芸者と女優の間

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 前回、大正初めの大阪で、旦那への自分の気持ちの証しとして小指を切って送りつけた若い芸者、照葉のことを書いた。 文字にしておくということは実にありがたい。この照葉が本名の高岡辰子の名前で書いた『照葉始末書』(昭和四年)という本が残っている。

 そこに書かれた彼女の経歴によれば、明治二十九年四月二十二日生まれ。十二歳の時に大阪・上本町の生家から、芸者屋加賀屋に養女に出される。これは当時の仕込みっ子調達のやり方で、事実上売られたことになる。先の指切り事件の後、大阪から新橋に鞍替えしたが、二十四歳で大阪・北浜の株屋に嫁ぎ、大正九年には夫と共に渡米している。この時に映画関係に知り合いができたらしい。一旦帰国したが、震災後夫の商売が傾いてから再び渡米。現地で活躍していた日本人俳優早川雪州と提携して映画会社を作ろうとしたがこれも失敗し、大正十四年離婚。生活に窮して、松竹蒲田撮影所と女優として契約する。この時の契約金は三年契約で三千円、月給が二百円。看板級でなく大部屋女優だったようだが、それでもかなりの高給である。

 もともと本を読むのが好きだったらしい彼女は、自ら筆をとって女優生活の見聞をつづり、雑誌に買ってもらっている。また、そのような「内幕もの」が雑誌のウリになり始めた時期でもあった。

「近代、遊蕩人間に芸者に魅力がバッタリ地に落ちて(芸者買ひに……)といふ言葉がいつの間にか(女優買いに……)といふやうな言葉に変って、盛んに女優、女優、の声を耳にしますが、(…)角行燈の灯を恋しがる若旦那や、燭台の燈が銀ビラビラに映る舞子の姿が初恋のなやみだったと花柳情緒を語る人が老いて、ゴルフリンクへ洋装美人を携えてスポーツカアを飛ばすことが現代遊蕩児気質の代表的粋の粋だと持て囃される今日、なるほど今時鴬の糞で顔を磨くことを唯一の美顔法だと信じてゐるやうなあの伎、この伎の社会が寂れて、(女優買いに……)の言葉が流行し出してきたのもまんざら根拠のない一時の流行とは考へられなくなってきます。」 

 「女優」とは、ただそれだけで見るに値するもの、カネを払って見物に行くべきもの、だっただけでなく、買いに行くもの、でもあったらしい。

 当時、「女優劇」という言い方もあった。つまり、芝居の中身は問題ではない、とにかく「女優」という名の、不特定多数の視線の前に平然と姿をさらすことが仕事であるような特殊な女がそこにいる、そのことだけで客を呼べたということだ。 なるほど、言われてみれば当時の「女優」は“素人”ではない。松井須磨子は離婚歴あるバツ一、伊沢蘭奢も同様で、そうでなければいわゆる玄人上がり、あと、ごく稀にとんでもないお嬢さまが混じるというようなものだったらしい。

 奥野他見男という人の『赤い顔して女優を待てば』(昭和三年)という小説集に、女優と会った男のこんな独白がある。

「己れは此の女優に逢た度に何うして女優になつたんだらうと思はれる程その人品に惹かされる、学校も都下知名の高女を卒業してゐるのみならず、文に筆蹟に言葉使ひに、あゝ云ふ自堕落な境涯と認められてゐる社会に置くのは気の毒なことだとツクヅク思ふ。」 

 この男の素朴な疑問に、その女優は「私は気儘がしたかつたんですもの」と答え、こう続ける。

「私も最初は家庭の人にならうとは思したけれど、私の見た色んな家庭では男は余りに暴君でした、女は余りに弱いものでした。此*矛盾したことがあるものかと急に厭気がさして女優を志願したのです。」 

 「家庭」の「奥様」が社会的存在としての女性のある基準となってきた、その反照として「女優」像が立ち上がる。そこには「自由」がある、「気儘」がある。「家庭」では横暴な男に尽くす必要もなく、「ずいぶん芸者遊びもしつくして来た人で、もう芸者なんか鼻について興味がなくなった」「立派な紳士」が、自ら「交際を求めて来る」こともある。

「一度さういふ人があたし達と交際するといよいよ芸者遊びが単調で面白くなくなって来るんですって……何ですか芸者と遊んでゐるとどうしてもお客って風な気分がついて回って、それが一番厭何ですつてね……?そこへ行くとあたし達とはほんとうに親いお友達か恋人のやうな自由な気分でいつまで話してゐても厭きないんですって」

 「遊び」とは、ふだんの暮らしと全く別の論理が支配する別の現実であるからこそ輝いていたはずのものが、ここでは逆転している。玄人ではない素人、それも「親しいお友達か恋人」という女性像を求めるような心性が、ある種の男の側に宿り始め、そしてそれに対応するような自意識も女性の中に芽吹き始めていたこと。大正の「芸者買い」と昭和の「女優買い」との間には、静かに考えておかねばならない微妙な落差や亀裂が、まだいくつも「歴史」の淵にひそんいる。