大学教師という「既得権」

 まだ院生の頃、初めて学会に行った時、懇親会で東大の院生たちがいるところへ連れてゆかれた。どういう経緯でだったか、学会の年会費を払わない人間が多い、という話になった時、同席していたひとりが「そんなもの、文部省に言いつければいいじゃないですか」と言った。みんな笑った。だが、僕はその意味がわからずキョトンとしていた。そばにいた別のひとりが、いやね、文部省に言いつければそいつに科研費がおりなくなるだろ、というオチをまるで小さな子供にでも言ってきかせるような調子で説明してくれた。ああ、こりゃもう本当に棲んでる世界がまるっきり違うんだわ、と、改めてひとり呆然とした。

 大学教師に任期制を採用せよ、という提言が、さる九月一八日に出された大学審議会の中間報告で出されたと聞いて、ふと、その時の東大の院生たちのたたずまいを思い出した。 アメリカの大学あたりのいわゆるテニュア(終身在職権)の制度を想定しているのだと思うが、そのような任期制を採用しなければもうどうにもならないような状況というのは、今のこの国の大学に確かにあると思う。その限りで、審議会の判断に異論はない。

 ただ、そのことを報道した記事の中の大学教師たちのコメントに、任期制を取り入れると現状では学内で気に入らない人間を排除する方便として働く可能性が高い、という懸念を示したものが相当あった。そのように発言していた人々には、その程度に自分自身そのような排除される側の人間になっているという自覚があるのだろう。で、同じ大学教師としての経験から、これもこれでかなりリアルな懸念だと思う。健康な自浄作用を支えるべき職業人としての誇りが失われているのは、何も官僚や政治家だけのことではない。大義のために敢えて私情を殺す、といった誇り高さを発動する前提がどこにもないのだ。

 いかに大学のセンセイというのは使いものにならないか、ということがこれだけ繰り返し報道されるということは、未だに大学のセンセイとは“立派な人間”であることを、たとえタテマエとしてでも世間から期待されているということでもあるのだろう。と同時に、『大学教師になる方法』といった本が意外な部数売れたりするのも、その背後に「ったく、うまいことやりやがって」という横目で眺める視線が世間のどこかにあるからだろう。その意味で、大学教師が何か特権的な職業と見られることも無理からぬことだと思う。

 ただ、同じ大学教師で「俺たちお互いにそういううまいことやってる立場なんだよな」という卑しい共同性を勝手に自明の前提にして議論しようとする手合いだけは、心から軽蔑する。きれいごとを言うつもりはない。定まった収入があるということがどれだけありがたいことか、そしてそのことがどれだけ精神的にゆとりを与えるものかは、恥ずかしながらずっとワープロ無宿をやってきた身の上、痛いほど思い知っている。

 けれども、だからこそ、なのだ。そういう卑しい共同性の内側にぬくぬくと安住しながら「大学教師」にしがみつくようなみっともない真似だけはしないですむようにしておきたい、と思っている。てめえとてめえの逃げられない関係にあるいく人かの人間たちの食い扶持くらいどんなことしたってひねり出してやらあ、と、たとえやせ我慢であれ言い放てるだけの何か具体的な根拠を持っていられるように自分を鍛え、整えておくこと、それが、このように学問とそこに携わる人間そのものへの信頼性が総崩れになった状況で、なおこの先「大学教師」をやっていく上での最低限の倫理だと思う。でないと、その“恵まれた”状況における健康な責任意識もまた宿りようがない。

 たとえば、昨今散見されるような、「啓蒙」はみっともない、説教臭いもの言いが気に入らない、などと言いつのるだけで、それらの感覚を含み込んでなお可能性の相において他者と関係を結んでゆく度量を自分のものにしてゆく努力までも拒否してゆく、最も悪い意味での痩せた価値相対主義者たちなどは、断言してもいい、何かの間違いで「大学教師」にでもなった日には、その瞬間からその“恵まれた”位置にいることの責任から眼をそむけ、世間との関係性の中でおのれを制御する努力を「学問の自由」の名の下にいとも簡単に放棄する。そして、僕のささやかな見聞の限り、今の大学という仕事の場で最もガンになっているのは、いつまでも気分だけは「青春」のまま、ものの見事なまでに型通りの「民主主義」を臆面もなく奉じて見せる、そんな人たちであることがほとんどなのだ。