「旦那」と「いろ」と「まぶ」の間――あるいは、日常の“どうでもいい”部分についてのささやかな考察

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 先日、とある人から電話をもらった。
 
 某官庁の財団法人として作られたという団体の、まだ若い研究員だった。「遊び」を対象とした共同研究を組織しているのだけれども、民俗学から見た「遊び」といったことについて何か教えてもらえないだろうか、といった用件だった。できれば一度お会いして、ということなので、お役に立てるかどうかはわからないけど、という断わりをつけながら会った。
 
 この炎天下、こぎれいな格好をきちんとした真面目そうな若い衆だった。大学では文化人類学を勉強していた、就職してまだ四、五年、今の職場には転職でやってきて数年だ、というようなことを自己紹介し、それから彼の属しているその団体の概要についての説明をしてくれた。仕事場の近くの喫茶店、手際良く話を進める彼のたたずまいを眺めながら、ははぁ、こういうのをシンクタンクっていうのかな、とぼんやり思っていた。

 その「遊び」についての共同研究も、いずれどこかの企業の委託研究ということだった。書類を見ても、これまで余暇研究、大衆社会論などの分野で仕事をされてきた、まずは大御所の先生方の名前が並んでいる。ここでひとつ、民俗学の方からも何か寄与してもらえないだろうか、というのが彼の思惑らしかった。

 だが、海外はいざ知らず、わがニッポンの民俗学まわりで「遊び」が正面から取り上げられてきた形跡というのはこれまであまりない。

 いや、全くないわけではないのだけれど、あったとしてもそれは「遊び」と名付けられる瞬間から自動的に「子供」と結び付けられるものだったりする。この国の民俗学の基本的設計図を描いた柳田国男が、かつて「子供」の「遊び」に着目していった過程というのは、長浜功さんら教育学、教育史といった方面から柳田の読み直しをしている人たちの仕事などからもわかるように、社会化の問題や「個」の意識の形成過程の問題といった点も含めた、もっと方法意識に裏打ちされた目算があったものだったようだが、しかし、その「遊び」がなぜ「遊び」であり、またなぜ「子供」なのか、といった部分の根本的な問いかけはその後の民俗学の過程ではきれいに蒸発してしまってきている。

 あるいはもう少し領域を絞れば、古くからあるとされる行事だの儀礼だのお祭りだのを取り扱ういわゆる民俗芸能方面などならば、あるひとつの行事なり儀礼なりが行われてきた理由について、カミサマを遊ばせるために、といった説明はされてきている。もちろん、そこでもなぜ「遊び」であり、その「遊び」はその現地の人々の言葉の体系ではどのような内実を伴っているのか、といった問いは不問に付される。にしても、そのような脈絡で「遊び」という語彙はひとまず民俗学の内側の説明言語に組み込まれてきてはいる。

 あるいは、柳田国男以降の、学問制度としての民俗学の中核を支えてきたところのある社会関係の研究についてもそうだ。たとえば、若者組などにしても、民俗学の文脈では年齢階梯集団という風に呼ばれて杓子定規に機能主義的説明一辺倒で見られてきたようなところがある。もちろんそれはそれで一定のリアリティを持っている。しかしなお、そのような説明から漏れ落ちる部分、たとえば純粋に同じ歳若いみんなと一緒に何かをすることの愉快、とか、もののはずみで御輿を気にいらない家に暴れ込ませてしまう興奮、とか、祭りをダシにどこそこの何とかちゃんとねんごろになれるかも知れないことへの期待、とか、何にせよそういうにまつわって動いている現実については、切り捨てられると言って悪ければ、あらかじめ枠の外に置いておかれるのが、民俗学まわりの作法の常だった。

 で、それは当然と言えば当然なのだ。別に民俗学に限ったことではない。たとえ内実はどうであれ「学問」と呼ばれるような知的探求の営みが、眼の前の現われ、眼前の事実をどのようにうまく説明してゆくかということを眼目にする限り、そのような“どうでもいい”“わけのわからない”部分は、うまく言葉にして説明しにくい、という一点において脇にとりのけておくしかないようなものだ。あるいは、説明できなくはないにしてもそれは決して「客観的」でも「科学的」でもないから採用できない、とか。

 けれども近年、そのようなあらかじめなかったことにされてきた“どうでもいい”“わけのわからない”領域が、ゆっくりと復讐を始めている。僕にはそう思える。
 
 それは、少し言葉を換えれば、まるごとの現実とそれを語る言葉の水準との亀裂が限界にまで達した結果、“眼の前の現実のそんな語り方って、いくらなんでももうあまりに陳腐だよね”という気分によって、言葉の側への不信任が全面的に突きつけられているということでもある。それはひとまず漠然とした気分でしかないけれども、しかし気分という形でしかない分、言葉に責任ある立場の手もと足もとにまで届かないし、届かなければそのような問題が現実に起こり始めていることを言葉の側も気づかないですむ。

