鳩山由紀夫=近衛文麿、説

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「現在が一つの「転形期」であるという切迫した認識は、昭和10年代をつらぬく思想の核心部分でもあった。そして、その意識の一般化を媒介したものは、ここでもやはり普遍史の理念をつたえたマルクス主義にほかならなかった。」
          ――橋川文三昭和10年代の思想」



 何かの再演、になりそうなことは、どうやら間違いないようです。それも、初演時に比べれば相当に劣化、にわかには直視できないような醜悪なシロモノとして。

 何度も繰り返しコピー&ペーストをかけられ、すでに元の絵が何だったのかわからないくらいグダグダになったデジタル画像のようなもの。はっきり局所にだけモザイクかけられたエロ画像よりも使えない。あるいは、どこが芸なのかすでに出自不明になってしまったいまどきの自称「お笑い」のやりきれなさ、とか。

 民主党とその周辺が今回の衆院総選挙を介して隆起させつつある現実、のことです。

 既存のもの、と、そうでない何か新しいもの、という対立構図で「政治」が律動してゆくようになっている以上、役者や筋書きが多少変わっても、本質的に提示されるモティーフは同じこと。「民意」とは、昨今そのようなモティーフに向かってなだれ込んでゆくものになっています。

 いつ頃からこの演目は定番になっていったのか。さかのぼれば、「郵政民営化」が争点になった前回の衆院選、いまや諸悪の根源の如く語られるようにもなった小泉内閣の「構造改革」から、細川内閣から村山内閣に至る流れの源流となった日本新党新生党新党さきがけなどの「新党ブーム」、土井たか子の率いていたなつかしの社会党が発作的に大勝した「マドンナ旋風」などを飛び石のように経由しつつ、今から20年ほど前、「戦後」がそのかたちを崩し始めた90年前後の時期に収斂してゆきます。上演としての「政治」という視線で見たならば、今回の衆院総選挙の帰結というのは、数字として実体としてどのようなものであれ、ことの本質としてはそういうことです。

 そしてそれらは、さらに視線を遠くに投げてみるなら、はるか戦前は昭和初年、満州事変前後から近衛内閣あたりの時期にもゆっくりと合焦してゆく。大衆社会化がそれまでと違う規模、広がりで現実のものになり始めるほど、情報環境が大きく変わり始めていた節目の時期、「改造」と「革命」とが共に同じ熱っぽさで〈リアル〉をはらんでいった過程に、21世紀初頭の〈いま・ここ〉、「戦後」の終焉の最終章の現在が重ね焼きのように見え始めている、そんな印象が避けがたくあります。

 こういう言い方をすると、「歴史は繰り返す」というありがちなもの言いを想起されるかも知れません。でも、それは違う。歴史は繰り返さない。少なくともそのように巷間言われるほど単純には。

 それは、何かというと「軍靴の音が聞こえる」だの、「あの暗い戦前の時代が」だのといった、いつしか定番になってしまっている陳腐なもの言いと同じこと。目の前で実際に起こっていることにあらかじめ不自由なフィルターをかけて元も子もなくしてしまう手癖というのは、しょせんは口舌の徒、考えなしにものを言う学者や評論家といったインテリ渡世につきものでしたが、いまや情報環境の変貌と共にそれは日々劣化しつつ蔓延、テレビから新聞、雑誌に至るメディアの舞台を流通するルーティンと化しているのはもちろん、ネットを介してそこらのシロウト、名もない市井の徒までが頼まれもしないのに日々得意気に垂れ流すもの言いの雛型にもなっている。そんな意味で愚鈍に「繰り返す」歴史など、ありはしません。

