大学「改革」待ったなし?

 大学の「改革」が、いよいよどこも“待ったなし”になってきている。

 ところが、いろんな大学の事情を耳にすればするほど、何をどのように「改革」してゆくのか、「改革」の方向性がどのように意思決定されてゆき、どのように実行に移されてゆくのか、その間のプロセスというのが不明瞭で、当惑している教員たちが多い。内容についての議論が紛糾するならまだしも、はるかそれ以前に、まずその間の手続きを踏んでゆくことについての不信感が大学の中に覆い難く蔓延していて、それが事態を膠着させる大きな要因になっている。

 「改革」に積極的な側はなるべく“民主的な”議論の場にかけないようにするし、横目で見ている側は例によって無関心を装うか、さもなければかつての学生運動ノリの「反対」を叫び続けるだけだし、何にせよここらへんはいわゆる新・保守主義的心情を支える「どうせ話し合ってもロクなことになりゃしないんだしさ」という気分のもたらす頽廃にも通底している。

 一般企業と同じく、今や四十代のいわゆる団塊の世代にあたる教員たちが、自らの職場である大学の将来に対して責任を負わねばならない位置にさしかかっているのだが、話し合いや議論に対する信頼感と不信感とが、彼らのうちにアンビバレンツに共存していて、それが余計に事態をこじらせる。とにかく声をあげ続けねばならない、という素朴な反対派。けれども、どこにどう力を集中すれば状況をひっくり返せるのかが見えない以上、手の出しようがないという穏当派。個人としては不信感が、公的な文脈では信頼感が、手のひらを返したように交互現われ、まわりはとまどう。

 おめぇの職場はどうなんだ、って? はいな、普通の大学と違い、自治権のない大学共同利用機関というのは基本的に事務屋官僚の思いのまま鼻ッ面を引き回されることになる、こりゃ国会で政治家が官僚にナメられるのと同じ構図なんだな、とつくづく思い知ってるような次第ですわ、はい。