太地の鯨とり……(下)


 小浜さんたちの故郷、和歌山県東牟婁郡太地町は人口約四千人。熊野地方独特の入り組んだ海岸線に沿ってひっそりと入江の奥に片寄せあう町だ。
 大阪からでも名古屋からでも、いずれにしても紀伊半島をぐるりと回らなければたどりつかない土地。新型車両の投入などで以前よりスピードアップしたとは言うものの、JR紀勢本線の特急は、海岸線を縫うように作られたトンネルとカーブの連続を実にのんびりと走る。山の緑が深い色になる。植生が明らかに亜熱帯のそれになる。太陽が真上の方から照りおろす。
 山と海。この国の歴史の中で、ふたつの世界はまるで別の生活を育んできた。山は海を知らず、海は山が見えない。西日本の沿岸地域の中では、藩制時代、法律的に全くの分割統治に等しい政策をとっていたところも珍しくない。いや、この太地にしたところで、訪れるための確かな陸路が作られるようになったのはせいぜい明治の終わり頃だという。それまでは海の道、海の交通によってアクセスするのが当然の、そんな陸の側に棲む人々から見ればいかにもかけ離れた場所だった。船を持ち、それを操る技術のない者にとっては、そこは眼に見えてはいても訪れることのできない土地。鉄道もまた、そんな陸路の論理によって敷設されてきたことは否めない。事実、今も太地の駅は町の裏手を越えた山あいにぽつんとたたずむ無人駅だ。もちろん今はバスが通っているけれども、それ以前ならば、この駅にたどりつくより先にやはり船でどこかへ行ってしまった方が早かったんじゃないだろうか、と思う。
 町はずれの岬の先っぽに、古式捕鯨の頃の見張り台の跡がある。ご多分にもれず、県の教育委員会の手によって史跡となっているけれども、その真新しい看板や復元された見張り小屋のたたずまいがむしろ奇妙なくらい、そこから見渡せる海の広がりはある種の説得力があった。パノラマのように風景がふところに広がるのだ。沖合を通る鯨を見つけると同時にのろしをあげる。みるみるうちに情報が伝わる。一頭獲れれば七浦栄える、とまで言われたとてつもない「富」の源泉へ向けて、船が浜を出てゆく。そんな一連の古式捕鯨の手順が、風景の必然として理解できる。
 町そのものは小さい。ゆっくり散歩しても三十分もあればおおよその輪郭はつかめてしまう。漁村特有の狭い路地。時にそれは曲がりくねって石の洞門につながり、あるいはまた、よじのぼるように高台へとつながる。家々の軒先は連なるように並んでいる。だが、よく見ると、そのひとつひとつの家には窓枠や玄関に凝った装飾が施されたりしていて、かつてこの場所に宿ったある「豊かさ」の痕跡が認められる。
 小浜さんも、今は仕事としてはかつお漁船に乗っているのだという。地元ではかつおのことを「ケンケン」と呼ぶ。このケンケン漁、かつて鯨を獲っていた人たちの多くが従事している。鯨の町、鯨の太地ということで世間に名前は知られるようになっても、今では実際に鯨で食べている人たちの方が少数派だったりする。漁協の中でも、鯨の問題についてあまり時間を取られるのを喜ばない人たちもいるということを耳にした。一年の大部分家をあけるという生活は鯨の頃と変わらない。けれども、日々の暮らしのしがらみは、町の歴史に横たわる鯨の姿もまたひとつのエピソードの中のシルエットに過ぎないものにしてゆく。



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 それでも、なお鯨を獲ることに執拗にこだわりたい、そんな人もいる。「こだわる」というもの言い自体が今ではもう手垢にまみれてしまい、単なる趣味か、でなければやせた偏屈でしかないようなものにまで寄り添わされることになっているけれども、それがある技術と経験とに裏打ちされた避けられないもの、逃げようのないオプションとして眼の前にあることを表現するもの言いとして使われる時、本来の手ざわりを取り戻す瞬間だってある。 川崎学さんは小浜さんよりまた少し年下、かつて南氷洋に出漁したことのある砲手としては最も若い世代に属する人である。キャッチャーボートに乗り組み、その中でも特別の尊敬を受ける砲手になるためのいくつかの段階を経て、二十代の後半、異例の早さで砲手に抜擢された輝かしい経歴を持つ。
 鯨獲りにとっては四面楚歌のような現在、それでも鯨を獲ることに「こだわる」川崎さんは、沿岸小型捕鯨に従事している。捕鯨禁止といいながら、この沿岸小型捕鯨は国際捕鯨会議(IWC)の決議でも今のところ規制外ということになっている。獲物はゴンドウクジラ。小さいものは五メートル内外。大きい種類でも十メートルから十五メートルといった程度の大きさだが、鯨という名になんとかかなう生きもので太地の鯨獲りに捕獲可能なものは、今やこれしかないのだ。
 今、この沿岸小型捕鯨に従事し、稼働できるキャッチャーボートは日本全体で九隻。その中の二隻がこの太地に所属している。で、そのうちの一隻がこの川崎さんの乗り組む船だ。持ち主は漁協。