 歴史は常に一回性でしかない、できごととしては。いまさら言うまでもないことです。

 ただし、個々のそれらできごとを支える背景やからくり、同時代にどうしようもなくからみつくあれやこれやのしがらみの相関が、あり方として共通している度合いが高いならば、たとえ個々に異なるできごとは互いに全く別の一回性のものであっても、できごととそれをめぐる構造にはある一定の連関、方程式が成り立つ場合があり得る。基本的に同じモティーフで、しかし上演の現れとしてはさまざまに現前化し、ヴァリエーションをはらんで多様化してゆく民話のように。フォークロアとしての「歴史」、というこの視点からは、同じ目の前のできごともまた、少し別の様相を呈してくれます。もちろん、「政治」をめぐる現実も、また。

 それは、過去を雛型にして〈いま・ここ〉を解釈し意味づけてゆこうとしてしまう、ことばと文化に囲繞されたけったいなイキモノであるしかない、われら人間ならではの、ある種「業」みたいなものでもあるでしょう。そんなわれらの現実認識の準拠枠としての「歴史」、というのが、ならばさて、どのようにつくられてきたのか、そして〈いま・ここ〉に至っているのか、というあたりのことも、こういう時代、こういう状況に立ち至っているからこそ、少し静かに、共に省みてもいいようなものになっているはずです。


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 現在、8月18日夜。30日投票の衆院総選挙へ向けての実際の選挙戦が始まったいま、テレビや新聞、週刊誌に月刊誌、果ては昨今のこととてウェブ上のサイトなどまで含めて各種雑多なメディアの舞台に、一気に露出が激増している民主党代表、鳩山由紀夫のあのツラをこのところずっと意識的に眺めています。今述べたような意味での「歴史」というやつを肴にしみじみと、しかし意識の焦点をそのような重ね焼きに寄り添わせながら。

 思い起こされるのは、近衛のツラ、そう、あの近衛文磨、です。

 近衛文磨、近現代史を俯瞰する時、少なくとも学校の枠内でそれらを刷り込まれんとする際に、決して表立って記憶されるキャラクターではない。表舞台で勇躍するのは東条英機であり、石原莞爾であり、北一輝でした。あるいはまた、山本五十六であり、広田弘毅であり、松岡洋右であり、とにかくそういうキャラ立ちのくっきりした人物たち。それに対して、近衛というのは実におもしろくない、情けないキャラでしかなかった。近年、そんな近衛と彼の行った政治についてさまざまな角度から別の分析や評価が加えられるようになっていますが、それはまた別の話。

 「歴史」とは、世間一般の共有するイメージとしての近現代史とはそういうもの、でした。〈いま・ここ〉に連なるということになっている「戦後」とくっきり線引きされ、その意味では全く別の世界として認識させられていた「戦前」とは、そんなキャラクターたちによって描き出されるこれまでのニッポン、でした。

 そんな地味で冴えないキャラとしての近衛文磨を形成していた要素のひとつが、ご存じの通り、白樺派に象徴される大正期リベラリズム教養主義。その中にはマルキシズム、平たく言って左翼思想というやつも重要な調味料として配合されていました。ただし、骨太で輪郭確かな「思想」として「個」によって制御されるものでは必ずしもなく、単なる意匠、記号としてさまざまに通俗化していった果てのファッションアイテムという意味で。その限りで、後の日本浪漫派とも心性において、ことばと実存との肉離れを放置したままうっとりと自閉してゆく「悪魔的破廉恥」のあり方について、どこか通底しています。「時代」であり、その中に生きた「世代」であることは、そのような広がりをまず認識した上で初めて、〈いま・ここ〉に本当に役立ってゆくような解釈や意味づけと共に再度、眼前に提示され直してゆくしかない。

 とは言え、「政治」の舞台で近衛に擬されることが実際にあったのは、少し前までなら、細川護煕でした。

 近衛の近親というやんごとない出自の、茫洋とした顔つきとうつろな眼つきで「改革」を旗印に登場、わずか八ヶ月で最後はあっさり政権を放り出してその後隠遁した、あの「殿様」首相。いまや焼きもの三昧の日々だそうですが、さすが中世以来の公家の血統、御輿に担がれラッパを吹きまくったあげくのここ一番の逃げ足だけはお家芸、鮮やかなものでした。他でもないこの御仁が、当時「政治改革」をスローガンに、小沢一郎と手を組んで現行の小選挙区比例代表並立制へと選挙制度をいじくった張本人だったことを、さて今、どれだけの人が覚えているのでしょうか。

