「団塊の世代」と「全共闘」⑨――「反米」と戦後左翼思想の起源

4.戦後左翼思想の起源

●「反米」――六○年安保世代と団塊の世代の差異

――話をまた少し引いたところに、いったん戻します。


 「反米/親米」ってのが最近また、クローズアップされてきてるじゃないですか。例の小林よしのり西部邁アメリカニズム批判をもとにした「反米」共闘戦線が、結局「つくる会」周辺から発した草の根ナショナリズム失地回復運動のあやうくもゆるやかな結合を分裂に導いたところがあったり、また、そこに至る過程でも同じく「保守」とひとくくりにされていた側の内部で、「反米」「親米」というモメントをめぐっていろいろと隠されていた違和があらわになってゆく過程があったわけで。

king-biscuit.hatenablog.com

 まあ、こういういかにも「論壇」的な解説というか整理自体、もうほとんど無効かも知れない、という思いと共にやってたりするんですが(苦笑)、ただ、それはそれとして、冷戦構造が崩壊して、国内状況的にも「戦後」が一応の終焉の過程に入ってきたことが明らかになってきた段階で、もう一度何か亡霊のように「反米/親米」という対立軸が浮上してきたことは、おそらく偶然じゃないと思うんですよ。アメリカニズム、というもの言いも同じ脈絡で持ち回られているし、そうか、やっぱり「戦後」のラスボスってのはアメリカだったのかよ!という感じになったりする。



 アメリカ、という表象自体、「戦後」の言語空間においてさまざまに持ち回られてきた経緯があるわけですから、そのへんも含めてもう一度、洗い直しておかないと、今のこの「反米/親米」という(かりそめの)対立軸にしても、ちゃんとした議論の俎上に乗らなくなってしまう懸念があるんですよ。

 そもそも「反米」という言葉は、六○年安保を経験した世代、つまり私たち団塊の世代より少し上の世代にとっては、戦前の反米感情と地続きになっている、という側面がまずひとつあると思うね。

 仮に一九三五年生まれだとすると、六○年の時二十五歳だから、つまり十歳くらいで学童疎開を経験し、空襲や爆撃、機銃掃射を受けた体験があるし、「鬼畜米英」という言葉も大人たちから聞いていて頭の中にある。やがて戦争は終わるんだけど、やはり自分の親父や兄貴が殺された、また機銃掃射で苦しめられた、といった記憶が残っていて、そういう個人的な体験を媒介にして、戦前と戦後の反米が意識としてつながっている、という構図があるんだと思う。

――たとえば、最近そういう「反米」論者の最も尖鋭なひとりである西部さんの「反米」の根っこにあるのも、そういう加害者としてのアメリカ、という原体験がありますよね。それは西部さんだけじゃなく、石原慎太郎なんかにもあるみたいですが。もっとも、石原さんの場合は、ほんとに機銃掃射を受けたかどうか疑問のところがないでもないし、何よりその「機銃掃射を受けた」というディスコース自体が「戦後」の枠組みの内側ですでにもうひとつのモードと政治性を帯びている、というところもありますが。

 西部邁(評論家/一九三九~二〇一八)の反米は、今の若い人にはよくわからないと思うよ。

king-biscuit.hatenablog.com

――西部さんは、今は知りませんが、以前は酔っぱらったら「お願いだからオジサンに戦争させてくれよお」とクダまいたりしてたんですよね(苦笑) もちろんその「戦争」と口にする時の、その向こう側には「アメリカ」があるんだろう、というのも痛いほどよくわかる。わかるんだけど、でも、たとえ韜晦交じりにせよそういう風に言ってしまう、そのルサンチマン自体は、当たり前ですけどやっぱりもうあたしたちの世代のものじゃないなあ、と。幕末の攘夷派なんてのもこんな感じだったのかなあ、とか思ったり。


