斎藤龍鳳

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 「ルポルタージュ」とか「ノンフィクション」とか呼ばれる表現領域の、その文体がどのように構成されてきたのか、ということについて考える時、僕はことさらに斉藤龍鳳の仕事を引用することがある。今どきの大学生はもちろんのこと、同年代のもの書き稼業の人間たちからでさえもキョトンとされることがほとんどで、そのたびに、ああ、そりゃそうだろうなぁ、忘れられてるのが当然だよなぁ、と思うのだが、しかし次の瞬間、バッカヤロ、カッコいいんだぞ龍鳳は、知らねぇな、とまた依怙地になる。

 現実と対峙する言葉が根本的に取っ組み合わねばならないのは、“リアル、と思われるもの”を描き出す言葉の問題であり、それらの言葉によって構築される文体の問題である。だが、これは技術主義的な意味ではない。断じてない。正しくそれは視線の問題であり、その視線を統制し、使い回す主体の問題である。そのためにおのれの内側をのぞき返すような繊細さと、外なる「現場」へ向かって身を躍らせる跳躍力とが、全く同等に要求される。その程度に、やはり「文は人なり」だったりもする。

 後の七〇年代に盛り上がる出版社系週刊誌ルポの文体に連なるはずの、イキのよさと心意気一本で乗り切る調子を、彼は六〇年代半ばの週刊誌などで繰り広げていた。肩書としても仕事の内容としても、映画評論家としての評価が一応の了解点だろうが、しかし、むしろ風俗ルポも含めた彼の紀行文やルポなどにこそ、僕は心底イカれた時期がある。

 昭和三年、東京は吉祥寺の生まれの新宿育ち。父は東京市の役人だったが、後に満州ハルピン市へ単身赴任。龍鳳は父の母校だった長野の松本一中に転入学を試みるが、結局須坂中学に転入。寄宿舎生活をする。昭和一八年に予科練合格。翌年、海軍鈴鹿航空隊に配属。戦争末期の、粗製濫造気味に水増しされた予科練ではあるけれども、その夏には三座の九七式艦上攻撃機の電信員として空を飛んだ。

 その時に知り合った、仲間からは“パッキン”と呼ばれてうとまれていたという機長永田上飛曹の描写などは、今も読むたびに胸つぶれる思いがする。

「永田は平手造酒みたいな男だった。インウツな型で決して一身上のことについてボクらに語ろうとはしなかった。デッキではたいていギターを弾いていた。レパートリーは、「熱海ブルース」と「愛の小窓」。一節によると淋病だともいわれており、飛行機に乗る前は味噌汁も飲まなかったし、乗ってからは弁当を食わなかった。体質的に飛行機がむかないようだったが、カンは鋭く、海の色を見、匂いをかぐと、機が東支那海のどのあたりを飛んでいるのか、ほぼ正確に当てたものである。時折、滅多打ちに甲飛や乙飛出身者を善行章(三年で一本つく)二本にモノをいわせてなぐった。性格的に暗いのがきらわれ、ボクが永田の電信員になった時、同年兵や古参たちは「オメエは敵さんにやられる前にパッキン(ヒネくれているところからついた永田のアダ名)に殺される」とからかい半分に同情してくれた。」

 けれども、永田は斉藤には何もしなかった。「あまりにボクが兵隊として技量未熟で、怒る気にもなれなかったのではと思う」と彼は卑下するが、それだけでもないだろう。おそらく斉藤の人なつっこさというか、人の内面に素直に食いいってくるような視線のありようが、どことなく愛おしかったのではないか。生前の斉藤龍鳳と会ったこともない僕がこんなことを言うのもヘンだが、しかしここは言う。書いたものを何度も読み返してゆくと、その屈託した人なつっこさの雰囲気が当たり前のようにこちら側にとりついて、始末に悪いところがあるのだ。

