誰もが和服を着ていた頃

 カラオケ上手でラップが好きという若い関取の話を、どこかで読んだ。

 スチャダラパーの「今夜はブギーバック」が十八番で、それも実にノリがいいのだという。それでも、彼は「お相撲さん」という世間の視線が要求する身振りに忠実に、求められればジョッキで焼酎の一気呑みをしてみせ、色紙に手形も押してやるのだという。

 そのような約束ごととしての「お相撲さん」の身振りは、〈いま・ここ〉の同時代を生きる生身の彼の嗜好や感覚とどのように連なり、どのようにズレているのか。「伝統」といった陳腐なもの言いひとつに押し込め、わかったつもりになってしまっていいものでもない。ただ、そのような葛藤は、それこそ明治このかた、「伝統」とひとくくりにされる玄人の約束ごとが、それらを育み維持してきた社会のありようからズレてゆく経緯の中に常にはらまれてきたものではあるのだろう。たとえば、このように。

「私たちの仲間には子供を生んだ人はいませんよ。冷えるんですよ。都腰巻やフランネルの腰巻なんてしたら、笑い物ですからね。誰一人子供を生んだ人がないですよ。」(篠原はる「新橋よもやまばなし」昭和三一年)

 この老芸者はこの時七八歳。逆算すれば明治十年代の生まれだから、明治末から大正にかけての芸者全盛時代を同時代として生きていた人ということになる。

「昔はおっぱいの大きいのは、とても恥ずかしいものでしたよ。ブクに着て、
それを隠していたんですよ。」

 そう、和服に巨乳は似合わない。いや、この「巨乳」というもの言い自体、あまりに恥じらいがなくてうとましいのだが、何にせよ、社会が乳房を過剰に意識するようになる過程にもまた「歴史」がはらまれている。和服が後退し、洋服を着ることが当たり前になってゆく中、女性の胸のふくらみの意味も静かに、しかし確かに変わっていったはずなのだ。

 この「ブクに着る」とは何か。もしもご存知の方がいたら教えていただきたいのだが、和服というのは今の女性のようなウエストのくびれがあっては似合わない代物で、ズン胴で丸い茶筒のような身体が最上というくらいだから、胸のボリュームを隠すような、それでいて着崩れしないような独特の着方ということか。

 もちろん、誰もが和服を着ていたとは言え、その着こなしには少しずつ違いがあった。同じ芸者の中でも着こなしによって、あれは赤坂、あれは新橋というのがわかったという。なるほど、芸者などは着こなしのプロ。明らかに素人の女性とは違う洗練があり、そのための知識や技術もあったはずだ。芸者がよく通う銭湯では使う湯の量が三倍は違っていた、という話もある。今どきの女の子のように毎日必ず湯に入り、頻繁に髪を洗い、入念に化粧をする女性というのは、そこらの素人ではあり得なかったはずなのだ。

 それは言葉を換えれば、不特定多数の視線に「見られる」ための身構え方を、意識も含めて自分のものにした存在ということでもある。玄人とは、まずそのような「見られる」ことについてのプロに他ならなかった。

 当時、女性の日本髪は臭かったという。

 こってりと油で塗りかためて結い上げ、しかも空調もアルミサッシもなく、往来にも家の中にも砂埃や乾いた馬糞の藁屑が今よりはるかに舞っていた中では、そんなものまるでハエとり紙を頭に乗せているようなもの。明治時代に浮名を流した「洗い髪のお妻」などは、洗った後何もつけずに結った髪が通り名になったわけだが、その通り名の背後には、油だらけで埃まみれの日本髪が当たり前だった状況との距離感と、その距離に伴うある新鮮さがあったに違いない。

 とは言え、和服が当たり前だった頃の日本人の身体つきがどのようなものだったか。これ自体すでによくわからなくなっている。木村荘八は、画家の眼と感覚とでそのような身体にまつわる微細な“感じ”や“空気”をつぶさに書きとめておこうとすることで、「歴史」の言語空間がエロスやセクシュアリティの領域にまで届くはずの道すじをほのかに示しておいてくれた人だが、その彼の書き残したものの中にこんな一節がある。

「(図のような)ヘンにくびれた胴体や足が生活しやうが為には、彼女の胸元には断へず丸帯の『板』の圧迫が必要とされるし、この足の生活する為には、畳や座布団は絶対の攻め道具で、更に遡って考へると、子供の時に、先ず盥の海で産湯を使ふ教習から初まって、這ひ這ひにしても、あんよは上手にしても、それから乳母や子守の背に紐で長時間曲げた膝のところを縛り付けられる特殊教育も…昔の我々の生活は、巧まずして、この奇形な足や胴体を生活そのものの中で製作したのであった。」(木村荘八「美人変遷史」 昭和二七年)

 女たちの多くが猪首で猫背で短足で、あまつさえそれが湾曲すらしていて、腕や肩は発育不十分で薄く細く、顔は瓜実顔の薄瞼、口も薄唇で受け口の反咬合が多く、またそれを「こまちゃくれ」てるだの「お茶っぴい」だのと評価するものさしすらあった時代、それが江戸を引きずった明治だった、と彼は言う。

 「書かれたもの」だけから計測されたこれまでの「歴史」の距離感に、このようなささやかな身の大きさの感覚への鋭敏さをさしはさんで読み直してゆくことで、乾きものの「歴史」はさらに立体的で切実ななまめかしい「昔」となって〈いま・ここ〉に立ち現われるはずだ。