書評・稲垣尚友『十七年目のトカラ・平島』(梟社)

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 七〇年代のおわり、それまでの十数年におよぶ奄美・沖縄の島々をめぐる旅の果てにたどりついたトカラ列島の小さな島、平島。「原初」の生活にあこがれ、文明にどっぷりひたった自分から逃れようと棲みついたのだが……。
 島の暮らしを記録し、本にしたことから始まった騒動がもとで島を離れざるを得なくなって十七年。あの騒動の真実を知ろうと再び島に渡った著者の見た島の現在とは?
 この異色のノンフィクションを、民俗学者大月隆寛さんと読んだ。

十七年目のトカラ・平島

十七年目のトカラ・平島

――これはノンフィクションとして理解していいんですか。

「構わないと思いますよ。ルポでも記録文学でもいいし、専門的に言えばエスノグラフィーでもある。「民族(俗)誌」と訳しますが、何にせよ「現在」の誠実な記録です」

――いわゆる「南島」が舞台となっていますが。

奄美・沖縄などの南西諸島をわれわれは「南島」とひとくくりにしてきた歴史があるわけですが、近くは六〇年代にも「南島」が文学や民俗学方面で大きな関心を呼んだ。谷川雁さんや島尾敏雄さんなどの仕事がそうですし、また、文化人類学もまだ海外調査が難しい頃で多くの人類学者は「日本」の中の異文化としての「南島」をめざした。そしてそれらの背後に、後の海外放浪にもつながるような志向で「南島」に行った若い世代もたくさんいたわけです」

――当時「南島」に関心を持つことは、そういう「底辺」や「辺境」の現実を知るという意図がどこかにあった。

「そういう時代の雰囲気の中でかつて著者も「南島」と関わった、そこからこの本も始まっている。タイトルに「十七年目の」とあるように、著者自身がかつてある時期棲んでいた平島という島を再訪する、その旅の記録です」

――著者にとっての平島を再び探してゆく作業でもある。

「と同時にそれは、平島という小さな島の人間関係の中に著者がかつてどのように棲みこんでいたのか、そしてそれが今どう記憶されて語られているのか、といった視点から平島の「現在」を語ってゆくことでもあるし、何より著者自身を再発見してゆくことでもある。私的な関心が島の歴史にまで開いてゆく、ちょっと不思議な文体です」

――確かに、どこか謎解きのような緊張感がある。その意味ではよくできたミステリーのような印象もありますね。

「最初、当時顔見知りだった人たちは「おお、ナオ」とまるで十七年という時間がなかったかのように接してくれる。しかし、少し滞在しているとやはりその間に時間は確実に流れているし、変化と全く無縁に過ごしていたわけでもないことがゆっくり見えてくる」

――今の日本の地方の村なり町なりで大なり小なりおこっていることが、この島でもおこっている。

「そう。その程度に島もまた「現在」に巻き込まれて存在している、そのことを改めて確認してゆく過程がよくできた小説のように語られてゆく、そこが一番の味だと思います」

――しかし、日本のような情報化の進んだ社会では、どんな田舎でも僻地でもそういう「現在」の波から無関係でいられないのは、当たり前だと思えるんですが。

「全くその通り。でも、その当たり前のことが、勝手な思い込みを背負うとわからなくなって、あらかじめ見たい現実しか見なくなってしまう」

――なるほど。初めにイデオロギーありき、のルポや記事は少し前までたくさんあった。

「学問も同じですよ。個々の思想以前に、学問という看板自体まさにイデオロギーだった。ただ、それがバレることが少なかっただけでね。たとえば、こういうエスノグラフィーはその人の若い頃に書かれることがほとんどで、当人にもまわりにもそれが青春のモニュメントみたいになって聖域化されてしまって、青春の旅が終わった“それから先”を書くことはない。だから、これまでこういう試みはまずなかったんです」

――なぜですか。それをやれば学問もジャーナリズムと接近してきて、「現在」の役に立つようになると思いますが。

「それはかつての自分を見直すことでもあるわけですよ。それだけ思い入れを持って平島に行ったことが、当時の島の現実の中でどう見られていたかについて今だからこそわかることもあるわけで、そういう意味で自分自身を検証してゆくことを要求されるから、よほど強靱な方法意識がないとしんどい。これまでは「たったひとつの真実」めざして書くことだけが学問の作法だったから、一度自分が文字にしたことをくつがえすようなものは書きにくいという面もあるでしょうし。それは、たとえばベトナム戦争の記録などをめぐってジャーナリズムの分野でも起こっていることじゃないですか」

――「現在」に直面することは「書く」自分の立場を省みることにつながる。海外ではそういう仕事はあるんですか。

「結構ありますよ。またそれをめぐって学問にとっての「書く」ことの意味が新たな議論の出発点になってる」

――どうして日本ではそういう仕事が出にくいんですか。

「これは近代の日本語の成り立ちにも関わると思いますが、書き手は「書く」ことの社会的意味を実践的に計測しないですんできた。つまり、「書く」自分の立場について方法的に自省しなくてよかったから、「書かれたもの」となったところからそのテキストも含めた新たな歴史が始まるという腹のくくり方の訓練ができていないんです」

――「書く」ことはゴールでなくて始まりだ、と。

「そうですね。その覚悟から自己言及してゆくこういう作業が、学問にも文学にもジャーナリズムにも、今最も必要なんです。オビに「すぐれた記録は、おもしろい物語になる」と書かれていますが、まさにそう思いますね。記録と物語を前向きに結びつける試みとしても出色の仕事です」

*1:冒頭は担当Iのリード。聞き手の彼によるインタヴュー形式の書評というかブックレヴュー企画。いまや小学館のボスとして君臨するようになったというI氏も、この頃はまだウブさの残る同時代の若い衆のひとり、だったらしい。171126