新書市場の拡大と好調に引きずられたのか、かつての文庫のラインナップからピックアップしたものを、新たに新書版に仕立て直したシリーズを「クラシックス」と称してスタートされた中央公論。読売に身売りしてからの再建は紆余曲折あるようだけれども、このシリーズは企画としていいものだと思う。
ホイジンガだのマキアヴェリだのデカルトだのレヴィ=ストロースだのと、甲殻類みてえな舶来の「教養」系で始まっていたところに、出たぞ、「世相篇」だ。
柳田国男の構想した民俗学という名の「同時代史」の具体的な試み。新聞記事からだけで現代史を、という目論見で描き出そうとされた、われらニッポンの性急な近代化の経験は、しかし、こういうたゆとうようなディテールを厖大にはらんだ幅広な歴史的過程でもあった。〈いま・ここ〉に織り込まれた「歴史」への視線は、いまどきの社会史だの歴史人類学だのの能書きのさらに源流へと届いてゆく。どこから読んでもいいが、ただひとつ、本来これは「普通選挙」導入前夜の世相の中で書かれた「良き選挙民」育成という政策的意図を込められた仕事だ、ということを覚えておいて欲しい。皆の衆、民俗学ってのは本来、こんなにも総合政策的(笑)、なのだぞ。
コロナブックス編集部・編『日本を知る105章』(平凡社)
基本は見開き一発でネタが百五本。生け花、インスタントラーメン、日本国憲法、おみくじ、温泉、刺青、自動販売機……それぞれに名のある書き手が四二人割り振られ、いろは順に並べられた構成。ビシッとピントの合ったオシャレな写真に英文との対訳までついているから、視覚デザイン的には、むしろ日本語本文の方がキャプションみてえに本末転倒でも眺められるという寸法。そういうしつらえの中で立ち上がってくる「日本」ってのが、ここでの売り物らしい。
松岡正剛的な、と言えば一番わかりやすいんだろうな。そう、『遊』の遺伝子はこんなところに転生している。書き手のメンツも興味深いぞ。荒俣宏、井上章一、色川大吉、佐高信、竹内宏、鶴見俊輔、橋本治、松田修、山折哲雄、種村季弘になぜか平岡正明……そう、ぶっちゃければ京都学派の土着派ポストモダン残党『太陽』風味、てなところらしいのだ。今なら『サライ』とか『オブラ』とかにも通じる、表象された「日本」。いずれ手練れの書き手揃いだから、コンパクトな随筆集として楽しめると思うけれども、でも、これをかの『東京アンダーグラウンド』みたいにうっかりカンドーして読めちまうようならば、そこのあなた、ちとココロの状態にモンダイあり、かも知れませぬ。
冒頭、真赤な背景に太明朝で刷られたコピーの書き手が知りたいなあ。こういう雰囲気任せのコピーは、新たな日本浪漫派の芽生えを感じさせてくれます、はい。