し語ってみせたような「民衆の芸能」への素朴な信頼感なども、実はそのような脈絡において改めて解釈し直されるべきものだろう。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ。