花森安治

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 神戸にはどうやら、奇妙なたおやめぶりの伝統がある。

 稲垣足穂今東光淀川長治。少し下って手塚治虫野坂昭如、さらに筒井康隆。世代は異なるとは言え、みんなどこかでおのが身にまつわるジェンダーを越境してゆくような表現の資質を持ってやしないか。そしてそれは、街育ちの生にある確率で確実に宿り得る自省力、健康な相対主義の原基になってやしないか。

 そんなものサンプルの選び方によるわい、と言うなかれ。神戸という街の経験が彼らの生活史の中で表現へと向かうある重要なトリガーになっているかも知れない、という仮説は、歴史と経験の交錯を生活史という文脈で考えようとする際の補助線としては魅力的だ。

 とりわけ、明治三十年代から四十年代に生まれた世代は、サブカルチュアによって「自分」の輪郭を作り出していく体験を、同時代の例外としてでなく、ある量と層を伴った形で準備することになった最初の世代。まして神戸だ。映画や詩や文学、絵画に芝居、競馬に麻雀、カメラや冒険雑誌や自動車や飛行機や、さらに加えてタカラヅカまであるときた。 女のようなおかっぱ頭にキルト姿で、長年『暮しの手帖』の名物編集長として知られた花森安治もまた、そのような「パンとサーカスの日々」を現実のものにし始めた頃の神戸の空気を、たっぷりと胸いっぱいに呼吸して大人になったはずの一人だった。

 明治四四年十月二五日の生まれ。五人兄弟の長男で、家は祖父の代からの貿易商。神戸で貿易商の息子とくれば、こりゃもうトンガるっきゃない。事実、新聞はやるわ、雑誌は作るわ、芝居は書くわ、絵も描くわ、弁論は磨くわ、おしゃれに凝って自前で洋服まで作るわ、全方位できっちりトンガった。

 神戸三中から旧制松江高校を経て、昭和八年に東京帝国大学美学美術史学科へ。卒論は「衣粧の美学的考察」。もっとも、在学中はほとんど『帝国大学新聞』に入りびたりで、そこで扇谷正造杉浦明平などと出会う。ここは学生新聞というにはいささか型破りな、教授、学生、OBによる任意団体で、当時の理事長は美濃部達吉。部数も六万部にまで伸びていた。当時の情報環境での六万部だ。しかも学生だけでなく、インテリ層の一般読者が多かったクオリティ・ペーパー。メディアの生産点でそれまでと違った手ざわりで出現し始めたはずの、新たな「マス」と化した大衆インテリたちのリアリティを、彼は早くから肌で知っていたことになる。ちなみに、後に彼の『暮しの手帖』が部数を伸ばしていった昭和三十年代が九十万部。だが、その間二十年あまりの時間と、敗戦というのっぴきならないできごとをはさんでなお、彼自身の「マス」に働きかける手法にさしたる変化はない。言い換えれば、大正デモクラシー期の神戸に育まれ、昭和初期のモダニズムの時期に身にしみついたメディアを操る手練手管は、基本的に戦後の空間においても、それこそ百万近くという「マス」を相手どることが可能なほど有効だったということだ。敗戦をはさんでなお、この国の「マス」のありように何らかの連続性は間違いなくあった。

 昭和十二年に大学を卒業。そのまま兵隊にとられて満州へ。所属は機関銃中隊。結核になり帰国した後、大政翼賛会宣伝部に勤務し、国策宣伝の現場で腕をふるう。「欲しがりません勝つまでは」といった戦時標語の選定に携わった、などのフォークロアも含めて、この時期の彼の仕事は後の彼のイメージから逆投影され、さまざまに語られているが、このあたりの才能のありかたは後の橋本治にも似ている。

 だが、戦後はそれらの体験にほぼ完璧に口をつぐむ。以前から仕事の上でつきあいのあった大橋鎮子らと共に「女の人の役に立つ出版」をめざして「衣裳研究所」を設立、出版業に乗り出す。季刊の『スタイルブック』から始めて、昭和二三年九月に衣食住の総合誌美しい暮しの手帖』を創刊。昭和二八年に誌名を『暮しの手帖』に。広告を一切とらない経営方針と徹底した素朴実証主義での商品テストを売り物に、新たな“もの”がみるみる日常を埋め尽くしてゆく中での消費者層のニーズに応えるメディアを作り上げた。

 だが、さまざまな人のさまざまな記憶の中で語られた花森は、実にまぁ、とんでもないオヤジである。こんなオヤジの下で働けるもんかよ、と思うし、何よりそのようなオヤジの所業を得々と“物語”にしてやるまわりの人々との関係性自体、すでに歴史だ。だから、『暮しの手帖』とは創刊当初からずっと“個人誌”なのだ、と僕は思っている。昭和五三年に花森が世を去って後でさえも。事実、そこにまだ花森が生きてあるかのような、そのあまりの変わらなさは、申し訳ないが時に薄気味悪くなることさえある。

 戦争について彼が語った、あまりに有名な一節。

「生まれた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛しぬいた末に、みごとに裏切られた。」

 カッコ良すぎやしないか? そのカッコ良すぎるところが花森安治の強みであり、と同時に、今のこの状況においては批判的に対峙しなければならない弱みでもある。言葉を論理の素材としてでなく、感情の飛び道具として使い回す術と、それを「マス」の手ざわりと共に持っていたがゆえの自意識の作り方。そこから発する身振りが「庶民」の、そしてある時期からは「市民」の像とさえ無媒介に重なっていったことのバランスシートは、これから先、きちんと批評の俎板に乗せておかねばならないだろう。それは、花森が実直に主張し続けた「美しい暮し」と、高度経済成長期以降に出現した「豊かな生活」「おいしい生活」との間の深刻な距離を、それぞれの足もとから計測してゆく作業でもある。

「なにもかしこい消費者でなくても、店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と性能をもっているものばかりなら、あとは、じぶんのふところや趣味と相談して、どれを買うかを決めればよいのである。そんなふうに世の中がなるために、作る人や売る人が、そんなふうに考え、努力してくれるようになるために、そのために商品テストはあるのである。」

 花森はそう書いた。だが、日用品の多くがそのような実用性において一定の水準に達してしまった後、まさに消費者の「趣味」や「美意識」任せになってしまった状況が、果たしてどのようないびつな「豊かさ」を現出するものか、彼は想像していただろうか。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ。