予備校のセンセイというヒーロー

 予備校の教員室にたまっていた「センセイ」たちの自意識のありようは、関係性の動物である我ら人間の常のこと、彼ら彼女ら自身の内側だけで決まってきているものでもなかった。彼ら彼女らを「センセイ」と呼ぶ側、たとえば最も身近なところでは生徒の側からの視線のありようによっても、それはまた規定されているものでもあった。

 八〇年代のこの国の予備校のもたらしたものの功罪については、まだきちんと語られていない。とりわけ、教育制度そのものというよりも、むしろメディアとしての問題、言い換えれば広義の文化としての側面にそれは顕著だ。

 メディアとしての予備校の浮上は、現象としてはそれまでそれぞれの地方、それぞれの街で地元の論理に従ってそれなりに存在してきた「受験勉強」への対応を主にしたサービス業の多様性を、「大手」と呼ばれる全国ネットの予備校チェーンのシステムの中に呑み込んで行く過程として現われた、と言っていいのだろうが、しかし、その過程に含み込まれていた視線がどのような「センセイ」像をはらませていったかについては、また別の説明が必要になってくる。

 大枠としてはこうだ。校内暴力や、登校拒否や、その他さまざまな同時代のできごとの堆積を介して、学校教育が何か抑圧的なもの、よくないものとして意識されてゆくに伴い、その煮詰まり具合の照り返しのようにして、「学校」でないもの、「学校」とは見せかけにせよ対極のありかたをするようなもの、が過剰に輝かしいものとして、たとえば〈自由〉や〈個性〉といった表象を身にまつわらせながら立ち現われてくる。八〇年代初めあたりから、そのような「学校のようで学校でない〈自由〉」を実現する場として予備校は世間の幻想を凝集するものになっていった。

 だから当時、同じ「センセイ」でも予備校の「センセイ」は、ちょっとしたヒーローのようなところもないではなかった。受験技術という明快な実効性一発の仕事で、しかも場合によっては生徒たちが一律に価値を与えられている大学に近い〈自由〉な“知性”の雰囲気をふりまくこともできる。それまで「学校」神話に覆い隠されてきていた“ちょっと特殊なサービス業”としての教師の、その仕事としての本質の部分をむき出しにして構わないような場所として、予備校は「センセイ」意識そのものにとっても解放だったはずだし、生徒たちの側からしても、それまでの義務教育の過程や高校で刷り込まれてきた「センセイ」とはまた別の「センセイ」のありようをおおっぴらに当て込んでいい場所でもあった。そして、その当て込みが教員室にたむろしていた「センセイ」意識に、時に予期せぬターボをかけもしたのだ。