かつて「残酷」と名づけられてしまった現実

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初版発行は昭和三十四年十一月三十日。僕がこの世に生まれてまだ十ヵ月足らずの頃です。定価三百五十円。この値段のボール紙製箱入り布装五巻本というのは、当時の物価水準からすればけっし安い品物ではなかったはずです。もっとも、今どきの古書市場では、ひと揃いせいぜい二万円前後といったところが相場でしょうか。
まだ「民俗学」という名前にやわらかな夢をいっぱい持てた純朴な大学院生だった頃、いずれどこかの古書店の店先から僕の手もとにやってきたこの五巻のうち、「第一部・貧しき人々のむれ」には、発売当時の帯がついていました。薄いオレンジ色したこの帯に記された惹句は、その裏にある岡本太郎武田泰淳日高六郎の三人の手による推薦文も含め、今となっては苦笑せざるを得ないような、異様に調子の高いざらついたものです。

「きびしい歴史の圧力と風土の宿命のもとに、山に火を放ち、海に漂流民を殺し、生きながらにして老人を山に棄て、からくも生命を意地した人々の生態を、果たして誰が残酷といいきれるだろうか。非情なまでに冷徹なこの書のなかに日本歴史の恥ずべき痛恨があり、日本民族の悲しい慟哭が秘められている――はじめて明らかにされた歴史の谷間!」

「残酷」というもの言いが眼に突きささります。突きささって、根深い違和感を容赦なく誘います。たとえはよくないですが、継子いじめがお約束だった当時の少女向け読物か、さもなければ、かつてそこここにあったと聞かされる小屋がけの見世物の口上のようです。
現実は「残酷」なものである、その現実とは表立って語られることもなかったし、今でも日本の「底辺」や「どん底」や「辺境」にひっそりとくぐもっているものでもある、そのような「裏側の歴史」、隠された現実」を明らかにしてゆくのが学問の、そしてジャーナリズムの社会的使命である――まぁ、ざっとそんな認識が世間にある程度共通の、当たり前のものとしてあった状況でなければ、たとえ宣伝のための惹句としてであれ、こんな高い調子のもの言いが平然と流通していたわけはありません。その意味ではその過剰な大仰さに辟易する、そんな時代遅れの“クサい”本のように、今となっては思えます。
しかし、いかに包み紙が古びていたり、すでに笑うしかないクサい意匠のものになっていたとしても、包まれてある中身までが同じように腐っているとは限りません。この「日本残酷物語」と名づけられてしまったシリーズは、ひとつの商品として見れば、当時得られる限りのかなりいい素材を使って作られていた良心的なものですし、その素材の良さは、ちょっとした作法さえ間違わなければ、三十五年後の現在を生きるわれわれ読者の舌にも充分に味わい、確かめることのできるものです。それらの素材を商品にする時にうっかりと「残酷」と名づけてしまったような、テキストを包み込んでいた同時代の「ことば」の環境をカッコにくくって読むことを読者それぞれが自らに課すならば、それらの素材の良さと共に、テキストそれ自体のはらんでいた本来の可能性もまた〈いま・ここ〉に解き放たれることでしょう。何より、「書かれたもの」を「読む」ことの愉快とは、時にテキストにまつわって分厚く堆積しているそのような桎梏を前向きにほどいてやることでもあるのですから。


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この「残酷」というもの言いへの傾斜は、たとえばヤコペッティの記録映画が『世界残酷物語』といささか無茶な邦題をつけられてヒットした、そんなできごとと同時代のものと考えていいでしょう。そして、その「残酷」のものさしとして、先に触れたような当時の世間にあった当たり前――思い切り刈り込んだ言い方をすれば、戦後の言語空間で大衆化し、通俗化した“左翼”的階級史観――が前提になっているはずです。
別な角度から見ればそれは、よりわかりやすいコピーライティングの言葉、人口に膾炙したもの言いとして、当時“民主的”と言われていたものでもあります。さらにつけ加え れば、すでに「量」の流通系路に流され、乱暴に流布してゆきつつあったその“民主的”というもの言いに引きずられながら、「眼前の事実」を記録する散文の形式のひとつがそれまでの「記録文学」から「ルポルタージュ」ヘとゆっくり装いを変えてゆく、そういう時期にもあたります。
そのような流れの中で、「事実」というもの言いもインフレ化してゆきました。それまでは、この国土の上をただ歩き、見、そこに生きる者たちの言葉に耳傾けていただけだった、その限りでは純朴な旅人に過ぎなかったかも知れないこの国の民俗学徒たちの前に、彼ら彼女らをその「事実」を豊饒に抱えた異人として見る視線がゆっくりと立ち上がり始めます。その背景には、週刊誌ジャーナリズムの誕生があり、それに従って翼を広げ始めた「足でかせぐ」流儀を持つ文字の生産力がありました。「事実」と「マス・コミュニケーション」とがそれまでと違った切実さで、社会と人間を語る者たちの言葉に意識されざるを得なくなってきていました。
そのような中、新たな生産力を獲得していった「足でかせぐ」文字の流儀というのは、「足でかせぐ」ことにおいてはそれまでの民俗学徒たちがやってきた営みと変わらないものだったにせよ、そこで見聞きした素材を使ってある“おはなし”を提示してゆく、その手口についてはそれまでの民俗学とはかなり違うものだったし、さらにそれらを盛りつけてゆく器に至っては彼ら彼女らにまるでなじみのないものだったりもしました。
きだみのるの『きちがい部落』シリーズや、『ノリソダ騒動記』に代表される杉浦民平の一連の作品など、優れた仕事もいくつか出ました。この「残酷」のトーンをさらに“左翼”的に尖鋭にしたものならば、三一書房から出された『現代日本の底辺』という新書版の四巻シリーズもありました。いや、質を問わない「実話」ものの系譜ならば、それ以前、敗戦直後からすでに存在しています。それらいずれ「眼前の事実」を内包する文字の奔流の前に、さしたる方法的自覚のないまま「足でかせぐ」を実直に実践してきていただけの民俗学徒たちが翻弄されたとしても、別に不思議なことではありません。