「今はあんた、こんな二十トンもない船やけども、これでもハナゴンドウマゴンドウくらいは獲ってこれるんやから馬鹿にしたもんやないよ」

もともとはカツオ船だったの<<をFRP樹脂などで改造したというその船は、反り返った舳先に小さいながらも捕鯨砲を積み、キャッチャーボート独特の背の高い見張り台を持って一人前に勇んでいた。

「ほれ、京都の会議がありよる間はいろいろ刺激するようなことしたらいかん、いうんで出漁を自粛してくれと水産庁の方から頼まれたらしいんよね。そやから今年はまだ漁に出とらんのやけども、仲間のケンケン(カツオ)の連中が沖行って、どこそこにゴンドウがおったぞ、言うて無線で教えてくれたりするんよ。そういうのを聞くとシャクにさわるねぇ。別に南氷洋行って獲るんやない、太地の眼の前泳いどる鯨もわしらに自由に獲らせてもらえんなんてねぇ。はやいとこ胸張って出漁できるようになればねぇ」

皮肉なことにというか、市場原理の必然というか、鯨の肉の相場は捕鯨禁止以来高くなるばかり。鯨肉料理を看板にした地元の旅館や民宿でも、使う鯨肉は勝浦の冷凍倉庫に保存してあるものを使うだけそのたびに持ってくるのだという。

「それは調査捕鯨の時に獲ってきたミンク(クジラ)の肉やけどね。それを冷凍にして保存してあるんですよ。それ以外? うーん、ここらは知らんけど、仲間が大阪やなんかに行ったらなんかわからん鯨の肉を食わされた、なんて話もあるよ。アイスランドなんかからどうにかして運んできたのが入っとるのかも知らんし、また大きな声では言えんけど密漁も絶対ないとは言えんやろうし。値が高いとなったらそら、なんでもする人間も世の中にはおるやろからね」

 けれども、川崎さんたちの口に合うような鯨の肉はもう滅多にない。

「あのね、歯クジラはあんまりおいしくないんですよ。と言うのは、あれらはなんでも食べる。イカでもなんでも食べとるでしょ。それに対してヒゲクジラの類はあのプランクトンしか食べとらん。そやからうまいんです」

 歯クジラというのは、たとえばマッコウクジラなど。ヒゲクジラというのは、かつてよく獲れたセミクジラ、ザトウクジラなどだ。南氷洋捕鯨で有名になったナガスクジラヒゲクジラの仲間だ。

「太地のもんなら、こんなもん食えるかい、言うてほかす(捨てる)ような肉でもあんた、大阪や東京の人は知らんでしょ。鯨いうたらこんなもんやろと思てるから、どんどん商売になるんと違いますか。そらほんとはもっともっとうまいもんなんですよ、鯨は」

 太地の町では、新しく家を建てる時などに整地をすると、今も鯨の骨がよく出てくるという。畑作のための土地がなく、芋と麦くらいしか作れなかった太地では、鯨は本当に貴重なタンパク源だったのだ。

「ゴンドウもマゴンドウなら今、一頭三百万くらいする。ただ、ハナゴンドウなんかのちいちゃいやつやと、五万とかそれくらい。それも獲っていい頭数が全体で決められとるでしょ。もう一隻の船とあわせてなんぼやから競争ですよ」

 口径五センチの捕鯨砲は、もう製造メーカーがないだろうという。装薬などはまだ調達できるけれども、「本体がこわれたら修理はきかんかも知れん」と川崎さんは苦笑する。

「太地以外でもともと鯨獲っとったとこでも、もうあかん、と見切りつけてホエールウォッチングやら何やら観光に転業しよるとこもあるみたいやけど、わしらはそんなんやるつもりはないよ。みな鯨を獲って生きてきて、子供らも鯨を食べて大きくなってきたんやから。ただ見るだけの鯨なんか、そんなん……たまらんもんね」

今年の漁期に備えてエンジンを馬力の大きいものに換装したという川崎さんの船は、鯨の町太地の誇りに賭けて、最後まで現役のキャッチャーボートであり続けることを選ぶらしい。捕鯨砲の引き金に巻かれたすべり止めの縄は、潮と脂の匂いがしみついていた。