 少し前までならば、「遊び」を知的探求の営みの対象とするようなことそのものが意外なことで、それは意外なことである分、ただそれだけで価値もあったりした。「遊び」を「映画」とか「歌謡曲」とか「漫画」とかに置き換えてもいいし、「余暇」とか「レジャー」とかに代えてもいい。あるいはまた、「生活」とか「日常」といった抽象度の高い言葉にとってかわらせても基本的に事情は変わらない。そのような、ゆるやかな意味でのサブ・カルチュア、つまりまさに“どうでもいい”“わけのわからない”部分を対象とする知的探求というのは、一般的に言ってそのような、ただそのような営み自体で何か価値があるような時期がついこの間まで長かったらしい。だから、「学問」方面でそれらの領域に何か言及することのできるような仕事の蓄積を持ってきた人たちというのは、ある時期からこっち、まだそのような落差で価値を作り出すことのできる状況で有効だった方法のモードで無条件に動いている。現に、先のシンクタンクの彼が組織しようとした「遊び」の共同研究に名前を連ねていた大御所の先生方にしても、その仕事の誠実さとは全く別に、仕事をかたちづくってきた言葉というのはそのような“ついこの間までは有効だったはずのモード”に規定されている。

 また一方では、それだけ現実と言葉との間に不用意な距離ができてしまった分、その空隙にさまざまな夾雑物も挿入しやすいという事情もある。八〇年代、みるみるうちに空中楼閣に舞い上がった広告コピーのような文脈で、眼前の事実を語る言葉がその“〈いま・ここ〉であること”を無検証のアリバイにしながら、空虚に使いまわされやすくもなる。

 しかし、今やどうやら事態はそう素朴なものでもなくなってきている。

 そのような自明のモードで、人が生きてある限り当たり前に眼前の事実としてあるそれら“どうでもいい”“わけのわからない”部分に〈いま・ここ〉から発言しようとする時、どうしようもなくズレてしまっていることが、誰にも露骨にわかるようになってきている。

 「学問」の言葉がそれなりにある幸せな囲い込みがされていた状況ならばよかったのだろう。僕や僕の仲間うちはその囲い込み状態を“美しきムラ”と呼び始めているのだが、まさにそのような“ムラ”が曲がりなりにも保証されている間ならば、そのムラの住人たちがムラの言語で、かぼそい山道を通って聞こえてくる賑やかな音楽や、ちらりと垣間見る華やかな着物を語ることだけで、何かムラの中での興奮を確保することはできたろう。けれども、ムラの外の世間を語る、その言葉のありようも、ムラを出て暮らしてゆく人々の経験が蓄積されればされるほど、その蓄積の度合いと蓄積に見合った多様な具体性とに関わって、保証される確かさの水準を変えてゆかざるを得ない。

 「遊び」とか「暮らし」とか「日常」とか「生活」とか、何にせよそういうそれまで“どうでもいい”“わけのわからない”部分とされたきた領域を、しかしそれまで当たり前とされてきた知的探求の言葉のモードによりかかることなく、できる限り〈いま・ここ〉の身の丈でうまく語ろうとすることが今、一番難しいことなのだ。それは、単に「暮らし」が変貌したから、「遊び」が変わったからというだけのことでなく、さらに前提の、そのような現実と対峙すべき言葉のありようこそがどこかで大きく変わりつつある、そんな過渡期だからなのだろう。

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 「遊び」や「暮らし」や「生活」といった現実を語る言葉のモードの過渡期ということを考えるならば、これまで見過ごしてきた何でもない資料をもう一度、そのいつしか違うものになってしまった言葉のモードの違和感の位置から読み直してみる、という作業が案外に利いてくる。パラダイム以前と以降のズレを含み込んだ新たな“読み”を発動するということだ。
 