 この永田機長の下、九七艦攻三六機を台湾北部から九州へ空輸した時のこと。道中、ハルゼー提督の米機動部隊に遭遇し、護衛のF6F戦闘機に襲われた。生れて初めての空中戦。旧式の艦攻など精鋭戦闘機の前ではイモ虫同様。僚機はバタバタ落ちてゆく。

「永田がカン高く、O(パイロット……引用者註)に方向を指示する。やっとのことで雲の中に逃げ込む。長い長い雲中飛行のあとにポッカリ桜島が見えた時、Oは嗚咽した。ボクも泣いた。永田は「熱海ブルース」の替え歌――主は召されて南の空へ、あたしゃ待ちます国のため、をハミングしていた。」

*2

 ああ、この呼吸、この間合い! 天性のものかも知れない。けれども、短く切ったセンテンスで歯切れ良くたたみかけるあたりは、躍動する身体の領域を深く思い知った知性の気配が濃厚。カタカナ書きの「ボク」がこれほどさわやかに似合う書き手を、僕は他に知らない。こういうノリ、こういう身構え方でものを書きたい、と本当に思った。

 昭和二〇年の春、特攻志望者の調査があった。「ボクは死にたくなかったが、主観主義的激情にトップリとつかり、「エイッ」と二重丸を書いて提出、十分後にはひどく後悔していた。」 四月六日、永田が先に出撃した。

「別れがきまった夜、永田はボクにギターをくれた。いつもの通りの苦虫をつぶしたような顔で「ジキ終わる。死にいそぐんじゃねえぞ」と言った。最後の言葉であった。桜の花びらをいっぱいはさんだ粗末な手帳を一冊残していったが、“わだつみ”とちがい中身は流行歌の歌詞しか書いてなかった。十八歳になったボクは、永田に対する尊敬の念でいっぱいであった。」

 こりゃもうすでに恋である。だが、彼は転属になった先で敗戦を迎え、中学に復員。父は大陸で召集されて戦死していた。元予科練の身のこなしのまま共産党に入れあげ、火炎瓶闘争時代の前線を生き、離党後、映画担当の新聞記者で世渡りしながらも、七〇年安保に向けての時期には、この「若い衆」に対する烈々たる共感と恋情とを媒介に、四十路の身で全共闘の線列に参加。身も心も消耗しきって、睡眠薬中毒から立ち直れないまま七一年、中野のアパートでひとり孤独に死ぬ最期にしても、やはり純情可憐な軍国少年の直情径行が長く尾を曳いている。そんなかつてこの国に確かにいた「男の子」のカッコ良さを望み続けた彼は、しかしそう望み続ける程度に、ナイーヴで繊細で、身近な人間には厄介な存在だったらしい。それでも、僕はやはり斉藤龍鳳が好きだ。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ。

*2:この部分、だいぶあとになってからだが、ふと気になって調べてみたら、歌詞からして「愛馬花嫁」と勘違いした記述になっているんじゃないか、と。「熱海ブルース」が昭和14年、「愛馬花嫁」が昭和15年だから時期的にはどちらもあてはまるのだが、ただ、歌詞の一節の符合の仕方と共に、後者が映画「征戦愛馬譜・暁に祈る」の主題歌だったことなど考えあわせると、当時の同時代の人がた、殊にここで龍鳳があげているような日中戦争以来の歴戦叩き上げな海軍の飛行機乗りの「趣味」のありよう、その濃淡の配分加減としては、後者と考えるのがより自然ではないだろうか。「暁に祈る」というもの言い自体、のちの敗戦後、シベリア抑留時の日本人捕虜虐待事件の標題として援用されていたくらいでもあるわけだし。
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www.youtube.com ただ、永田の愛唱歌に「熱海ブルース」があったというのも本当ではあったろう、というのは、同じく愛唱歌昭和11年の映画「魂」の主題歌「愛の小窓」があげられているというあたり、彼の――というか、ここは龍鳳自身のそれも重ね焼きになっている可能性もおおいに含めて、当時のマチのモダニズムが昭和初期の前線にまで人を介して浸透していた「趣味」の形跡の想像力的な意味での記述として、信頼できるものだと思う。
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