 やっぱり公家だ、信用できない、身体を張って何かをなしとげようという気構えに欠けて最後はとっとと逃げ出した――あの細川内閣の顛末は当時、そのような「近衛」キャラを下敷きに解釈され、納得されたものでした。

 当時90年代初頭、なるほど今と同様、既存の政党政治への根深い不信感はすでに広まっていました。それは当時「55年体制」と呼ばれた自民党社会党という対立構造を前提にした「政治」だったわけですが、その構造から逃れられるような気配や雰囲気を持った人物、団体ならば、その頃、ほぼ何でもありに良いものとして印象づけられるようになっていました。そのありようは、昨今のメディアと地続きでしたし、その延長線上に後の村山内閣も、そしてかの小泉内閣までも現前化していった。

 そのココロは、「これまでの政治じゃない何ものか」。「改革」であり「新しい風」であり「一党支配の打破」であり、そして「政権交代」であり、もの言いは何であれ、そのようなこれまでと違う記号が「政治」の上演において最重要の旗印になり続けている状況というのは、この時期にはっきりとその輪郭を現わし、今もなお連続しています。ワンフレーズポリティクス、などということが一時期、小泉内閣当時の「郵政民営化」に関して言われましたが、単にフレーズではなく、それらを構造の水準で支えているモティーフの連続こそが、「政治」の位相で起こっていたことの本質でした。

 ずっと基調音として鳴り響いている、既存のものと、そうでないもの、の相克。なるほど、「改造」と「革命」から「東亜新秩序」そして「新体制」が旗印になっていった戦前とは、そのような意味において相似ているかも知れない。ならば、その「既存のもの」がどのようによくないか、否定するにせよどういう方向で否定するのか、などもまた考慮されるべきでしょうが、しかし、マスの水準で通俗的理解になめされてゆくしかない大衆社会状況での「政治」の過程ではそれはよしなしごと、かくて民話として、フォークロアとして「政治」の上演は相も変わらず続けられています。

 その結果としての、何度めかの再演がいま、眼の前で幕を開けようとしている。ただし、これまでよりもその舞台まわりを取り巻くあれこれは、別の要素をはらんでもいるらしい。この先、われら草莽の観客が意識しておかねばならないのは、そのような上演そのものの陳腐さ、やりきれなさではなく、むしろその「これまでと違う」部分、決して単純に繰り返すはずのない歴史にまつわってくる微細な事情、の部分です。


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 鳩山由紀夫民主党代表。1947年生まれ。

 昭和22年ですから、世代的には、いわゆる「団塊の世代」の真っ只中。現在62歳。昭和15年生まれの麻生太郎首相とは、わずか七つ違いとは言え「世代」が違う。同い年にはビートたけし星野仙一沢木耕太郎西田敏行、森進一などが。一方、麻生はというと、王貞治立花隆大鵬浅丘ルリ子などと同い年。

 いまのこの時点で彼が民主党代表になっているのは、これまでの経緯を見てもほんとにたまたま、偶然でしかない。しかし、偶然もまたある種の必然の複合の上に成り立っているとしたら、眼前のこの「民主党的なるもの」を象徴する位置に彼がいるのもまた、何らかの意味をはらんだできごと、かも知れません。

 改めて、民主党マニフェストなどから、その掲げる「政策」のポイントをさらってみます。

 「アジアとの共生」⇒東アジア共同体論へ
 「脱官僚」層
 「地方分権」⇒道州制
 「人権擁護」
 「国際協調」⇒自衛隊海外派遣から「国連」軍へ?

