「団塊の世代」と「全共闘」㉛ ――三島由紀夫、連合赤軍、「学生」の東と西

 

三島由紀夫

――あと、呉智英さんの世代、いや、もう少し下まで含めていいと思いますが、吉本と共に三島の影響ってのも大きいことに驚くんですよ。あたしらにとっちゃ、少なくとも同時代の印象としては、単に自衛隊に突入して腹切っちゃったヘンな作家、程度でしかなかったわけで。後になって著作を読むようになっても、もう「文学」自体が棚落ちが決定的になってた80年代的空気の中じゃ、申し訳ないですけど、その自己中な美意識がなんだかなあ、というところがすでに先立ってしまって、上の世代が熱っぽく語るその前提からしてもう共有できなかったんですよ。むしろ冷静に読めるようになったのはもっと後ですね。

 三島には、私は全然影響を受けていないよ。それは私だけじゃなくて、いわゆる団塊の世代にとっては、そんなに大きくはないんじゃないかな。でも、私より下の世代になると、三島ってのは結構大きい存在みたいだね。

 ついこの間、大阪大学で講演した時、その後の打ち上げで、大阪大学の某教授と初めて会って話した。私より少し下で、京大で学生運動をしていて、その後紆余曲折を経て院に入ったそうなんだけど、その彼と。今まで人生の中で一番衝撃的なことは何だ、という話になったんだ。

 私は、何と言っても連合赤軍だ、人生においてこれほどの衝撃はなかった、と言った。ところが彼は「おれは連合赤軍なんかより三島だよな」と言ったんだよ。私は驚いて「おれ、三島こそ、全然大したことなかった」と言い返したんだけど、でもこれは、一つには関西という土地のこともあると思うね。彼は京大で赤軍系のやつと実際に付き合いがあったから「赤軍の流れで言うと、あんなものは京浜安保に踊らされただけで、本来の赤軍は違うとみんな思っていた」と言う。まあ、それは確かにあったかも知れないけどね。

――東と西の地方差、ってのは確かに今思う以上に大きかったんですよね。それは単に日常生活においてだけでなく、思想や教養の成り立っていた前提においても当然そうだった、ってことで。

 で、何を言いたいかというと、三島由紀夫が衝撃的だった、という人間は実際にいた、ってことだよ。

 でも、これもまた非常に単純なことなんだよね。三島は本気だった、という、この一点なんだ。また身も蓋もない、単純過ぎると思うかもしれないが、人間、六十になると、そういうことも改めてわかってくるものなんだよ。

――「本気」の衝迫力、ということですか。そりゃなあ、実際に言葉と行動を一致させて、なおかつ腹まで切っちゃったんだから、まずその一点で「うわあ、こりゃ勝てんわ」になったんでしょうし。

 そう。でも私は、三島事件には驚かなかった。七○年前後で、まわりにはぼちぼち爆弾関係に行くやつもいたし、それから、これも今となっちゃお笑い草なんだけど、三月には北朝鮮にハイジャックが飛んでいっていたし、三島事件が起こったのはその年の秋だったんだよね。

 確かに三島は本気だったけど、でもその本気ってのは程度の問題で、当時は誰もがそうだったとも言えるんだよ。私は当時、党派にも入っていないし政治的には組織運動には関わっていなかった。三島は全部を「改憲」に賭けたわけだけど、でも、私はというと、まだ本気の程度は六割くらいだったかな。

――ああ、ベクトルは180度違ってても、改憲」でも「革命」でもその「本気」が必要だという認識に置いては当時、同等だった、と。

 こっちだって本気だったんだよ、その頃は

 実際に六七年の羽田のデモでは、京大の山崎博昭が死んでいるし、それはもちろん何千人のうちの一人ではあるんだけど、でもその頃、気の利いた者は「デモに行くときはパンツを替えていく」と言っていたもんだ。警察に捕まった時、下着が汚いのはみっともない。どうせ服はぼろぼろにされるし、放水車の水も浴びるだろうけど、パンツにうんこの跡がついていたら、それはちょっと嫌だな、と、みんな本気半分、冗談半分で言っていた。その程度のことは誰もが普通に考えていたんだ。

 それは実際に死ぬ可能性があるからで、そう考えれば、三島が本気だったと言われても、そりゃ腹を切るくらい思い詰めてたんだから大変だったろうけど、でも、こっちもこっちで覚悟はあったわけだし、そんなこと言われてもなあ、という気持ちだったね。

 ただ、こっちは、結果が実現できるならばそんな敢えて死ななくてもいいだろう、憲法を変えたいのなら、言論で、それこそ区議から始まって都議、そして代議士になって、二十年ぐらいかけて国会でやればいいだろう、と思ってたけどね。だから、そういう意味で、三島事件は私個人にとっては全然ショックではなかったな。

 むしろ、ショックだったのあさま山荘事件だよ。あれはその本気さが衝撃なのではなく、ネガティブさが衝撃だった。早稲田の友人もみんな、あれはショックだったな、と未だに言う。それは、起きないはずのことが起こってしまった、というショックだったね。

