大塚英志、許すまじ

 大塚英志サントリー学芸賞を受賞したという報を耳にした。しかも、こともあろうに漫画をめぐる仕事で、だ。

 このような賞にまつわるあれこれを外野がガタガタ言うのは、どんな正当な理由があっても、見てくれとしてみっともいいものにはならない。ならないが、しかしここはそんな悠長なことを言っていられない。ことは“漫画を論じる”水準に関わるからだ。

 漫画を論じた仕事は、今年は決して不作ではなかった。まず、四方田犬彦の労作があった。中野晴行の一連の仕事が結実し始めてもいる。あるいは、呉智英夏目房之介が継続している作業にしても、これだけサブカルチュアを論じることが困難になっている状況できちんと“漫画を論じる”ための地平をまさに知的作法の誠実さによって切り開こうと志すものだ。それら同時代の仕事と比べて、受賞作とされた大塚の『戦後まんがの表現空間』が「学芸」として優れているとは、どう斟酌しても思えない。百歩譲って選考委員会の判断を尊重するとしても、ならば、果たしてどのような理由で彼の仕事がここにあげた他の仕事に比して優れていると判断したのか、選考委員会ははっきりとその根拠を示して“漫画を論じる”ことに携わる者たちを納得させる必要があるはずだ。

 そう思って選評を一読して、絶句した。日下公人の署名による文章だったが、漫画をきちんと論じようと志す知性への冒涜にも等しい、およそ傲岸不遜な代物だった。こうだ。

 「マンガはすでに書籍出版の半分を締め、テレビのアニメは全世界を駆けめぐっている。しかし、マンガを読む人はマンガばかりを読み、活字を読む人はほとんどマンガを読まない。二つのグループがお互いに共有する情報がない状態で暮しているところはまるで日本社会に異星人同士が住んでいるようなものである。マンガ人間と活字人間が同じ電車の中で肩を並べて読んでいる。昔はそこに年齢差があったが今はない。マンガと活字は元来同じである。特に漢字はそうである。人、女、林などはそれ自体がマンガと同じく絵なのだから、情報伝達機能にそう差はないはづ(※ママ)だが、マンガの方は急速に進歩・発達して活字よりはるかに豊富で鮮烈な情報を伝達するようになった。(…)日本のマンガは世界の人の思考にも大きな影響を与えつつあるが、しかし、活字人間は活字でそれを解説してくれる人がいないと分からない。大塚英志さんの登場がそれである。多くの人にとってマンガは単なるエンタテイメントだが、大塚さんはその不思議な世界を解剖し、またマンガをめぐる外部の世界の見当違いなマンガ批判の批判をする。」

 要するに、自分たちには漫画のことがわからない。そのわからない自分たちがわかったつもりになれるような解説を大塚はした、だから素晴らしい、とこういうわけだ。

 断言してもいい。その他の“漫画を論じる”仕事について、日下は何も読んでいないし、何の知識も得ようとしていない。自分が「わからない」ことの向こう側に、すでに別の知性が宿っているかも知れないことへの謙虚さなど、ここにはかけらもない。日下に代表されるような「漫画をわからない」と言い続ける意識にとっての漫画とは、たかだかその程度のものなのだろう。「わからない」こと自体は何もいけないことではない。だが、その「わからない」の上に横着に居直った結果、“漫画を論じる”のはその程度でいいのだ、という理解が一般化してしまうことへの怖れが、どうして謙虚に宿らないのだろうか。

 その意味で、未だに漫画は“差別”されている。本腰入れた「学芸」の名に値するような道具立てによる漫画論は今、この状況だからこそ切実に必要なのだ。言わずもがなのことを言い添えておけば、それは別に大学の講義に漫画が取り上げられることや、したり顔の「漫画論」と名のつく書物が出回ることではない。かつての鶴見俊輔に代表されるような「エラい」言葉の高見から下世話な“もの”や“こと”を扱って進ぜるやり口で、漫画のみならずサブカルチュア一般を論じられる状況ではなくなって、すでに久しいのだ。

 大塚の純粋に仕事についてだけ言えば、吾妻ひでおの作品の復刻をやったのはいい仕事だった。だが、それ以外は全く評価できない。これは最大限穏健に言っている。今、この国のこの状況でなお“漫画を論じる”ことが、あの程度の水準で許されていいわけがない。