「いじめ」を考える

 またぞろ「いじめ」が問題になっている。
 前々から言っているのだけれども、何でもかんでもこの「いじめ」ってもの言いでひとくくりにするのは、そろそろやめにしないか?
 もとは「いじめる」って動詞だったものが、「いじめ」って名詞に変形された瞬間から本来の文脈を離れて流通し、あれも「いじめ」これも「いじめ」とレッテル貼りしてすます安直さが蔓延した。とにかく「いじめ」とだけ言っておけば、個々のケースの具体的な事情や理由は見なくていい。最近、やたらと派手な「いじめ」報道が増えた背景には、そんなからくりもあるはずだ。
 「いじめ」には必ず理由がある。さらに言えば「いじめ」は不可避である。人間ってのは、集まればその本質として排除の論理を働かせるものらしい。学校であれ会社であれ、それは変わらない。大学の職場なんてほんと、ひどいもんだぜ。いい歳こいたインテリオヤジたちがそこらの中学生以下の「いじめ」をやらかして、てんで恥じないんだもの。 ただ、今どきの学校での「いじめ」の問題は、いじめられても逃げ場のないことだと思う。いじめられっ子には、いじめられて相手にしてもらう、という心弱さがどこかにあるから、おまえらなんか関係ねえや、と腹くくれない。
 じゃあどうすりゃいいんだ、って? そんなもん、いじめられてる奴に「おまえ、強くなったっていいんだぞ」って言ってやることしかない。
 「強くなる」ってのは何も腕力や体力のことだけじゃなくて、俺をいじめるこんな関係以外でも俺は生きてけるわい、と腹くくれるようになることでもある。二度といじめる気を起こさせないようにいじめる連中にきっちり立ち向かってカタつけようとする意志。だが、そんな「強さ」をを個人が宿してゆくことを抑制する仕掛けが、今どきの学校には装置されている。
 だから、「いじめはいけない」と善意丸出し、正義ヅラして言いつのることは何の解決にもならないどころか、むしろ「いじめ」を助長する。
 人間ってのは不条理にいじめることもあれば、プッツンきてぶん殴ることもあるし、煮詰まって自殺しちまうこともある。そんな難儀な感情の領域を持っちまってるもので、それは自分も同じなんだ、という穏やかな自覚を持てない不自由。「暴力はいけません」という大文字の能書きによって、人間時には殴ることもある、という現実への理解が奪われ、「差別はいけません」によって、差別をする生き物としての人間の現実がなかったことにされる。同じことだ。今どき「民主的」で「リベラル」に見えるもの言いが最も抑圧的なんだぜ。そして、この国のマス・メディアはそのようなもの言いを無自覚の前提として、日々動いている。