大学という文化

 近年、大学に入るのは本当にやさしくなっている。少子化が進み、事実上無試験で入学できる大学も珍しくない。さらにはAO入試や一芸入試の試験ならざる試験も公然化して「受験地獄」などとうに死語。高校全入どころか、今や大学全入に近い状態になっているのだ。

 その一方では、手取り足取り生活指導してやらないことには途方に暮れる学生が増えている。ひと頃盛りあがったサークルも人が集まらず、文化祭さえ成り立たない。もちろん、学力の低下は言わずもがなだ。

 大学に残って教師をやっている友人からたまに電話でもあると、決まってそんなグチになる。こちとら三年前にケツめくった身だから黙って聞き役になるしかないのだが、確かにこの国の大学というのは今、高度消費社会の重囲の中、およそこれまででは考えられないような荒廃が確実に進行している場所らしい。

 そこに棲む者たちの多くもまた深く静かに狂っている。たとえば、独立行政法人化に反対する彼ら大学人の物言いはどうだ。未だに呪文の如く「学問の自由」を言い「大学の自治」を叫び、まるで崩壊前のソ連の官僚たちのように既得権にしがみつき、なりふり構わぬ保身に狂奔する。その旧態依然の物言い、誇りのかけらもない身振りを目の当たりにすると、主張の是非を吟味するより前に、まずその職業人としての品性を疑わざるを得ない。それはかつて「大学解体」を叫んだ世代のなれの果てばかりではない。いや、むしろそれより下、「豊かさ」の中に生まれ育った三十代から四十代にこそより深刻な症状だったりするからなおのことやりきれない。

 「戦後」を支えてきたエリートカルチュアの溶解、そして胞状鬼胎化ともいうべきこれらの事態は、あのオウムの一件あたりからはっきり見えてきた。そしてそれは今、霞ヶ関や永田町や桜田門で起こっていることと根は同じだ。他でもない、自ら安住してきたその「大学という文化」こそが、おのれを身も心も腐らせる本当の病巣だということに、心ある大学人ならまず思い至るべきと思うのだが。