「消費者」の横暴

 

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 武豊佐野量子の結婚式が大々的に報道された。騎手のプライベートがここまで大きなニュースになっちまうってのも、やっぱりそういう時代なんだな、と改めて思う。

 競馬も今やテレビ中継が多くなり、そうなるとレースに勝つのはいいけど、そのたびに眼に星散らした女性レポーターなどに「いま、馬にどんな言葉をかけてあげたいですか?」てなアホなことを尋ねられて困る、と苦笑する騎手や調教師や厩務員たちがいる。よくわかる。日々仕事で競馬をやっている現場の人間は、いちいちそんなことを考えてられなかったりする。早く控室あがって汗拭きたいんだけどなあ、と思いながら、それでもひとまずにこやかに応対して「よく走ってくれて感謝しています」てな無難なことのひとつも言わなければならないのが仕事になっている。馬主でも旦那でもない、レンズの向う側にいるらしいというだけの、直接には何の利害関係もなく顔も知らない不特定多数の「ファン」の勝手な思い込みにまでひとまず律儀に付き合おうとしてみせるのも、今や彼らの仕事のうち。競馬に限らず、野球でもサッカーでも相撲でも、いつしか集中治療室の患者のようにメディアのスパゲティ状態になったこの国のプロスポーツのプレイヤーである、というのはそういうことだ。で、その身振りの向う側に、等身大の現場の感覚は言葉にもされず押し込められたままになってゆく。野茂や貴の花らのメディアに対するあの無愛想なども、きっとそこらへんと深く関わっているはずなのだ。

 実際に会ったことはないけれども、武豊ってのは平然とそういう仕事をこなしてゆける「自分」を持っているらしいという意味で、明らかに新人類なんだろうと僕はずっと思っている。言い換えればそれは、その「自分」の内側を「ファン」の視線にうっかりさらすことなどしないだろうという意味で、今どきの中央競馬とJRAにとっては理想的な人格の持ち主なのかも知れない、とも思う。

 消費者の横暴、ということを思う。あるいは、素人の居丈高、とか。「抜きん出たものを見せていただく」という謙虚さの上に成り立つ〈その他おおぜい〉の観客本来の剛直さはそこにはない。「ロマン」でも「夢」でもいいが、自分の勝手な思い込み通りに現実が描き出されることに居直り、その思い込みを不用意に世間に垂れ流す不作法を加速し肥大させる装置としてのメディア。全てを言葉にしないでいいからこそ成り立っているそのような現場のリアリティに対して謙虚になれないということは、おのれの仕事の現場に対しても無自覚ってことに他ならない。何もスポーツに限らない。今のこの国のジャーナリズムの頽廃ってのは、きっとそういうことだ。*1

 困ったことに、今やそのような現場を裁量する主催者であるJRAの職員まで、そこらの「ファン」と全く同じそういう消費者に過ぎないことがある。「年寄りの調教師はほんとにバカですよ」と平然とぬかす若い競馬記者に出くわして眼が点になったことがあるけれど、それと同じ。「現場」の感覚に無自覚な傲慢さだ。どういう勘違いだか、今や大学生の就職希望人気企業だっていうけど、ほんとに大丈夫なんか、JRAって。たまに仕事で行き合うくらいだけど、イケイケの広告代理店かオウムの幹部みてえなツラした若い職員が多くなってるような気がして仕方ないんだけど。

*1:掲載されたのはここまで。以下、赤字は草稿段階で落とした部分。