アラブ競馬が消えてゆく

 アラブ競馬が姿を消してゆく。

 昨年、JRA(日本中央競馬会)が番組からアラブの競走を廃止すると発表したのに続き、ついに地方競馬でも東京の大井競馬がアラブの番組をなくしてゆくことを決定したという。全日本アラブ大賞典などの伝統のアラブ重賞も、近い将来大井では見られなくなる。

 つくづく馬鹿だね、大井は。いや、そりゃ『厩舎物語』このかたずっと眺め続けている競馬場のこと、そうそう悪くは言いたかないけど、でも本当に大馬鹿野郎だよ、ここの主催者は。「恥ずかしくって友だちも呼べねぇ」と住んでいる連中が嘆く今どき珍しい劣悪な厩務員住宅の改築を、厩務員のみならず調教師たちのトレーナークラブまでもがあれほど懇願し続けても頑として応ぜず、「ファン」に向けてのわけのわからない施設だけはバカスカ建て続け、なおかつナイター導入当初に売り上げが持ち直した時にロクにストックもせず、賞金額にも還元しなかったこれまでを見ても、その見識のなさは明らかだったけれども、いやはや、今回だけはあきれてものも言えない。都の三流役人に言っても仕方ないけど、バクチの胴元やるにはそれだけの貫禄や器量ってのが必要なんだぜ。

 中央競馬の普通のファンにとっては、アラブの番組がなくなるなんてことは、ほとんど大した問題ではないだろう。今も番組的には土曜日の、それも午前中にひと鞍あるかないか、という程度。馬も限られてるから、メンバー的な面白さにも乏しい。まして、中央競馬に入厩するアラブは抽選馬で、馬主が好きに選んできたものじゃなく、主催者が一定の金額でまとめて購買してきたものを希望する馬主に抽選で配布した、いわばあてがい扶持の馬だから能力もドングリの背比べ。別にJRAお得意の「ファンの嗜好」を錦の御旗にせずとも、これは興行的にも得策ではない、というのはひとまずわかりやすい。同じく興行的にリスクの大きいはずの障害競走が、平地で頭打ちになったスソ馬救済、つまりは馬主救済の意味が大きいためにとても廃止できそうにないのと比べても、アラブ競馬を擁護する積極的な動きは主催者、厩舎、馬主のいずれからも出そうにない。

 けれども、地方競馬となると話はまるで違う。なぜなら、この国の強いアラブはほとんど地方競馬に入厩する。もちろん中央競馬は言わずもがな、同じ地方競馬サラブレッドの競走に比べても賞金は安いけれども、それでもアラブはタフなのと管理がしやすいのが最大のとりえ。ちょっと強い馬ならばまさに賞金稼ぎよろしく全国の競馬場を流れ歩き、たくましく稼ぐこともそんなに難しいことではない。馬主にしても、華やかだけれども値段の高い割りにすぐに故障したり仕上がらなかったりするサラブレッドよりも、安くて地道に稼いでくれるアラブの存在はありがたいはずだ。ナイター以降、同じ南関東地区の中では賞金が突出して高くなった大井にはサラブレッドに比べて値段の安いアラブが入厩しにくくなっているのは事実だし、また、うわついた一部の厩舎には昨今のバブル馬主と同じくあまり根拠のないサラブレッド願望があったりするけれども、この不景気の昨今、わざわざ地方競馬で馬を走らせてくれるような奇特な馬主もそう新たに出て来ようのない今日、馬を持つ楽しさ、競馬の世界の旦那になることの意味をこういうアラブや、あるいは中古馬(地方にはこういう前科持ちの馬が実に多い。地方競馬の“競馬師”たちの身上はひとつにこういう馬を再生することにある)を媒介に馬主に教えてゆくことも、地方競馬では一応指導的な立場にある大井あたりの競馬場の責任だろう。
 何より、この種の問題が持ち上がると競馬場まわりの関係者の外に置かれる生産者にとっても、これは必要不可欠な馬種なのだ。アラブの生産者の多くは零細馬産農家。七〇年代初めの減反政策のあおりで軽種馬生産を始めたような、半農半馬の生産者によって支えられている。農水省の政策的意志として、どうもこういう零細馬産農家を「整理」することが、今回のアラブ廃止問題だけでなく、同じく近年くすぶり続けている外国産馬出走制限の緩和問題などにも共通してあるように思う。

 でも、本当にそれでいいんかい? 昭和四〇年代、馬が足りなかった戦後混乱期に何とか競馬をしようというんで採用した中間種による速歩(今の競馬のようにキャンターで走るのでなく、ダクでのみ走る競馬。繋駕速歩といってソルキーという二輪の軽馬車をひくこともあった)の番組をなくし、後肢の鍛練になると陸軍も奨励していた速歩の調教技術を絶滅させたのも似たような経緯だったはず。競馬を本当に「文化」だと言うんなら、目先の経済だけでなく、馬とそれに関る人間を長い目で見る視線を身につけてもらわなくちゃいけないや。