 たとえば、こういう文章がある。

いろと、まぶと、客いろと、旦那の区別知る人、滅多になし。


身すがらを金に任して、うつりかはりの支度、月々の仕送り、おつき合ひの義理祝儀、そっくりもらふを旦那といひ、ある時はありのすさび、ない時は座敷の入用、出合処の諸がかりのみしりてもらひて、どこやら虫の好く人とて逢ひつづけるを客いろといひ、出合ひの諸がかり一切、七分三分か、五分五分の出し合ひにて、どっちからも惚れた人と、我れもゆるし、朋輩の中にもゆるされたるをいろといひ、いやな旦那のために金ゆゑ自由になってゐる心持のうたてさ、にがい薬を呑んだあとの口なほしとて、そっくり此方からまかなって我が自由にしてゐる男、それをまぶとこそいふなれ。
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 何やら古めかしい文体になっているが、それは趣向であって、文章そのものはそんなに古いものでもない。今から七十年ばかり前、いわゆる芸者と呼ばれる女たちの暮らしについて、新聞記者の眼でつぶさに観察し、その経験をもとにしたエッセイを数多く残した人の文章である。実は、ここ二年ばかり、この人の書き残したものを古本市場などで気がつけば拾い集めるようにしていて、この人自身にも興味がつきなくなっているのだけれども、この場では直接関係ないのでそこらへんは深入りしないでおく。名前だけはご紹介しておこう。平山蘆江という。

  彼のこの文章の中に出てくる「旦那」という存在、何でもないようだが、しかしちょっと考えてみればこれほど奇妙な存在もない。

 芸者をカネで囲う、そのカネを出してやる立場の人間、それはわかる。わかるけれども、しかしそのカネを出してやる側の意識のありよう、ひらたく言えば何が楽しくてそれだけのカネを出すのか、というあたりはよくわからないし、同時にまた、カネを出される側の意識のありようとなると、これはこれでさらに不可解なものだ。そういう稼業が現実にあり、それはもちろん今でもあり得るような稼業なのだけれども、しかしそれが現実に日々の暮らしの真実としてあり続けてきた中には、当然のことながら変遷というのもあるのだろうし、変遷があればその背後の事情というのもあるはずだし、それら諸々の要素をまるごと含み込んだところで言葉本来の意味での「歴史」もあるはずだ。

 けれども、「生活」や「日常」を扱うとされてきた学問の言葉からも、あるいは「歴史」が管轄であると言われたきた方面の言葉からも、このような芸者をめぐる微細な人間関係のありようとその内実についてうまく説明してくれたものは、僕の不勉強かも知れないけれども、これまでのところまず見当らない。外側からの風俗史、輪郭をとらえた文化論ならばいくらでもあるし、それはそれでまた別の蓄積として読み直すこともできる。けれども、それらが生きた眼前の事実としてあった同時代のさまざまな当たり前、わざわざ書きとめられることもなかっただろう常識といった部分も含めて、どうしてそのようなありようがあり得たのか、ということについては、うまく言葉に引き寄せられてはいない。

 敢えて大風呂敷を広げよう。水商売と体育会、このふたつが人間と社会と歴史にまつわる学問の大問題である。それはもう少し具体的に言い換えれば「おんな」の問題と「おとこ」の問題であり、さらにひっくくってしまえば「セクシュアリティ」と「身体」と「力」にまつわるあたりにどんよりとよどんでいる問題である。どのような意味であれ「生活」といったもの言いで言い表される現実を相手取ろうとしなければならないそれらの学問において、きれいになかったことにされてきた領域がこれらだ。

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 この文章、「旦那」にとどまらず、もう少しこだわってみよう。

 冒頭、色街における関係を表現する語彙の四種類は「いろ」「まぶ」「客いろ」「旦那」という順番で紹介されている。これに対して、その後の個々の説明、解説の段では、「旦那」「客いろ」「いろ」「まぶ」という順番になっている。単なる逆転ではなく、「いろ」と「まぶ」の位置関係が微妙にズレている。これは偶然だろうか。

 「旦那」から考えてみよう。文字通りに「身すがらを金に任して」というのだから、あらゆる出費をもってもらい、その代わりに身体を自由にされる、囲われる、それが「旦那」だ、という説明は、なるほどわかりやすい。

 しかしそれもことの一方かも知れないので、たとえばその「身すがら」の内実というのは、いま我々がうっかりと当たり前に考えるようなフィジカルな肉体というだけのことかどうかはわからない。「身すがら」の「身」には、こころと身体の双方の領域が平然と含まれていて、しかもその双方が今の我々が当たり前に考えているような関係で棲み分けられているわけでもない、としたらどうだろう。

