花田清輝。負けた、ことの剛直。“若さ”は万能ではない。もちろん、今も。

 

 こいつは負けた、と若い男が叫んだ。叫ばれた方の男は年かさだったが、“若さ”のまぶしさにただ目くらまされるほど単細胞でもなかった。その程度には修羅場をくぐった知性だった。だから、血の気の多さを諌めるような、はぐらかすような調子でその“若さ”をいなした。

 だが、その流儀の向う側にうごめくものを読み取ろうとするよりも、ああそうだ、そうなんだ、負けたのは確かにこの年寄りの方なんだ、とまわりの若い者たちはささやき始めた。ささやきは波になり、潮になり、うねるように響き合って「負けた」という言葉を動かせぬ事実に塗り替えていった。

 歴史的な大喧嘩だった、ということになっている。少なくともその喧嘩にまつわる書かれたものを読み、咀嚼し、おのが血や肉や骨にしようと真っ正直に思った者たちはそう語ってきた。なるほどそれは重量級のブルファイター同士の接近戦だった、ように見える。

 だが、本当にそうだったのか。

 若い男、吉本隆明。年かさの男、花田清輝。齢の距離は三十代そこそこと四十代末。今から数えて四十年にちょいと欠けるくらいの昔、いずれ活字の雑誌を舞台に繰り広げられた足かけ八年にわたる「真昼の決闘」だ。

 焦点になったのは、たとえば「戦争」。戦時中の大人たちの身の処し方について、純朴な子供だった軍国少年の経験から容赦なくえぐり出していった“若さ”の側からは、大学を中退した後も京都の下宿にとぐろを巻いて図書館通い、さらに業界新聞などを転々として身を守りながら、この国の中世を生きた知性たちに仮託した一見〈いま・ここ〉と関係ないかのような論考を書きつづっていた花田の戦時中は卑怯なものに見えたし、戦後すぐに出されたその『復興期の精神』にも、「戦争」をくぐった当時の大人の責任に口ぬぐう逃避の匂いをかいだ。

 「負けた」ことになったこの喧嘩の後、花田の仕事は若い世代から読まれなくなった。それも一方的に。戦時中身を守るためのものだったかも知れないレトリックを駆使した文体は「老獪」と評され、「若さ」のふりまく潔さの前に薄汚いものとしか見られなくなった。それでも、彼は同じように本を出し、芝居を書き、小説をものし、人と人とが集まって作り出す創造の場を信じて世話役を続けた。

 活字文化以前の視聴覚文化の伝統を積極的に受けつがなければならない、と言った。古いと思われているものを〈いま・ここ〉の文脈に置き直して新たな意味を引き出しながら編み直してゆく。その「過去のなかに眠っている可能性をつかみだし、それを未来を志向する力へと変貌させてゆく作業」(久保覚)は、しかし今のうわついたマルチメディア論などよりはるかに壮大で骨のあるものだった。