 これらが政策として相互にどのような関連づけがされるのか、具体的にどのように実行し得るのか、それらの細部がほぼ触れられないまま。何より、党自体が言わばガラクタの寄り合い所帯。「混成部隊、といえば聞こえはいいが、要はつぎはぎ、それも同じクルマの部品ならばまだしも、船や飛行機、工作機械や農機具、なんだかよくわからないガラクタに至るまで、元の素性も定かでないパーツがひと山いくらになっているようなもの。どう組み合わせてみたところで、まともにうまく動いてくれそうな気配はない。(…) もちろん、自覚的にそうなったわけではない。おそらくご本人たちも居心地悪いまま、互いになんだかなあ、と思いながら「民主党」という看板を掲げてみている、その程度」(2002年の拙稿「     」より) であることは現状、全く解消されていません。

 支持基盤も中核には日教組自治労も含めた「労組」系残滓がしつこくまつわっていて、それ自体が「戦後」で「昭和」な「政治」のレガシーシステム。さらに「故人献金」の一件などでささやかれる特亜系外国勢力からの影響や、少し前の「永田偽メール事件」に見られるような「陰謀史観」系想像力がうっかり刺激されてしまう組織の気質、など、まさにツッコミどころは満載なわけで、また何より、代表である鳩山の語ることばの空虚さ、ひいては「民主党」という表象に関して流出し、拡散しているもの言いの重量感、現実感覚の希薄さは、すでにある程度の共通認識として織り込まれています。

 だから、「無党派層」は、鳩山と民主党に熱狂して支持にまわるわけではない。少なくとも、ある時期からこっち「無党派層」とひとくくりにされてきたような〈いま・ここ〉のマジョリティの気分にとって、いま、投票行動として「民主党」を選択する感性の根っこにあるのは、鳩山由紀夫というキャラクターへの熱狂でもなければ、その背後にあるとされている民主党という政党への信頼でもないことは確かです。

 にも関わらず、そんな民主党に票が集まってしまうのは、いまの政治状況に巣くっている「民主党的なるもの」としか言いようのないシロモノ、が介在してのことだとにらんでいます。それは「空気」であり「気分」であり、どのような意味でも日常のことばとして言語化されて共有されるような可能性の薄いものですが、しかしだからこそ、始末が悪い。

 それはある部分、「政治」に内包されている「世代性」の問題にも関わってきます。およそ50歳前後から下は40代いっぱいくらいを焦点にした「気分」の広がりがある関数によって凝集している部分が、これら「民主党的なるもの」を支えています。鳩山由紀夫であれ小沢一郎であれ菅直人であれ、それら表向きの「顔」が何であれ、ひとまずその構造は変わらない。ただし、同時に注意しておかねばならないのは、構造は変わらないにせよ、「顔」が変わることによってその構造が世論に作用する力点のかけ方が微妙に変わってくる、ということでしょう。


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 ただし、鳩山と「民主党的なるもの」の現在をこのように勘案するに際して、近衛が政治家として生きたかつての昭和10年代とも、ついこの間の細川内閣の90年代前半とも、背景となる時代のあり方が違うものになっている、という事情もあります。先に述べたような意味での「歴史」を現前化する仕掛けの変数が、大きく変わっている。

 たとえば、ひとつあげるならば、「貴種」に対する仰角の視線がこれまでにないくらいに減衰していること。「貴族」や「育ちの良さ」、「いい家のボンボン」といった属性がそれ自体としてプラスに作用するような前提が、今の情報環境では希薄になっています。

 属性だけならば、麻生首相も負けず劣らず「貴種」のはずですが、同じくここでもそれが必ずしもプラスに作用していないのを見ても、それは明らか。かつての近衛や細川に関してまつわっていたような「貴種」であること自体への無条件のリスペクトは、観客である世間の側にはもはやカウントしなくてもいい程度にしか共有されていません。あるいはそれは、「皇室」への感情のあり方の変遷を補助線にしてもらってもいい。90年代初頭、あの細川内閣が成立し得たのは、ある部分では昭和天皇崩御の直後、まだそのような「貴種」への無条件のリスペクトの感情が、習い性としてわれら日本人のココロに今よりはまだ保たれていた状況だったから、ということもあったかも知れません。

