村山内閣「評価」の構造

 村山政権に対する評価が変わってきた、と言われる。

 確かに、発足当初と違って支持率も上昇してきた。最近どこかの新聞で眼にしたところでは、何でも『発言者』と『週刊金曜日』が共に村山政権に前向きの評価をし始めているとか。なるほど、時代も変われば変わるものだ。とは言え、それは結果というかひとつの表層なのであって、それら昨今言われる「評価」の内実は呉越同舟。まだまだ五五年体制の世界観に乗っかった、さまざな勘違いや根のない気分の政治の上に成り立っている。それらをざっと腑分けしてみよう。

 まず、「小沢じゃないからまぁいいか」。これは、少し前までなら「自民党でなけりゃ何でもいい」と“非自民”の正義に舞い上がった気分とも共通している。次に「社会党だからまぁいいか」。これには「左派だからまぁいいか」というのも隠し味としてある。以前ならば“非自民”主義の一部だったかも知れないが、今では「自民党混じりでもリベラルな勢力が中心らしいからまぁいいか」というあたりにまで拡散している。さらに、「自民党が入っているからまぁいいか」。社会党政権なんて危なっかしいにもほどがある、政治献金なんかせんぞ、と当初お怒りだった財界方面などが典型か。「現実」主義を掲げてきた“大人”の気分は基本的にこういうものだ。そして、最後に控えるのが「ああいうジイさんだからまぁいいか」。人柄の部分だけで何となく「いいんじゃないの」になっている層。これにはいわゆる思想も信条も何もなく、その限りでは細川政権を支えた砂のような浮動票の気分と選ぶところはない。

 村山政権に対する「評価」といっても、案外このような勘違いがさまざまに組み合わさって現われているだけのことかも知れない。さて、貴兄の「評価」は如何なものか。(翼)