石坂啓、許すまじ

 仕事がらみで、妊娠・出産関係の本や雑誌を読むことが少なくない。少なくないと感じるほど、たくさん出ているということだろう。

 それらは、個々の持ち味によってというよりも、どうやら子供を産むという体験についての報告本、予習本、マニュアル本として読まれているらしい。なるほど、それはよくわかるし、その意義も十分認める。妊娠・出産にしても、あるいはセックスや“死”にしても、もはや「そういうものだから」「みんなやってきたことだから」というだけでわけのわからないままに受け入れることを、誰しも納得しなくなっている。その程度にこの国の人間は面倒なものになっているし、何より、「豊かさ」とはそういう面倒なものを前向きに抱えこむ度量を持つことでもあるはずだ。

 しかし、だ。個々の本にもやはり質がある。水準がある。芸のあるなしだって当たり前にある。まして、世に流布される書物としては、いくらなんでもあんたこりゃないだろ、と言いたくなる臆面のなさを平然とさらしたものだってある。また、実利で読まれている分、それらの臆面のなさや醜悪さについて静かに諭し、自省を促す立場も設定しにくかったりするから、野放し状態にますます拍車がかかる。手がつけられない。

 他でもない、石坂啓の『赤ちゃんが来た』(朝日新聞社)のことである。

 発売以来数年、数十万部は売れたという。沢口靖子主演でテレビドラマにもなった。それらはひとまずどうでもいい。実利で読む分にはよくできた商品という面もあるし、何より、世間の読者の大多数は健康な批判力を伴った読み方をしているものと僕は信じる。

 しかし、実利以上の何やら「思想、のようなもの」を当て込まれている部分については、こりゃ黙っちゃいられない。母性の独占欲丸出しの垂れ流し。とんでもねぇのだ。

 「女の時代」という一章がある。自分の母親から自分、そして息子と三代にわたる日記というかたちを借りてオンナと妊娠・出産がらみの時代相の違いを描く、という趣向だが、二〇三〇年、息子の未来の嫁が書いたという設定でこんな一節がある。

 「私は同世代の夫と別姓・別居結婚をしている。夫はモト漫画家という母親と、今年百歳になる祖母と三人で暮らしており、私は今年産まれた赤ん坊と一緒にいる。夫と赤ん坊の三人で住んでもかまわないのだが、会社の休暇、施設、ベビーシッターなど、ある程度育児条件は整ってるから、私は一人であることに不自由がない。マザコン気味の夫やその家族といるよりは、よほど気が楽だ。もっともこの時代、男たちはすっかりおとなしくなってしまった。エイズの蔓延で性意識は昔と変わり、「女とやりまくる」恥ずかしい男たちはほとんど姿を消した。プラトニックラブストーリーがもてはやされ、ゲイやインポの男がひっぱりだこ。さまざまな環境汚染に生き残った率も圧倒的に女のほうが高く、かつて男たちが横暴であった時代は反面教師的に語りつがれている。世の中は平和である。」

 そして、こうのたまう。

 「息子は将来の世界のことを考えて、十二歳くらいで去勢させようと夫と話してる。去勢はこのところちょっとした流行だ。『地球にやさしい』ってやつである。」

 血の気が引いた。これってナチス優生学じゃねぇか。シャレのつもりかも知れない、と思ったが、文脈からするとそうでもない。考えたくないがこやつ、マジらしいのだ。

 「息子との擬似恋愛」を平然と歌い、息子のチンポコを口にくわえる喜び(!)を臆面もなく書きつづる、それもご当人がそういう感覚の持ち主と思えばそれまでのこと。小さい頃、死んだバアちゃんは鼻汁を口ですすってくれたもんだし。ただ、かつて野坂昭如が東大安田講堂に立てこもる学生たちに向かってご詠歌の如き和歌をうなりながら「説得」に向かう母親たちの醜悪を口をきわめてののしった、あれと同じような、あるいはそれ以上の母性の化物が、社会に向かって人一倍大文字の能書き並べ立ててきた女性の中になお宿る、そのことに呆然とする。そのような母性の抑圧についても自ら気づき、あるべき親子なり夫婦なりを落ち着いて考えゆく、ってのがこの先、面倒なものを抱えこんだ「豊かさ」を生きねばならない人間のスジのはず。フェミニズム以降のこの国の“賢い女性”の意識ってのもたかだかこの程度のものだったとすれば、こりゃあまりに情けないぜよ