『夏が来る』の風景

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 のっけから耳に立つもの言いをして申し訳ありませんが、男女雇用機会均等法、いわゆる雇均法以降の世代の若い高学歴女性を、この国の社会は粗大ゴミのように放置しています。彼女たちをうまく使い回すノウハウがないという以前に、彼女たちの「能力」のありようそのものをきちんとわかっていない、という大問題だってあります。それは戦後五十年、国民誰もが汗水たらして働いて達成した高度経済成長の、言わば果実でもある彼女たちの「能力」という社会的資源をみすみす眠らせたままにしていることだ、と僕は思っています。ありていに言って野放し状態、かけるべき手もロクにかけないまま放ったらかしておいて、それで「今どきの若い女は」としかめっ面するのは、そりゃあなた、オヤジの無責任、って悪態つかれてもひとまず仕方ないですよね。

 雇均法以降の世代、と僕が言うのは、具体的には今の三十歳そこそこから二十代半ばあたりまで。高度経済成長が一応の達成を見せる六十年代半ばから七〇年代前半に生を享け、八〇年代「若者」文化が一番盛り上がった時期に学生時代を過ごし、バブル最盛期に就職し、というのべつまくなしのイケイケ状態をくぐってきた連中です。ほら、おたくの娘さん、まさにそのへんの世代じゃありません?

 その世代の特徴というのはいくつかあげられますが、たとえば、女性の高学歴が平然とあたりまえのものになり、そのことによって女性のそれまであまりあらわになってなかった「能力」が広い範囲で開発されてしまったということがあります。それは敢えてひとくくりに言えば、社会に出ること、出て男でも女でもない、ひとりの社会人として一人前に胸張って歩いてゆくこと、についての「能力」だと言っていいでしょう。

 彼女たちは「どうせ世の中こんなものなんでしょ」と、どこかふてくされた自意識を抱え込んだまま、それでも、セクハラだ何だと何かと“女”をタテに文句つけたがる雇均法以前の世代の女性たちほど扱いにくくもないし、上司と酒のつきあいだってするし、同僚の男性たちのまとめ役になってたりもするし、何より仕事に対しては前向きだし、事実人並み以上にこなしているし、ひとまずあまり問題はない、ように見える。

 しかし、本当にそうなんでしょうかね。

 大黒摩季の『夏が来る』という歌があります。最近、流行っているので気をつけていれば街のどこかで耳にできるはずです。この歌、まさにこの雇均法以降の世代の若い高学歴女性の抱えた内面の寂寥感を、実にもうあきれるほどうまくすくいあげています。


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近頃、廻りが騒がしい。結婚するとかしないとか……
社会の常識・親類関係、心配されるほど意地になる。


『何が足りない……。どこがよくない……。』
どんなに努力し続けても、
選ばれるのは、あぁ結局、何も出来ないお嬢さま。

 これは単に恋愛、結婚の問題ではない。自分をその「能力」も含めてきちんと正面から引き受けてくれる関係の希薄さについての葛藤です。家でも職場でも友人関係でも、ノリがいい、元気がいい、とうっかり評されてしまうような彼女たちの内面というのは、実はこのようにほったらかされたままだということに、社会の側、オヤジたちの側からそろそろ気づいた方がいいと思いますよ。

*1:新潮45』依頼原稿。矢来町とは縁がないままだった、と思っていたが、これくらいの仕事はしていたらしい。けれども、これっきりだったはずなのは、案の定というか何というか。