河童、焼跡闇市を跋扈す

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  敗戦直後、昭和二十年代というのは、どうも河童の跋扈した時期だったらしい。

  まず、美空ひばりの、確かデビュー曲が『河童ブギ』。今ではCDにも収められていると思うが、少し前まではよほどのマニアでもなければ知らない曲だった。もっとも、今聴いても騒がしいだけで、何だかよくわからない歌ではある。

 『麦と兵隊』他、一連の兵隊ものなどで戦前から活躍していた作家の火野葦平も河童が大好きで、屏風や色紙に自ら河童の絵を描いたものがいくつも残っている。彼の生まれた北九州若松にある記念館にも展示されているが、どうしてこのように河童に入れ上げたものか、文学研究の方面でもただ“好きだったから”という以上の説明はされていない。
清水崑の漫画『かっぱ川太郎』が人気を博したのもこの頃。今、日本酒の「黄桜」の広告に「かっぱっぱ、かっぱっぱ、かっぱ黄桜かっぱっぱ」のCMソングと共に出てくるあの夫婦もの(だろう、きっと)の河童だ。もっとも今の黄桜河童は清水さんの没後、小島功さんが引き継いで描いているもので、妙に色っぽいものになっているが、しかし、清水さんの描く先代女河童も、当時としてはなかなか色気あるものだったらしい。

 その清水河童に文句をつけた学者がいる。他でもない、わが民俗学大親柳田国男だ。

「じつはこの間漫画家の清水崑君に会ったとき「清水君、君は悪いことをしてゐるね、白い女河童なんか描いて、河童をたうとうエロチックなものにしてしまって……。河童に性別はないはずだよ」といふと「いや議論をするとなかなか長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまった。河童といふ言葉は川童でもともと川の子供といふことなのだから、男女があってはをかしいのではないかと思ふ。しかし九州などには河童が婿入りいたなどといふ話もあるが、大体において性的な問題はないやうに思ふ。」――柳田国夫『故郷七十年』  

 河童についての研究は、大正初期に当の柳田が手をつけてこのかた、民俗学方面には山ほど蓄積がある。まず、同じ河童でも地方によって呼び方が違った。大きく分類すると、カワッパ、カワトノ、カワランベといった系統と、ミヅチ、メドチ、ミヅシンといった系統のふた通りがあり、柳田によれば後者の系統の方がより古い言い方だという。カワというのはもともと人々が住んでいるムラのそば、暮らしに使う水を汲む場所を指し示す言葉で、今僕たちが抱くような河童のイメージはそのカワと、ワラベなど子供を表す言葉とが結びついて少しずつ作り上げられていったらしい。つまり、カワに棲むワラベ、なのだ。

 では、どうして水場と子供とが結びついたのか。さまざまな解釈がこれまでにもされているけれども、ひとつ僕が気になっているのは、水子のことだ。生まれた子供が全て育つようになったのは日本でもごく最近のことで、民俗社会での堕胎や間引きは珍しいことでもなかったと言われている。水まわりがそのようなこの世に生まれることのできなかった、望まれなかった子供とまつわって人々の意識の中に刻み込まれ、堆積していたらしいことは、ひとつ考えておいていいのでは、と思っている。その他、比較文化論的視点からは、戦後この国に文化人類学を定着させることに尽力した石田英一郎の『河童駒引考』という労作もあるが、残念ながら余裕がない。最後にひとつだけ、ちょっと妙な事例を。


 やはり優れた民俗学者で、終生柳田に師事した折口信夫という人がいた。彼が戦後のある時、どこかで古びた河童の木像を貰うか買うかしてきた。その後、彼のいた国学院大学の研究室ではその河童像を祭る「河童祭り」というのがずっと行われているという。コンペイトウなど菓子の類を供えるのが作法らしく、「苦しかった戦争中と戦後の時期をしのんで」てな説明になっていたようだが、こういう儀礼ものにまつわる解釈の常で、もともとどんな理由で河童を祭るようになったのかは、この話をしてくれた国学院出身の民俗学者にもすでによくわからないようだった。民俗学者自身が民俗学の対象になるのだから笑えない。もっともこの折口信夫センセイ、弟子のカマを堀り、コカイン吸ってハイになって原稿を書いていたというなかなかファンキーな御仁で、一部で熱狂的ファンのいる「死者の書」など、もしかしたらラリッて読まないことにはほんとのところはわからないのでは、と思ったりするくらいブッ飛んだ代物。他でもない敗戦の日には「日本の神が負けた」と身も世もなく嘆いてもいる。そんな彼のこと、明日の暮らしもおぼつかない焼跡闇市の時代に、単なる思いつきや酔狂で煤けた河童の木像を抱えてノコノコ研究室に帰ってきたとは思えないのだが。

*1:映画『河童』(1994年)のプログラム用に依頼された。