――以前から一貫して、呉智英さんはそっちを強調しますね。オウム事件に対するスタンスも、これは世代は違うけどもうひとつのあさま山荘じゃないか、みたいな側面をはっきり言ってましたし。一部のバカはその前、例の宮崎勤事件をあさま山荘に見立てるのもいますが、あたし的には宮崎勤事件は前哨戦で、あそこで問題を共有して始末する見通しを立てられないままだったから、結局オウムにまでつながっちゃった、下っ端キャラ相手にぬるいことやってたから、ほらみろ、もっとレベルアップした厄介なのが出てきやがったじゃないか、って認識です。


 あの頃、私たち全共闘とか当時の新左翼は、旧来のスターリン主義的な共産主義に対しての批判はもう十分に出ている、と思ってたんだよ。しかもそれは、スターリンに対するトロツキーの思想だけではなく、トロツキーが喚起したようなメキシコにおける芸術運動とか、あるいはフリーダ・カーロ自身がトロツキーの愛人だったんだけど、そのカーロの旦那のリベラなどがやっている芸術運動なんかともつながってゆき、またフランスにおいては、当然当時のシュール・レアリズムの前後まで含めてトロツキー的な共産主義につながっている、という認識だったわけだ。

さらに、当時のソ連において弾圧されていたドストエフスキーの問題もあったしね。少なくとも私たちは『悪霊』は読んでいたし、その問題も、ドストエフスキー的な人間の罪の深さも知ったその上で、敢えて新左翼に対して共鳴、共感しているぞ、という意識だったんだよ、少なくとも主観的には。

 ところが、それがあさま山荘の事件で一気にひっくり返され、冷めてしまったんだ。

 なんだ、こいつらは結局スターリニズムと同じことをやっているんじゃないか、というわけだ。しかもそれが非常に矮小な形で起きている。実際、あさま山荘の最初の銃撃戦の頃はまだ、テレビの前で「赤軍派もここまでやるか」というだけだった。共感というほどじゃないけど、「おお、やってるな、やれ、やれ!」ぐらいの感じだった。でも、その後、あの仲間殺しが発覚して初めて「ああ、こりゃスターリンと同じだ」と、そう思った。絶対起きるはずのないことが起きた。その衝撃はほんとにすごかったよ。

 その後、少し心が落ち着いてきて、さらに永田洋子の手記を読んで、「なんだ、永田洋子ドストエフスキー読んでないのか、つまりこいつはただのバカだったのか」ともう一度びっくりしたんだけどね。要は、何も勉強していなかったんだ、と納得したんだけどね。それは今で言えば、それこそあの辻元清美並みで、「民衆は苦しんでいる。私は怒らなければいけない」と、ほんとにただそれだけ、なんだよ。

――左翼が大衆社会の中でサヨクと化してゆく過程がはっきり見え始めていたってことなんでしょうね。いまのプロ市民にまで退廃してどうにもにならなくなってゆく道でもあるわけですが。そのへんは、あの大塚英志の数少ない評価できる仕事にも関わってますね。永田洋子の獄中日記が、そこに付されていたイラストなんかも含めて、なんともはや、トホホな代物だった、ってことにやっこさん、さすがに反応してますが、でもあれ、当時あたしらの世代はみんな思ったんですよ、おいおい、あのイラストはないだろう、と(苦笑)



 それも、さっき言った京大出身の教授に言わせれば、「仲間殺しをやったのは、永田を始めとした京浜安保の連中じゃないか」ということになるんだけどさ。

――あ、うちらとは違う、って意識なんですか、やっぱり京都の人たちは。

 そう言うんだよね、一応。京浜安保共闘ってのは、日本共産党革命左派という一団の中の、自分たちは日共の分派のつもりでいるグループで、毛沢東を信奉し、これが赤軍と連合して「連合赤軍」を名乗っていた。要するに、自分勝手に日共の正統を争う異端分子だと思っているに過ぎないわけだ。一方、赤軍の方はというと「自分たちは世界革命を目指している」と、これも塩見孝也新左翼活動家・元赤軍派議長/一九四一│)が言っているんで、どうせ法螺に過ぎないんだけど、それでも、全然違う組織だと、関西の彼は思っていたみたいだね。

――その塩見孝也の「世界革命」ってのがどの程度のものだったか、ってことも、後にこれまた本人の告白なんかによってバレちゃいましたからねえ。

 ただ、これは個人的な推測でしか言えないんだけど、ああいう精神性は、京都の勤王佐幕の頃からどこか時代がかった感じがあるような気がする。塩見孝也なんてまさに法螺吹きと天下国家が一遍にくっついてくるような人物だしね。なんというか、幕末の勤王佐幕の行動などとの類似性を感じるんだよなあ。清河八郎みたいな山師や訳のわからない魑魅魍魎が、その場の野心で「きのう勤王、あしたは佐幕」とやってて、そして肝心のところでは裏切る、と。そういう風土的な土壌、地霊を京大や同志社にも感じるんだよ。

