ワイドショーとニュースの関係

 「神戸小六男児惨殺事件」が世間の話題をさらっている。とんでもねえ事件だというのはもちろんだけれども、ああ、とうとうこういう怪物みたいなわけのわからない内面を持ったのが平然と日常に存在するようになっちまったんだなあ、という感慨が僕にはある。ヘンな言い方だが、犯罪に品格がなくなっちまってるのだ。

 例によってメディアの舞台ではワイドショーとスポーツ新聞と夕刊紙が飛ばしながら、それを週刊誌がフォローしてゆくという順序で「事件」が語られている。これはもうニッポンのメディアのお約束。そして、このお約束こそがもっともらしい報道の言葉をかみくだいてわかりやすくしてゆき、その結果として保証される「世間の正義」だってあると思って僕は最大限評価してきているけれども、にしても、そのメディアのお約束の語り方自体、今回はどうも様子がヘンだ。同じ言いたい放題にしても、そのことを現場がうまく自覚できなくなっちまってる、そんなちぐはぐな印象が今回は強いのだ。

 たとえば、精神分析や心理学や、そういう「心の問題」の専門家が例によってゾロゾロ登場しているけれども、そういう専門家ってなんか難しいこと言うだけで役に立たないんだよね、ということがすでに世間の常識になっちまってる昨今、何を言ってもちょっと変わった素人の感想以上にはならない。犯罪社会学の岩井弘融センセイなんて確かもう御歳八十歳を超えてらっしゃるはずで、そんなジイさまにこういう「現在」のできごとを解釈させようなんて、そりゃ気の毒だって。まして、オウムの一件以来ワイドショーに居座っちまってるあの弁護士たちなんて、言ってることはほぼそこらのオバさん以下。早く事務所に帰って自分の抱えた仕事しろっての。

 そうかと思えば、どこの誰が見つけ出した話か知らないけど、六〇年代半ばから七〇年代にかけてアメリカで起こったゾディアク事件とかいう連続殺人事件とよく似ているだの、あの「SHOOLL KILL」というスペルに何か深い意味が隠されているんじゃないかだの、いやはや、もう、メディアまるごとプロファイリング気分。あんなスペルなんて別に深い意味なんかなくて、単に書いた奴が頭が悪いから間違っただけなんじゃないの? 同じく、そんなアメリカの未解決の殺人事件との類似なんて、そういうアブない奴の考えることは万国共通よく似てくるもんだよね、って程度の理解だって充分あり得るわけだし。

 みんな単なる情報の断片だけをいじり回しているうちに、どんどん情報の中に閉じこもっているような気がする。ワイドショー的な報道の洪水が健康な「世間の正義」を構築する方へ向かわず、「神戸小六男児惨殺事件」おたくを山ほどこさえちまってるだけじゃこりゃ本末転倒。言いたい放題にも自覚がないことには、せっかくのワイドショーの正義もうまく作動しない。それってヤバいよ。沙粧妙子が大活躍できるのは、やっぱりドラマの中だけなんだからさ。