業界の常識――あるいは「壇」のゆくへ

 

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 「文壇」だの「論壇」だのはもうとっくに滅びてるのは自明です。「壇」に見合った共通利害も見えなければ、同志意識もすでに希薄。何より「文学」自体の権威が失墜してますから、いまどきそんなものがある、あるいはあって欲しいと思うのは、その「文壇」によっておのれのアイデンティティを保たれているようなバカばかり。それこそ新宿三丁目の数軒の飲み屋、半径数百メートルの狭い狭い世間が全てと勘違いしているような物書きや評論家、編集者十数人によってかろうじて保持されている幻想に過ぎません。

 去年細部に至るまで暴露された田口ランディの「盗作」沙汰に典型的なように、仕事しての物書きの最低限の常識までが崩壊しているのがこの業界のいまどき。その最大の理由は、ひとつにはおそらく出版から放送にいたるまで、大手メディア稼業の収入が高すぎることにあるように思います。「おいしい思いしてるから、まあいいや」という薄汚い共同性が共有されて、内側から自浄作用が働かないのは永田町や霞が関と同じ。実感に乏しい高収入が保証される第三次産業のギョーカイ労働は、昨今批判の的の金融関係や高級官僚並みの特権階級。逆に当のもの書きの多くは出版不況ともあいまって、原稿料や印税じゃとても食えなくなっているのが現状なのですが、特権にあぐらをかく連中はどんなに職業倫理が腐敗した中にいても、自らそれを改善しようという気持ちは起こらないようです。

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 「おいしい思い」がいけないのではない。問題は、その「おいしい思い」に見合った仕事をしているかどうか、それを計測する器量がなくなっていることです。儲かればいい、というのは資本主義社会のある種の真実ですが、しかしそれが全てではない。「文壇」が読者=市場の信頼を回復するためには、この素朴な約束ごとにどれだけ身体張って忠誠を誓い、それぞれの仕事の場で状況を変えるために闘ってゆけるか、だと思います。