 「戦後」においてアメリカが巨大な抑圧を与える源となっていたのは、何も今さら言うまでもないことですし、野坂昭如から大藪春彦落合信彦あたりに至るまで、ある世代の「戦後」のブンガクその他、表現の領域でも色濃く表われてるわけですが、その抑圧の強さと全く等価に、裏返しとして、なんというか天井の抜けたような解放感もあったじゃないですか。個人的には三木鶏郎なんかがずっと気になってるんですが、そういう「反米/親米」の入れ子になったありよう自体が、大文字の思想だの何だの以前に、まず個人の生活史レベルから腑分けされていないという感じがしています。

 そうなんだよ。反米感情と同時に出てくるのが戦後の解放感だったわけでさ。大人はうっとうしいことばかり言うけど、現に米軍は豊かさ、富というものを持ってやってきた。それはもうどうしようもないくらい具体的なものだったわけだけど、精神面での反抗精神とその具体的な豊かさとのそのアンビバレンツな部分が、戦後十数年たって六○年になってから「反米」という形であらわれた、と私は見ているんだけどね。

  

 ところがその後、団塊全共闘の世代になると、もう生まれた時点ですでに戦後になっていたわけだから、そういう六〇年安保世代まである程度共有されていた戦前からの反米とは、もう地続きじゃなくなり始めてたんだよ。

 

 ただ、それでも意識の底に、かすかに何かそういう気配が残っていることは否定できない。だって、私たちだって親の話を聞いてるし、また私の同級生でも、ぎりぎりで親父が戦死している人がいたもんね。八月十五日が敗戦だったわけだけど、その直前の、たとえば七月に死んでいる父親だと、その子供はちょうど私の年代に生まれていることになるわけだよ。

 たとえば、見城美枝子さん(ジャーナリスト・評論家/一九四六~)なんかがそう。私と同じ昭和二十一年の早生まれなんだけど、彼女、お父さんを見ていないんだよ。彼女を母親のお腹においたまま父親は出征して、沖縄で亡くなってる。彼女は早生まれで私より一年上の学年だけど、もう少し後、四月に生まれていれば私と同じ学年だったはずで、つまり私の世代にはまだそういう子供がいてもおかしくなかったってことなんだよね。

 

 つまり、団塊世代でもほんの僅か上には、幼児体験の中に「反米」感情がいくらかは残っているんだよ。ただ、それは少し上の六○年安保世代ほど地続きの感覚ではない。それが六○年の全学連世代との大きな違いだと思うし、その後の時代を大きく規定してゆくことになる個人主義、消費文明、享楽主義などの芽生えも、そこに元が辿れるという気がしている。

――ああ、その程度にはまだ戦争ってのは身の回りの体験と地続きだった、と。だからその分、「反米」という気分を支える前提もあり得た、というわけですね。


 今おっしゃったまさにそのへんが、思想家呉智英のスタンスのひとつ肝心なところだとずっと思ってるんですが、その戦争体験との距離感によって「戦後」を規定する個人主義や消費文化などの位相も決定されてきている、ということ、今の状況だからなおのこと、こういう認識を共有することがやっぱり重要だろうな、と思います。「反米」にしてもそんな戦争体験との関係で案分されてくるところがあるわけで、だから人によって現われ方だって違ってくる。またそれらは「戦後」というパラダイムの内側で宙吊りにもされてきてますから、いずれにしても、「反米/親米」だけをいたずらに強調してイシューにしてしまうことは意味ないなあ、と改めて思うんですよ。思想が身体から乖離してしまうというのは、後の「おたく」問題なんかにもつながることですが、その分岐点みたいなものも、実はこういう「反米/親米」をめぐる背景や文脈を見なくなっていったあたりともからんでいるように思います。

 その身体と思想の乖離が、乖離のまま生きていているのがたぶん私たちで、次の世代ではもう別になっているんだと思うよ。その意味で、私たちの世代がひとつの転換点だった気がするね。私たちの世代は、生活レベルでは別にアメリカ風でいいのではないかと思いながら、それでも言葉では反米と言うからね。それがさらに下の世代からしたら、なんだ、こいつらえらそうに言っても暮らしの豊かさは享受してきやがったんじゃないか、となるのかも知れないけど。いずれにしても、そういうアメリカ起源の戦後文化が個人主義、欲望肯定主義となっていった。またそれを実際に担保したのが、高度経済成長だったわけだ。