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宮本常一がキー・パーソンです。
なるほど、「眼前の事実」に正対しようとする構えは、この国の民俗学にとっての初志でもありました。けれども戦後、いや、少なくとも昭和三十年代初め、高度経済成長がある具体的な形を伴って現実に力を及ぼし始めて以降については、そのような「眼前の事実」に対する問題意識は、同じ民俗学者の中の柳田国男直系と言われる人たちよりも、宮本たちの方がよりナイーヴで正直なものでした。
後に七〇年代初め、「足でかせぐ」ことへの過剰な傾きを内包した文字の生産力がこの国を覆い尽くした頃に彼の書いた「調査地被害」(一九七二年 『朝日講座・探検と冒険』第七巻所収 朝日新聞社)というペーパーは、メディアと調査・取材という営みの問題、情報環境と学問の客観性の問題など、人間と社会にまつわる学問領域において近年大きく浮上してきた根本的な問いを提示した、その限りでは先駆的なものです。また、宮本に近い位置にいた桜田勝徳には、「現代における民俗変貌へ対処する立場から」(一九五八年 『日本民俗学体系』第二巻所収 平凡社)という、高度経済成長のとば口にあった民俗学の当惑を率直に示した好エッセイもあります。共に、渋沢敬三との関係が深い人です。
民俗学をめぐる当時の状況を少し述べましょう。戦後、柳田がその私邸を開放し、私財を投じて作った民俗学研究所(昭和三二年に解散)とあいまって、柳田直系の民俗学者たちはそれまでと違った、良くも悪くもアカデミックなスタイルでの総合を目指し始めていました。九学会連合の活動などはそのひとつの象徴的な現われです。
しかし、それらの動きに同調しながらも、ややずれたところに活躍の場を見出だし始めていた人たちもいました。思えば、宮本常一などはその代表と言っていいかも知れません。昨今の社会史ブームの中、とりわけ中世史、近世史方面の研究者を中心に彼の仕事の再評価の波が訪れていて、なるほどそれは民俗学者としてうれしいことでもあるのですが、しかし、この時期以降の彼の仕事については、その身の処し方も含めて静かに考え直してみなければならない問題がいくつかはらまれていると、僕は思っているのですが。


