「志」という危うさ

 去る2月24日付の『朝日新聞』に、「どこへいった高級官僚の志」というタイトルで佐高信城山三郎両氏の対談が掲載されていた。

城山 日本の官僚は、有能であるといわれてますね。それと他国と比べて信頼度が高かったのは、何より清潔だということでした。今や清潔でもないし、いろいろな問題の処理の仕方をみていると、有能ともいえないし、何が取りえだろうと言いたくなる。

佐高 私は上半身スキャンダルと下半身スキャンダルに分けてるのですが(笑い)、これまで大蔵官僚には下半身スキャンダルはなかった。ところが、中島や田谷でびっくりするようなのが出てきた。しかも、大なり小なりみんなやっているんじゃないか。それに上半身の政策の過ちも重なって、上半身と下半身は通じているわけです。

城山 今は、右手に権力、左手に私欲ですよ。

 年齢的には城山氏が六〇代末、佐高氏が五〇代始め。そのような世代的な背景は考慮しなければならないにせよ、今の国民の最大公約数の“気分”を反映させた内容であり、時期的にも適切で、薄味なものになりがちな新聞対談としては悪い企画ではなかったと思う。

 ただ、その中に次のような城山氏の発言があり、佐高氏も同調している個所がある。

城山 (かつての官僚は……大月註)志で結ばれているんだよね、男と男が。官僚がよかったのは、志というものが原点にあった。

 言いたい気持ちはよくわかる。そしてごく素朴なところでは全く同感でもある。あるが、しかしこのような「志」というもの言いをこのように直載に持ち出すことの危うさもまた、今のような状況だからこそ懸念しておきたいのだ。

 敢えていやな言い方をしよう。この「志」とは実体としては「勝手な思い込み」と置き換えても構わないようなものでもあり、その限りでは「勘違い」かも知れないものである。だからいけないというのではない。むしろ逆だ。そのような「勝手な思い込み」がないことには、「国」だの「国民」だののために働く、といった心情は宿りようがないし、その意味では現実に役に立つ「勝手な思い込み」や「勘違い」をうまくドライブして共に支えてゆく知恵というのも社会には必要なのだと、僕は思う。

 だが、今のこの国の状況で、そのような「勝手な思い込み」としての「志」を手放しに称揚することは、ますます官僚の自閉を促進することになりはしないだろうか。わかりやすく言えば、そんなものオウムの幹部連中のような「勝手な思い込み」や「勘違い」とどこが違うのだろう。彼らを「ひとりひとりは真面目な若者」としか表現できなかったメディアの不自由なども、そのような「志」を称揚する意識と同じ基盤に根ざしているのだ。

 ことは官僚だけのことではない。政治家も全く同じだし、大企業の経営陣も同様。さらに言えば、医者や、弁護士や、大学教授や、技術者や、とにかくそのようなこれまで「エラい」とされ、それに見合った信頼がたとえ約束ごととしてでも付与されてきた立場というものが軒並み権威失墜し始めている。これは最も構造的なところでは、これまで「志」という「勝手な思い込み」や「勘違い」によって支えられてきた「エラい」が、もうそのままでは立ちゆかなくなっていることに他ならない。

 たとえば、黙って自分の職務を全うしていればいい、それが最も信頼を得る道なのだ、といった職業倫理があった。今もある。黙々と仕事をすることの美徳。それは「男」という表象と密接に関わり、この国の「あるべき人間」のイメージの中核に位置してもきた。

 だが、その黙々と仕事をしてきた結果というのは果たしてどのようなものだったのか、ということが、今や次々と暴露され始めている。それは何も、これまでそのように黙々と行なわれてきた仕事が間違っていたというのではなく、その黙々と行なわれる苦労をそのままで評価し、意味づける世間の視線がなくなってきた結果という面が大きいのだと僕は思う。だからこそ、そのような状況の中でなお役に立ち得る「勝手な思い込み」のありようを考えねばならない。だが、少なくともそれは「志」といったこれまでのもの言い一発で立ち上がるような、そんな簡単な状況ではなくなっていることもまた確かなのだ。