――それは呉智英さんらしい印象論ですね。いい意味で、ですが。でも、そういう部分はあるのかも知れない。少なくともそう思わせる程度に、京都の学生カルチュアって昔っからヘンですよ。学生とか大学の特権性が旧制高校的なまんま温存されてるような感じで。少し前までの京大の語られ方が典型的ですけど、それが大衆化で周辺の私大などにも拡散したんでしょうかね。そう言えば、京大西部講堂伝説、とかもありますねえ。

 関西、特に京都の学生文化は特殊な生成をしているし、学生がやんちゃで許されるということ自体はどこでもあることだけど、でも、京都は特に異様だよ。よそ者を排除するわりには「学生さんやから」と京都出身じゃなくても、学生を例外扱いする。多少無茶をしても何となく許してくれる、というような傾向があるんだよね。なんというかなあ、京都は全体的に、学生はんはあれぐらいはやんちゃした方が将来大物になりはるんとちゃいますか、みたいな感じがあったんだよ。

――東京で「学生さん」と言われる時と、関西弁のアクセントで言われる時の微妙な違い、ですね。あたしも育ったのが関西だったんで、大学で東京へ出てきてそのへんのニュアンスの違いは当時から敏感に感じてました。70年代後半でもまだありましたよ。

 うまく言えないんですけど、関西だと「学生」というのがそれ自体でモラトリアムとして公認されてる、って感じなんですよ。学生か、それやったらまあ、ブラブラして好きなこと言うとってもええわ、みたいな。でもそれって同時に、学生じゃなくなったらそうはいかんで、という暗黙の前提も含まれてるって感じでもあるんですよ。四年たったら世間出るのが当たり前で、その世間ってのは否応なしに商売の〈リアル〉の世界なんだぞ、という圧力っていうのかな。東京だと、良くも悪くももう標準語になめされちまってましたから、「学生」ってのがもっと漂白された印象だったんですけど、関西での「学生さん」の距離感ってのは別のものがありましたね。

 だからそのせいもあるんでしょうけど、やっぱり京都の学生カルチュアってのは、80年代半ばくらいまでまだ、東京の感覚でいうと70年代のまんま、ってところがあったんですよ。それこそ自治会とか左翼セクトとかが平然とまだ生きてて、年格好はこっちと同じような世代なのに、使ってる言語とかはもう未だに70年代、ってのに、びっくりしたことがあります。大きく言えば「書生」以来の学生カルチュアのありようにからんでくるんでしょうけど。

 東京でそういう学生文化が許されていたのは、せいぜいいくつかポイント、地域で残っていたに過ぎなかったしね。そのへん、ひとつには、東京と京都の大学の密度の違いがあるんだと思う。

 たとえば、早稲田なんかの大きな学校の場合、地元に金を落としてくれるから学生街が形成されるという面があるよね。もう一つは、これは今はもうずいぶん変わったけど、六○年代、七○年代あたりまでなら、たとえば上野の町で東京芸大の学生がクロンボ祭りをするわけだよ。体を黒く塗って、酒食らって町でストームをやっても、芸大生だから、しょうがないなあ、で許されちゃう。

――ストームね(笑) いやもう、すでに歴史的用語ですが。旧制高校以来、全寮制のホモソーシャル文化の最たるもの。東京農大大根踊りとか、日体大のエッサッサも同じようなもんで。


www.youtube.com


www.youtube.com

 そういうやつだよね。で、学生っていうのはああいうやんちゃをするもんだ、でも、あいつらは別に女を転がしたり、そういう街の愚連隊みたいな悪さはしないし、あれもまあ、学生らしいエネルギーの発露だ、というふうに街の側が、世間が認めてくれていたよね。早慶戦だってかつてはそういうものだったんだし。でも、それがいまやもう、あのスーフリとかになってしまったから、世間の側から学生ということでの信頼は得られなくなっちゃってる。

――書生から始まった近代の学生カルチュアがワンサイクルめぐって、90年代に至って終焉を迎えたんだと思います。それって、おそらく大学の自治会が溶解していったのとシンクロしてますよ。以前は文化祭なんか、自治会の財源だったわけで、それもまたお目こぼしだったのに、90年前後からどんどんそれが摘発の対象になってった。もちろん左翼セクトの資金源になってたわけで、そんなものもっと以前から片づけなきゃいけなかった問題なんでしょうけど、でも、そのことによって文化祭にあったある種の勘違いというか、世間と違うんだ、という約束ごとも一気に押し流されちゃったな、という印象があります。世間と大学の側が同じ水位になった。だもんで、それ以前は学内の統制は自治会なりセクトなりがからんで何とかなっていたものが、タガがはずれた分、そこらの街と同じようなことになって、だからスーフリみたいなサークルがのしてきたんだろう、と。ああいうのはかつての軟派と似てるようで、でも違ってるのは、学生カルチュアの約束ごとから全く離れてしまっている、その意味で街の不良と同じなんですよね。興行やってカネ稼いで、オンナ転がして、で、それをイベント屋まがいのところに上納までして利権化してた。自治会とセクトがなくなって、ただのチンピラやヤクザと同じのが跋扈し出した、ってのは、風営法や暴対法をいじったせいで街の治安がおかしくなってったのと、大枠ではよく似てると思ってます。