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ともあれこのシリーズ、監修者の筆頭にその宮本常一がいます。この第一巻の序文などは、文体や内容から見て間違いなく彼の手によるものでしょう。また、執筆者を見ても、それぞれ立場や出自は異なるにせよ、当時ジャーナリズムの舞台に登場し始めた民俗学とそのまわりの人たちがかなり入っています。
憑き物研究の第一人者石塚尊俊がいます。信州の教員から出発して東北日本のムラ研究に邁進した竹内利美がいます。昭和初期の「民間伝承の会」以来の柳田国男の愛弟子瀬川清子がいます。その柳田の再晩年に秘書を努めた鎌田久子がいます。さらにもう少し外延を広げれば、“サークル村”の森崎和江がいます。北海道で頑張った更科源蔵がいます。人身売買研究で知られた森克己がいます。何より、編集者の中にはのちに一匹狼の民俗学者として大暴れする谷川健一もいます。さらにこの第一巻以外でも、谷川雁、河岡武春、山口麻太郎、山口弥一郎、比嘉春潮宮良当壮、向山雅重など、民俗学とそのまわりの仕事にゆかりある人々が何人も、執筆者として名前を連ねています。
宮本と共に監修者として名前を連ねている山代巴などは民話研究者です。これはつい先日、口承文芸を専門とする民俗学者と話していて偶然教えてもらったのですが、この昭和二十年代後半から三十年代始めという時期は第一次民話ブームと重なっているそうです。
当時の民話とは、いわゆるうたごえ運動などとのからみも含めて、それこそ“左翼”主導の文化運動の匂いを濃厚に持つものでもありました。未だ脳天気に輝かしかった「戦後」の言語空間での「民衆」像が、そこには孕まれています。この本の中にいくつかさしはさまれている、話者の語り口をそのまま生かしたような形に整えられた文章も、これら民話ブームと無関係ではなかったはずです。その背後には、おそらく記録のための道具としてのテープレコーダーの普及があったはずですし、それは同時に「座談会」という形式が昭和初期に発見されて以来、これら戦後ジャーナリズムの中で隆盛を極めてゆく過程ともからんでいるだろうと、僕はにらんでいます。
第一章の末尾に収められた「土佐檮原の乞食」は、明記されていませんが宮本常一の手によるもので、この国の民俗学が生んだ散文的記述の傑作のひとつとして、「土佐源氏」の名で知られているものです。より性的にあからさまな記述も含めた版が、ポルノまがいの艶本といった形でも流布しています。また、おそらくは森崎和江の手によるものと思われる筑豊の圧制ヤマでの炭坑婦の聞き書きや、瀬川清子かと思われる嫁と姑の問題についての生活史的視点からの素材を交えた記述なども、「眼前の事実」を語る文体としては、それまでのこの国の民俗学が自前で開発してきたものでもありません。
その意味で、民俗学とそのまわりがおおむね一九二〇年代あたりからため込んできたこの国の「眼前の事実」がこのような文体の“おはなし”として再構成され、提示されていて、その際に当時支配的だった空気に沿って「残酷」というもの言いが採用された――いずれこの国の歴史にとって貴重な一次資料が「残酷」とひとくくりにされた、その経緯については、ひとまずそう総括しておいて間違いではないはずです。


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とは言え、このようにひとまず「残酷」と名づけられた、しかしそれまでの民俗学が素朴に集めてきた事実を編み上げて作られたには違いないこの“おはなし”の水準を、この国の民俗学大親分である柳田国男はどのように評価していたのだろう、という疑問は残ります。
答えになるかどうかはわかりませんが、このシリーズが出される数年前、昭和二十九年に毎日新聞社の毎日ライブラリーの一冊として出された『日本人』という本があります。これは柳田以下、それこそ直系と言われた民俗学研究所の人間たちが手分けして担当したもので、柳田自身が執筆したのは一部ですが、その彼の担当したある個所で、本家の家刀自や家長の苦労に触れながらこう語っています。

「もちろん、さしずする者とせられる者とのあいだには、感覚の上からもおのずから相違があるが、はじめから階級組織を目的にして家長制が生れたというのは大きな誤りで、これをごく単純な想像からその由来さえもきわめようとしないで、簡単にこれを封建制と結びつけて階級闘争を説こうとするのは、われわれのもっとも快しとせぬところである。」

「戦後」の言語空間に支配的だったもの言いへの違和感は明らかです。さらに言い添えれば、これは“ええカッコしいだった”柳田にしてはかなり直裁な表現の部類です。
同じ毎日からは、後に『日本人物語』というシリーズも出されています。こちらの監修には、戦後柳田に近寄り、この頃からアカデミズム民俗学の中核になってゆく和歌森太郎が名前を連ねていますし、執筆者にも大間知篤三、桜田勝徳、三隅治雄、桜井満らがいます。本来、この国の人間と社会にまつわる学問を規定してきた大文字のイデオロギーからはかけ離れた場所にいた、良くも悪くもそのような立場に過ぎなかったはずの民俗学徒たちが、まさに荒波にもみくちゃにされるかのようにあちこちに引っ張り出されていきます。
そういう意味で、この『日本残酷物語』は、民俗学とそのまわりに蓄積されてきた見聞を素材として、果たしてどのような“おはなし”の器に盛りつけてゆくかということが、大きくふたつの道筋に別れ始めた、そのような時期のものだと言えるでしょう。「階級」を軸に分断的に見るのか、それとも「日本」といったもの言いで求められた何らかの共同性を軸に統合的に見るのか。それは共に未だ「貧困」という大きな問いが前にあり、さらに「民主化」という同時代的使命感が生きてあった上でのことであれ、同じ「眼前の事実」をどのように構成してゆくかということについての方法的水準での齟齬として現われてきていたもののはずです。もちろん、当時そのような方法的な「読み」が可能だったとは思えません。けれども、現在の時点ならならばそれも充分に可能だろう、と、僕は〈いま・ここ〉の読者の「読み」の力にかなり期待していたりもするのです。



*1:宮本常一、他監修『日本残酷物語 1 貧しき人々のむれ』(平凡社ライブラリー)の解説。