地下鉄サリン事件報道の構造

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 東京の地下鉄“サリン”殺傷事件をめぐる報道の様相は、今のところまだ事態の大きさに素朴に驚いているといった印象で、何か確固とした方向づけがされているようには見えません。ただ、管見の限り、一般紙はもとより夕刊紙からスポーツ紙に至るまで、見出しに「無差別テロ」や「国家に対する組織的犯罪」といった文字が多く見られたのは、少しひっかかるものがありました。なぜなら、このような事件が起こった時に必ずイメージされる「悪者」像というのが、それこそ冷戦崩壊以降、またたく間にぼやけたものや陳腐なものになり、今の状況ではうまく社会に共有されなくなっているはずだからです。

 たとえば、いまだに警察の防犯ポスターなどには、口のまわりを黒く塗り、頬かむりをして横縞のシャツを着た「泥棒」が描かれています。いや、そんなのどかなものでなくても、ヘルメットにマスク、サングラスといういでたちの「過激派」にしたところで、堂々と登場しています。そんな「泥棒」や「過激派」が今どきどこにいるのか、と笑うのではありませんし、そのようなステレオタイプが差別につながる、といったそれ自体凡庸なステレオタイプと化した“糾弾”言説に加担するつもりもありません。そのようなステレオタイプを媒介にしなければうまく社会に理解が浸透しない、そんな事情も社会にはあるはずですし、報道もまたそのような社会的事情から全く自由でもないだろうからです。

 とは言え、「テロ」という言葉が事件に対する“理解”を増すためのキーワードとして流通できる条件というのは、ある個人や組織に社会の悪や矛盾が全て収斂してゆくような「悪者」像が、思い込みや妄想の類まで含めて、何らかの形で想定できることが前提になるはずです。さて、今回の事件で多くの人がまず想定したはずの「宗教」団体像は、そのようなステレオタイプの効用にうまく合致するような質のものだったでしょうか。(舞)


       

*1:事件勃発後、誰もがあやしいと思いながらも、しかしそれを「オウム真理教」と名指しでおおっぴらには、まだ報道できない状況でのもの、為念。