 「客いろ」と「いろ」とはそれなりに説明がつく。「客いろ」とは、範疇としてはゼニカネづくの商売でつきあう客なのだけれども、その客の中でも相性のいい客、だからこそ単なる客の範疇を超えるような甘えや信頼もそこに介在し得るし、そのことによってある親密さも商売の論理に反映し得るような、そんな存在。「いろ」は、そこからなお情の論理、こころの領域が前面に出てきて、ということはその分客のつきあい、商売の論理が一応後退した関係になる。なった分、ゼニカネの出費については負担の比率配分はさまざまで、納得づくのつきあい。さらに、「どっちからも惚れた人と、我れもゆるし、朋輩の中にもゆるされたる」という部分がおそらくは重要で、これはそのような玄人の仕事の関係の中で周囲にも認知された関係ということになる。単に個人的に「虫が好く」というだけでなく、ここでは社会的な認知があるのだ。経緯としては客が「客いろ」になることは充分あるし、さらにそこから「いろ」に昇格することもあり得たろう。その意味で、これはどちらも客の範疇にある存在ではあることは言うまでもない。

 むしろ、一番わかりにくいのはそれら「客いろ」「いろ」と、最後にあげられた「まぶ」との関係だろう。「旦那」との関係で「個」のこころの領域が自由にならないフラストレーションからか、むしろ自分が「旦那」になって全てをまかなってやるような男を作る、それが「まぶ」というらしい。ここでは、ゼニカネの論理とこころの論理という、先に触れたような今の我々がともすれば当たり前の前提にしがちな二分法で裁断しようとする図式は、ここに至っていささか乱れてくる。

 ゼニカネの論理が「個」のこころの自由を圧迫し、心ならずもいやな「旦那」にも身を任さねばならないことがある、ということはひとまずわかる。けれども、ならばそのこころの論理を全解放できるような仕掛けが別にあればひとまずそれで安定はし得るわけで、それはここでいう「いろ」になるのではないか。ゼニカネで自由にさせられた「個」の感情はそのような「いろ」で安定するのではないか。こういう具合に考えるのが今の我々にとっては一応納得のゆく説明になるはずだ。だからこそ、たとえば今の我々が一般的に言うような意味での「恋愛」などというもの言いに類するものとして、この「いろ」を考えたりするのだろう。

 しかし、もしかしたらそうでもないかも知れない。その程度に、このような現実をめぐる言葉のパラダイムというのは、深刻な、しかし見えにくい亀裂をすでにはらんでしまっている。ここでは、ゼニカネの論理とこころの論理という、先に触れたような今の我々がともすれば当たり前の前提にしがちな二分法で裁断しようとする図式は、ここに至っていささか乱れてくる。

 なぜなら、「いろ」とは別にさらに「まぶ」がある。「まぶ」においては、どうやらゼニカネの論理をこちらが、つまり女性の側から行使してみせることが眼目らしい。単にゼニカネの論理によって圧迫され抑圧された「個」のこころの領域を解放することが目的だというならば、自らの気持ちを最優先させ、なおかつ自分の生きる社会の範囲にも認めてらえる関係である「いろ」でそれは充分なはずだ。なのに、それとはひとまず別のところに、ゼニカネだけで律せられる「まぶ」の関係をなお必要とするというのは、さて、どう考えたらいいのだろう。

 今の我々の解釈の枠組みとして、ゼニカネとこころの二分法が当たり前のように成立しているのは、「個」のこころ、人の内面というものはそれ自体として前提抜きに存在するものであり、そのような「個」の外側の現実を等しく律しているものとしてのゼニカネの論理とは常に対抗的なものとして想定されている。だからこそ、ゼニカネでこころが圧迫されるような「旦那」の関係と対極にあるようなものとして、それらのこころがゼニカネ抜きで解放されるような関係を想定する。で、まさにそれは「いろ」だったりするように見えるのだけれども、しかし、そのような二分法だけに依拠する限り、さらにもうひとつ外側につけ加わる「まぶ」の存在はうまく説明できない。

 もしかしたら、こころは独裁ではなかったりする。ゼニカネの論理で象徴される世間のありようから自由な、それ自体として独立した不可触の聖域としての「個」の内面などという発想は、つい最近までなかったのかも知れない。とすれば、世渡りの前提としてのゼニカネの論理、おのれの身ひとつを支えてゆく上で逃れようのないそのようなリアリズムを当たり前にして後に、初めて「個」のこころというものも存在することになる。それらを抜きにして、あらゆる関係からも自由な、全く宙ぶらりんのところに存在する「個」など想定のしようがない。だから、商売としてつきあうこと以外に、彼女たち芸者にとっての「個」は存在しようもなかったものかも知れない。もちろん、客の側からすれば、そのような商売の論理の向こう側、ゼニカネとは別のつきあいという奴を厚かましくも妄想し、欲望してゆく過程というのもあったのだろうけれども、それはまた別の話だ。

