「つぶす」側の覚悟とは?

 地に怨嗟が充ち満ちるようになっています。敢えておおげさに言えばそんな感じです。例の厚労省事務次官に対する「襲撃」事件のこと? いやいや、直接それとは関係ない、この場はもちろん競馬の話です。ですが、でも同じ〈いま・ここ〉のできごとのこと、まわりまわってどこかで根深い関わりがあったりもするのかも知れませんけれども。

 何に、あるいは誰に対するうらみごとなのかは必ずしもはっきりわかってなかったりする。でも、この先いったいどうなってしまうんだろう、という不安と、その不安のよってきたるところが相も変わらず全く見えない、わからないことからくる言いしれぬ憤りだけは誰もがもうずっと抱え込んできているし、その分それは発酵して別のものになったりもしています。

 もう競馬はダメかも知れないなあ――真顔でそう口に出して言う関係者がこのところ、牧場でも、競馬場の厩舎でも、主催者の事務所でも、もちろん獣医やテツ屋さん、出入り業者の馬運車や馬糧屋さんなどとの立ち話程度に至るまで、とにかく今のニッポン競馬に仕事として携わらざるを得ない現場ならばどこにでも、普通にいるようになっています。先に述べた「怨嗟」のもって行き先がはっきりわかりにくい分、そんな言い方にしかならない、そういうことなんだろう、と思っています。

 JRAに関しては今もまだひとまず別、なのでしょう。言うまでもない。自分たちの仕事の場がこの先どうなってゆくのか、そんな不安を身にしみて考えることなど、まずあるわけがない。いままでもそうだったし、いまこの状況においてもなお、しょせんひとごと、であり続けるのでしょう。

 テレビの広告収入が軒並み激減、民放キー局がどこも赤字計上をし始めている、という報道も出ています。大手日刊紙でさえ、売り上げ減少が止まらず、ここにきてのサブプライムショックもあいまって馬鹿にならない額の赤字を出すようになっている。まるで「不沈艦」のように語られてきた「マスコミ」界隈でも、不気味な兆候は間違いなく出始めています。

 ただ、それらは図体が大きい分、その中にいる者たちそれぞれにとってはその不安が具体的なものとして感じられないようになっているらしい。業界全体としては確かにあちこち浸水し始めていて、傾き始めているのはわかるけれども、でもいまの自分のいる場所は昨日と同じようにまわっているし、日々の風景は全く変わりないんだから、まあ、いいや――そんな程度で普通はやりすごしてゆくらしい。何より、自分ひとりやきもきしてジタバタしたってこんな大きな業界のこと、動かそうったって動かせるもんじゃないし、それはどこかの誰かエラい人の仕事なんだし――そんな感覚も同時にあるんでしょう。

 けれども、そのどこかのエラい人たち、というのが確かに存在するとして、その彼らもまた、われわれと同じように人ごとの感覚でいるのだとしたら? とりあえず自分の日々の暮らしさえ無事ならまあいいや、知ったこっちゃない、と腹の中で思っているのだとしたら? 第一、自分たちは別のこの業界、この仕事がダメになったところで食いっぱぐれることは絶対ないんだし、と多寡をくくってさえいるのだとしたら?

 以前、例によって理不尽なつぶされ方をした小さな競馬場で、いよいよ状況が押し詰まり、存続へ向けて現場の厩舎関係者の側から打つべき手がなくなって、まさに万策尽きた時期のこと、関係者の団結小屋のような形になっていたたまり場へ、夜、思い詰めた顔をして現場のリーダー格の調教師たちのところやってきた厩務員の若い衆のせりふと顔つきとを、最近またよく思い出すのはなぜでしょうか。

 「黙って“うん”と首振ってください。そしたら、今からひと仕事やっつけてオレ、オトコになってきますから」

 「廃止」の舵取りを事実上していると当時目されていた地元の行政のトップを自宅まで襲いに行く、彼はそういう覚悟でした。あそこの競馬場は結局つぶされたけど、でも最後まで身体張ってスジ通したよな、そう言われたいですから――そうも言っていました。

 誰が指図したのでもない、煽動したり計画したりしたものでも全くない、でもおのずとそういう雰囲気、空気は現場に醸成されていました。暮らしの場が具体的に「追い詰められる」というのはいつの時代、どんな社会でもそういうことです。仕事がなくなるのなら補償が、ゼニカネが、といった水準の話とは、それはまた少し別のところにうっかり立ち上がったりする現実でもあります。たとえ納得のゆくゼニカネをもらったとしても、そういうレベルでの「理解」とはまた別に、心ゆかせが必要となることもある、それが暮らしの場、日々の仕事を奪われるということの〈リアル〉です。

 考えたくありませんが、この年末から年明け、そして年度末の春先にかけて、またいくつか競馬場がつぶれる気配が濃くなってきたように思います。競馬に責任のあるエラい人たち、の側もまた仕事の論理があり、くださねばならない判断というのも、まあ、あるのでしょう。それもまた世の中です。

 ただ、間違いなく言っておかねばならないことは、たとえいくら補償を積み、美辞麗句を並べて「処理」をしようとしても、他に逃げ場のない、競馬でしか食ってゆくすべのない人たちにとって、競馬場がなくなるということの意味は、エラい人たちの仕事の論理をうっかり超えた現実を引き出したりするものらしい、そのことです。生半可な覚悟でつぶしにかかったりしたら、どういうことになるか、いまこういう時代、こういう状況だからこそ、深く懸念しています。