平山蘆江。着流しで眺めていた世間


ふたりの男が何やらあやしげな物腰で道端にたたずんでいる。

ひとりは中国の人民帽のような帽子をかぶって背中丸めて身構え、もうひとりはこれまたチューリップハットのようなものを頭に乗せて鉄縁眼鏡でしゃがみこむ。ふたりの間には肩からかつぐうどん屋の箱屋台。屋号は「大和屋」とある。その後ろには割竹の垣根をめぐらした建物。草履ばきのふたりの足もとの道は、もちろん舗装などしていない地道だ。

明治四十二年の暮、東京市内のどこかの道端の風景である。男は伊藤みはると平山蘆江。ふたりとも都新聞の記者だ。

夜泣きうどん屋に扮しての探訪記事を狙ってのこの出で立ち。後の蘆江の思い出話に、「出入りの弁当屋から出前持ちの鯉口半纏を借り、鍋底帽子をかぶり、さらに鍋やきうどんやから荷箱を借り……」とあるから、この場の扮装は全部借りものだったらしい。とは言え、「ダシ入れの罐がダブついて、どうにも天秤棒が肩にめり込んで困るので、十歩あるいては休み、五歩歩いては交替し、たった一二町の道を三十分もかか」る始末で、売り声すらまともに出せず、最後はおでん屋の婆さんに「この有様を親が見たら泣くだろう」と涙ながらに意見されてチョン。仕込んだうどん百人分に雑煮十人分は無駄になったが、しかし、記事の方は十日あまり連載されて大当たりをとったという。

この時の片割れでしゃがんだ方の男、蘆江・平山壮太郎が都新聞に入社したのは明治四十年六月、二十五歳の時。薩摩藩長崎屋敷の船御用を勤めた「さつまや」の子として生まれたが、父と死別、長崎の旧家平山家に引き取られて育ち、長崎商業学校と東京の府立四中を共に中退してから満州を放浪。現地の『満州日報』の記者をやった関係で、内地へ戻ってから都新聞の門を叩いた。初任給二十五円。

当初、事件ものをやらされていたが、じきに名人奇人の懐旧談や芸界、花柳界の裏話などを専門に書き出す。当時、都新聞は今でいうところの芸能ネタや花柳界のゴシップなどに強く、天下国家のことを大上段から論じるのが王道というその頃の新聞の常識とはややズレた、言わばサブカルチュアのノリを持った新聞だった。そのサブカルチュアとしての部分の中核に、蘆江の才能が開花した。先の伊藤みはる、長谷川伸と共に「都新聞の三羽烏」と呼ばれた。街をゆっくりクルーズしてきた「あるく・みる・きく」の知性によって初めて可能な現実の切り取り方。だが、昭和四年、外部の雑誌に寄稿することが咎められたのがもとで退社、作家になり、見聞を生かした粋な花柳小説・随筆をいくつも残した。昭和二十八年、七十一歳で没。晩年は飯能の山の庵にわび住まい。最期まで独身、そして服装も和服の着流しで押し通したという。