 もうひとつ、もしかしたらこちらの方が案外重要かも、なのですが、何か人前に立つ者の、おのが身体を張って何ものかをなしとげようとする気配の濃淡について、世間の側が一時期よりずっと敏感になってきているらしいこと。違う言い方をすれば、リーダーシップを支える視線の静かな変化、です。80年代、「ポストモダン」状況に浮揚されたことばと身体の肉離れが90年代、さらに進行して極相まで達した時期からしても、それは確かにその後の情報環境の変貌において学習されていったメディアリテラシーの効果かも知れない。美辞麗句を並べ立て、弁舌さわやかにメディアの舞台で語ってみせる選良たちの姿自体が、最も信用のおけないものになってきています。

 ネットを介した「世論」というのがどのように、同時代の情報環境において作用しているのかも重要です。たとえば今回、ネット上の動画共有サイト与野党党首討論がノーカットで放映され、それらを既存のマスコミ報道と見比べることが容易にできるようになったことなどはその好例。それが21世紀の現時点でのわがニッポンの情報環境であり、政権交代民主党大躍進、が規定の事実のように喧伝されるようになればなるほど、いまのこの情報環境に否応なしにさらされ、複数化した価値と視線とに対峙せねばならなくなるのが現実です。それは、たとえ選挙に勝利し、念願の政権交代が実現したとしても、そこから先にさらに厳しいものになってゆきます。

 その一方で、民主党が政権を担うことになった場合を想定して、官僚たちは当然、すでに動き始めているす。それが単なるアクシデント、積極的に望みはしないけれども選挙と民心のからくりにおいてうっかりできあがってしまう、言わば「非常事態」に対する対策、として動いている部分もあれば、しかし同時に、これぞ「天佑」、どのような角度からにせよ自分たちの「野心」を具現化させてゆくための奇貨として、政略的に動いている者たちも間違いなくいるはず。それがどのような固有名詞、どのような身体と共に、何を妄想しながらの行いなのか。かつての「新官僚」、あるいは「革新官僚」などと呼ばれたような官僚組織にはらまれた「世代」の異なる層が、いまの民主党の周辺にどのように配置されているのか。それをわかりやすく報道しようというジャーナリズムが現状、ほぼ皆無である事実はかなり不気味なものです。

 いずれ「政治」というもの言いの内実が、少し前までと比べても、どんどん骨粗鬆症のようなありさまを呈しています。官僚叩きが果たして是か非か、といった議論にしても、官僚組織の末端としての「役人」一般の属性を批判するレヴェルと、少なくとも国策に関わり「政治」の切羽に固有名詞と共に意志を行使し得る立場にいる個別具体の官僚の行いの検証とをひとくくりに語る粗雑さが、もはや堂々とまかり通る始末。メディアと情報環境の変貌が「政治」にどのような力を加えていったのか。ポピュリズムが〈いま・ここ〉でどのような成り立ちを見せ、メディアと情報環境と人心のありようがどういう相関関係を現出しているのか。このような視点が今後、上演としての「政治」を見つめる際にも求められます。

 近い将来、朝鮮半島であれ、東シナ海であれ、どのような形にせよ「有事」と名づけるに値するできごとが、わがニッポンの直近周辺で万一、起こったならば、この「民主党的なるもの」はそれを刺激として、一気に新たな方向にうごめき始めるでしょう。民主党政権で、鳩山内閣でそのような「有事」に直面せねばならなくなった場合、果たしてどういう混乱が現出されるのか。

 「有事」に際して政治的決断を果敢に行う資質を、かつて近衛が有していなかったように、民主党内閣でそんな「有事」に直面せねばならなくなる事態が、今回の「政治」の再演の見せ場にならないことを祈りたいものです。