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 こういう例もある。

いやな奴だが金の為めですお互ひに我慢をしませう、と相談づくで女には旦那といふものが出来たり。


尤も、看板借りといふ勤め方なれば、女も男も実は花柳地に近いある家に二階借りをしてありけるが、女に旦那が出来て以来、兎角女のかへり遅く、二時三時に及ぶことのみなるにぞ男はさすがにぢりぢりして、三度に一度は厭味の一つもいひけり。


旦那は金ゆゑのものなれば粗末に扱かふほど金を運んでくれる、色はなさけでつながってゐるなれば、大事にせねばお互ひの心がはなれやすきぞかしなど少しはひがみもまぢりて、男は打ちかこつめり。
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 これは、あらかじめゼニカネ抜きの「個」のこころの領域で対峙し得るような関係をもっていたはずの男と女に、「旦那」が介在してくる過程の葛藤を描いている。もっとも、どちらもいわゆる素人ではないはずだが、それでも、「色はなさけでつながってゐる」というあたり、この「なさけ」が「金」と対抗的な論理のきづなとして想定されていることはわかる。では、この「なさけ」が今の我々が考えてしまうような「こころ」や「気持ち」とそのままきれいに重なるようなものだったか、というとそれもまた、慎重な留保は必要になってくる。

相手の顔も見ぬ中から、転びにゆく芸者を見ず転とは誰がいひそめけん、夜毎にのみか、日に三度も五度もかはる枕の、大事な操といふものを雪駄の革と踏みにじらして、張三李四のわきまへもなく中から、縁あればこそ、どこやら忘れられぬ男よと、忘れがてに、二度が三度と、逢ふ度に増してゆく人情、男の方でも好きなればこそ通ひつめし揚句は、どこでどう工面したものか、前借といふものもすっかり払ってやらう、あしたからは身ままのからだにしてやるほどに、さて、めかけとなるか、芸者のままで看板を持つか、お前の好きなやうにしてやらうと嬉しい筈の口上、二言といはせず、「何ぞよろしく」といふかと思へば、女は打ちしほれてややしばし返事もせず、身にあまる事ながら、どっちもいやです、只このままにさしておいて、いつまでも通って下さいといふ。


「あの人がいやではなかった筈だが」と、出先の内儀の不審顔せるに、「いやどころか、好きで好きでたまらふほどのお方です」といふ。


「好きなものが、どうして二の足を踏むのさ」とおしかへせば、「好きなればこそ、あの人を旦那にして、金をつかはせるのがいやなの」と――ここらの芸者人情ただ人にはちょっと判るまじ。*4

 「好き」はもちろん「なさけ」の領域に属する感情ではあり得るだろう。しかし、それはそのまま直ちに「個」の輪郭をくっきりと浮かび上がらせるようには作動するとは限わらない。自分が存在する前提にある商売の論理、ゼニカネがらみの関係のありようを当たり前のものとして受容する限りにおいて、「好き」は「好き」であるがゆえに、そのような当たり前と直結してしまうことを避ける性癖を持ったりもするし、その避けた結果保証されるまた別の自由、もうひとつの「個」のこころの裁量範囲が切実なものになったりもする。ただし、しつこいようだが、それは先に延べたようなゼニカネとこころとの二分法的な図式の上にそのまま立つものでもない。「このままにさしおいて、いつまでも通って下さい」という一言に込められていたかも知れない、人間と社会にまつわるさまざまな内実の可能性というのは、すでに眼前の事実からも遊離してしまったらしい言葉のモードをそのままにした場所から読んでいる限り、どのような開かれ方もしてゆかないようになっているのだ。

久しい間、客いろといふ関係にて、少々逢ひつづけし男、「お前とも、しばらく逢へない」と、だしぬけにいふを、「どういふわけで」と聞けば、「商売が思ふやうにならないのだ」といふ。


「一体どんな手ちがひが出来ました」


「いや、金ならわずか三百円ぐらゐだが、義理のわるい小切手の不渡りゆゑ」


「まァたった三百円、それで済むなら妾何とか都合をつけますわ」と、ありもせぬつくり事して女に金を用立てさせしを、さりとはむごいと、ある人にいひしに、「なァに、たまにはああして、女に金をつぎ込ませて置かなけあ、長つづきはしないものさ」といふ男のたて前、その辺は芸者人情と素人の人情とにかはりはあるまじとぞ。
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*1:例によって初出失念……確認でき次第また後日 ※170708

*2:平山蘆江「いろとまぶと、」『左り褄人情』岡倉書房 一九三五年 p.四。

*3:平山蘆江「路地の人影」『三味線情趣』岡倉書房 一九三五年 p.八七。

*4:平山蘆江、註(1)に同じ、p.五。

*5:平山蘆江、註(1)に同じ、p.六。